気持ち。
2年前と何も変わっていない。
3年前とも変わっていない。
5年前の、この時のまま
ただ、今あるままに。
(そしてブログ記事は丁度 1,100個目)
カテゴリー: 【シゴト】Digital Works
Big Week
今週一週間は非常に大きな一週間でした。
デジタルハリウッド大同窓会~一泊二日帰省~W大合唱団四十期生大同窓会~かみさんの誕生日。と。
過去形じゃなく、今まさに、本日まさに誕生日なのだが。
まあそれはそれとして。
ちょっと自分の中も剥き出しになってたようで、琴線もうごきまくり、感じることも多々ある一週間でした。とはいえ何か決断したわけじゃありません。「よし!こうしよう!」なんて決めたことは大体空虚に終わるのだけど、じわじわと染み込んだ事はいつも自分の糧になります。なので、「この一週間でこう感じました」なんて言わない。だけど、きっとこのあわただしい4~5日の中で、一度でも自分の生き方が変わったんじゃないかな、と思います。ずっと進んだとき、この1度が大きな差になります。上とか下じゃなくってね。
向上心、なんて奴は持ち合わせていないのですよ。あいにくね。
とにかく、家族、友人、会社、それぞれが一同に会するイベントが重なったので、大事にするべきものが何か見えてきました。詳細はまた後日!
(写真は実家に戻ったときの極寒の駅。この時期はいつもこんなものだ)
千のナイフ
昔の坂本龍一を聞きながら、過去のメールを整理整頓。
5年前、今の会社に勤め始めた時のものも沢山出てきた。
家庭環境も職場環境も、5年も経つと大きく変わる。
一緒にいた仲間の姿がメールから浮かび上がってきた。
やっぱり、僕のやらなければいけないことはコレしかない、と、自分の立ち位置を再確認できた。
なんて真面目に書いてるけど、やってる事は煙草と珈琲まみれのただの夜更かし野郎なだけなのだ。
不良中年。ちゃんと全うできているのかな。
一区切り
木鶏には程遠くて
毒を吐く、と云う行為は全く持って好きではない。好きな人もそんなにいないだろうけどね。
また、強烈な言葉、辛らつな言葉をこのブログに置くのも、本音は心外な部分があります。
今日の記述は、仮定の話も含めて、自戒も込めて、のお話。
このように思ったのはもうずっと前の話です。最近の僕に「何かあったの?」と言われても、何も無いんだよね。いや、時間を掛けて風化させる、濁すためにもちょっと時間を空けたのです。
自分の中でも消化できると良いなぁ、と思ってたのですが、いかんせん、半年以上経っても、気持ちに変わりは無いままで、このまま風化を待っていても、詮無い話だなぁ、と、感じていました。
心にとどめていたことでもありますが、今になって、やはりそっと認(したため)ておこうと決意しました。
僕が最も忌み嫌うもの。そして生きていくうちで自戒をこめて、踏み外さないようにするロードマップとしての境目が「無視」と「嘲笑」と「侮辱」です。
生きていると、どうしてもいろんな過ちを犯してしまう。僕だっていつどこで、誰の気持ちを殺めているかわかったものじゃない。その懺悔の気持ちもずっと持ち続けていないといけない。
ただ、気持ちとしては、誰かを「無視」「嘲笑」「侮辱」することは無いように、無いように心がけていかなければ、とはいつも思っている。これらの言葉、これらの行為はそれほどまでに強烈なもの、です。
人は、過ちは許すが、侮辱は生涯許さない。
だからこそ、僕は人に敬意を払っていきたいのです。
僕もまた、然りです。
僕や、僕の家族に対しての侮辱だけは、今まで起きたことも全て忘れることができません。赦すことは、なかなか、できない。僕はまだまだ弱い人間です。その場で噛み付くようなことはない程度の節度は持っているけれどね。
社会のなかでは、僕は人の気持ちを殺めないためにも、なるべく蔑まれてもよい様な風体を演じるようにはしています。もちろん一対一で接するときは、自然に、対等に、礼儀をもって接しますけれどね。
これがまた残酷なもので、僕が下に出ると、その段階で、人に敬意を払う人、やさしい人、そうではない人が露骨に見えてしまうのです。僕のこの「私を蔑んでも私は平気ですよ」的な風体を真に受けて、蔑む人の如何に厚顔なことか。
あくまで仮定。僕が、家族が、侮辱されるような事があったと、して。
事実かどうかは僕の心の中に閉ざすべきもの。
僕は侮辱を許さない。例え軽率さから勇み足をしてしまったものだとしても、その行為を行う人からは、成長や人間性、教育、社会貢献と言う言葉を素直に受け止めることはできない。協力して、応援することができない。
もちろん、仲間に対してであれば「それは侮辱だ」と訴えて、やりあう事で襟を正すことも必要なのでしょうが、過ちはまだしも、侮辱した相手に対してはそれをする必要はあるのかなぁ。僕は伝えたり、成長を促したりする必要は無いと思う。その後はずっと、朽ち果てるまでにこやかに見届けるだけ、でいいんじゃないかな。それ以外には何もできないよ。気付いて、泣いて謝られても、結果が変わるわけじゃないからね。
僕に改めて自戒の気持ちを呼び起こさせてくれた、この出会いには感謝する。
出会いが無かったら、僕が傷を与えられる前に、僕自身が誰かを傷つけていたかもしれないからね。
僕が人を侮辱するくらいなら、僕が侮辱されるほうが、全然ましです。そこまで堕ちるつもりはないよ。
侮辱された、と感じたら、もう二度と元に戻ることは無いのです。
僕は誰でも、助けられる限り助け、サポートできる限りの人をサポートしたいと思ってますが、
数少ない、僕と僕の家族を侮辱した人にだけは、そっと手を引きます。たとえその人が沈没する船から助けを求めていたとしても。そこに罪悪感はありません。
まあ、僕に助けを求めてくる人はそんなにいないですけどね。
でも、人生どこでどうつながるかわかりませんから。
やればわかる やらなければ一生わからん
学ぶということ。>n-academyに入学しました。
デジタルハリウッドの総合Proコースを卒業してみて。
やっぱり「学ぶ」と言うことの効果は偉大だと実感しました。
なぜ今までやってこなかったんだろう。(気後れと変なプライドのためです) (そしてお金を酒や女性にばっかり使ってきたからです)(女性にはそれほど使ってません)(もっと使えとかみさんが騒いでいます)(気にしません)(むしろ貴方は女性という範疇には)( )(骨折しました)
学校で学ぶ、ということの凄さ。そしてそれを体感したら
学び中毒になりそうでして。
前回はクラス制、というか、学び舎でクラスメートと共に飲みまくる、じゃなかった学ぶスタイルを経験しましたので、次はオンラインスクールを体験してみようと思い
n-academy
に入学しました。
「徳永友一シナリオ創作講座」
もともと今年後半は文章関係の勉強をしたいと思っていたのですが、いろいろご縁があり、この講座にぶつかりました。早速内容についていろいろ伺い、企画にも脚本にも活かせるという事でこの講座を選びました。
今まで脚本とか、書いてきたことはあるけど、大学で学んで以来文章については専門的に何もやってきませんでした。文章を人に教わるのは15年ぶり、とかかなぁ。
12月10日開講、今から楽しみです。
あ、15年ぶり、っていうのはちょっと嘘。
Web用のライティング講座を受講したことがあります。
Webライティング基礎 ~読まれる!伝わる!!文章を書く~
自社宣伝になっちゃいますが、これまた凄かった。詳細はまた次回!
卒制の発表にて
今日もまた卒業制作の話。
卒業したてでセンチメンタルなのよ。
いやね、僕が通ってた学校の授業、最後は「制作発表会」として、自分の作品をプレゼンする時間が与えられているのです。まあ、DH関係者なら自明のことですが。それ以外の皆様もブログ見てますからね。
で、昨日は僕も自分の作品をプレゼンするに至ったのですが・・・
自分のプレゼンのとき、実は僕は自分でも思いがけない事を言いだしたのです。
多分緊張してたんでしょうね。僕なりに。
その自分の言葉が、今思うと非常に「俺良い事いった!」と個人的に感銘することだったので、改めて忘れる前に記載しておこうと。思いまして。
当然、アドリブで説明したことなので、詳細は違ってるかもしれませんが、要約すると
「ここにいる皆さんは、転職やスキルアップなど、様々な転機に向けて、それこそ『命』を賭けて卒業制作を創ってきたものだと思います。この作品を他の会社に持ち込んだりするわけですから。」
「その中で、じゃあ僕は?と言われたときに、僕は転職を全く考えていないし、自分の人生において、この制作をするかしないかが業務とはあまり関連しない。」
「ならば、遊びでいいのか。適当でいいのか。といえば、それも絶対に違うと思いました。皆さんが『命』を賭けて創ってきた卒業制作を公開する場で、僕も同じように時間をもらうならば、やはり僕も『命』を賭けなければならない。それが礼儀だろう、と。」
「というわけで僕の『命』が懸かったけんかやまのサイト見てください」
と、基本的には僕の暑苦しさを演出するための前口上だったのですが、今日になってふと見直したときに、自分で納得したんですね。
でも、これ、僕が思いつきで言ったわけではなく、僕の敬愛する棋士・米長邦雄さんのポリシーそのままなのですよね。
人間における勝負の研究-米長邦雄
名前がちと恥ずかしい本なので、あまり愛読してると公表したことは無いですが、十代の頃から何度と無く読み返してました。
「自分にとってはどうでもいい試合でも、相手にとっては人生のかかった勝負、というようなときにこそ、手を抜かずに、自分にとっての大切な勝負のとき以上の気持ちで全力を尽くせ」という米長哲学。
できているかどうかは別として、このポリシーを大事にしたいと思ってます。
いやいや、卒制は決して「どうでもいい」訳じゃないんですけどね。
今回の卒業制作、ぶっちゃければ「僕が好き過ぎるから愛情込めて作った」ことに他なりませんが、クラスメイトの皆さんと同じスタンスで、魂を削って作り込むができたんじゃないかな、と思います。(でも実際の製作期間は一週間ほどだったことは内緒)
その気持ちをもってプレゼンを行いました。
きっと、人生を賭けた制作に対して人生を賭けて応えれば、必ずいい事が返ってくると信じてます。お天道様はちゃんと見ているのです。
卒業
デジタルハリウッド渋谷校
総合ProコースWebデザイナー専攻 09年1月クラス
本日を以って、山本、全課程修了しました。
本当に、ありがとうございます。
いや、ここまで受講すること自体、いろいろ葛藤はあったのです。
そもそも通ってる場合ちゃうやんけ、とか
今更あなたWeb学んでなにするの、とか
それこそ、いわれの無い風評含め、仕事も忙しい中、辛い日々もありました。
それでも、「今、やっておいたほうがいい」と、逆風を全て撥ね退けて防波堤になってくれて、後押しをしてくれた上司、そして「今だからこそ、お前は受講という形で力を蓄えて、大きな視野で備えてくれ」と語ってくれた先輩。
僕が授業を受けること。
僕がWebを学ぶこと。
その意味を真に理解してくれている皆さんのおかげで、今日に至ることができました。
そしてもちろん、受講期間、守ってくれた渋谷のスタッフ。
皆さんのお力があって、修了できたものです。
これは、全てこの会社、学校の発展という形で寄与していきます。
3年前、自分の妻にもデジハリに入学してもらいました。
「してもらう」というのも横柄な言い分ですが、当時の彼女の病状にとって少しでもリハビリになればと思い、僕が決断したものであります。
それこそ、受講期間中の成長も、学校のフォローも良く知っている中で、支払った価格以上のものを吸収してもらうことができました。「ここはやはりいい学校だ」と心から思えました。
この学校のよさを、もっと知らないといけない。魅力を知らないといけない。
開発をするとしても、運営をするとしても、大雑把な性格の僕だからこそ、時間を掛けて末端まで知り尽くす必要がある、と、その頃から思っていたのです。
現場を知るには遅すぎる。もっと他に学ぶこともあるだろう、という葛藤もありましたが、そうじゃない「全て学んでおく必要があるのだ」と、会計学や実学と共に、平行して学ぶ必要性を強く感じたのです。
そもそも、僕は学校で何かを学ぶ、という経験がありませんでした。
高校時代も劣等生で、昼からしか授業に行かず、一時間ほどで帰ってくるダメ生徒でしたから。
大学は言わずもがな。
「学ぶ」ということ自体に対する目線の構築と、実際の現場を知る気持ち、そして自らの知識のブラッシュアップ。
「学校」を自らの現場とするからには、最低限抑えておかなければならないベースをつくらなければならない。それも早急に。
そのためには「外部で授業のスキルを訓練された経験を持つ講師」且つ「Webの最先端のスキルを持つ講師」且つ「母校の卒業生である講師」のクラスがあることが必要でした。
今回、この項目を満たす講師が登壇するとわかった時点で方針を決め、受講を決意しました。その行動は間違っていなかったようで、自分の職域の中で、大きな「気づき」をすることができました。
学ぶこと、その大事さを、その偉大さを、改めて知りました。
そして、制作という仕事についていた事がありながらも、どこかで捻くれて、ハイクオリティを望まなくなっていた自分。
これを打ち破ることができたのも、このクラスで学んだこと(及び、平行して師匠となってくれたWさん)の大事なポイントです。
がむしゃらに、追及していいんですよね。
ぎりぎりまで、最後まで搾りかすを使い果たして創る、という崇高さ。
「費用対効果」「選択と集中」という効率化の波の中でビジネスを行う中、全く反面にあたる「最後の一滴まで貫き通す」ことにちゃんと向き合うことができ、バランスを取って付き合えるようになってきたと思います。
これからも、がんばるよ。
卒業を経験して、達成感と共に、ひとつの学びに区切りがついたことに寂しさも感じる夜でした。
ちなみに、僕の卒業制作
http://www.kenkayama.jp
ID:yamamoto
PS:僕の下の名前(6字)
写真他、著作権的にはまだ問題があるので、ID/PSで公開です。
来年の祭りで写真が撮れたら、一気に公開いたします。
幸せを感じること
自社自讃して良いですか。
時に、幸せだなぁと思うことがあります。
僕は今、「講座/授業」と呼ばれるサービスを提供する会社に勤めており、講座の広報に関する仕事を主に引き受けることが多いです(それ以外も多々ありますが)。
その中で
・自分が広報している、その授業を(もう一度)受けてみたいといつも思える。
・実際に受講をしてみた経験から言うと、心から満足できた。本当にいい学校だと思えた。
宗教じゃないですが、自分が実際に好きになれないモノ、信じられないものは当たり前ですが人に勧められるわけがありません。
まして精神的にお子様な僕が、金のためと割り切ってマガイモノの商品を人に進めることは出来ません。多分お腹が痛くなります。
でも、自信をもって、本当にいいものを紹介している、と胸を張っていえる事、誇りをもって仕事が出来る事は、我ながら幸せなことなんだなぁ、と感じます。
デジタルハリウッドはすばらしい学校であり、会社です。
その場に居られることは、やっぱり幸せなことです。
今日、僕は年を重ねます。
自分の人生の節目に、まず何を思ったか…「この家に生まれて、この家族、この友達と一緒になれてよかった」ということと同時に、「この会社に居てよかった」ということでした。
(家族友人に関して語るとまた長いので別途ね。今日は会社側の幸福。)
畢竟、僕は会社人間にはなれないのですが、(最終的に我儘すぎる「世界は自分中心主義」な僕ですが、『俺様が惚れたこの会社も、一緒に世界の中心に来い』的な意味で)忠義の心、というものを改めて見直してみました。(この書き方だと全然忠っぽくないな)
このみんなと共に居られて感謝です。
ただ、時代によって「良かった」の質は変貌していくから、授業の姿かたちにこだわることなく、常に「自分に嘘をつかないで済む」授業を展開し続けていきたいと思います。心から、良いと思えるものを。心から、何処よりもすばらしい場所であると言える学校を。
そのためには僕は自分に甘すぎるんだけどね。ええ、はい、もちょっと大人になります。もう18歳2人分の年を重ねてるわけだし。このおっさんなんとかしてくれや。