メッセージレストーク

Jack in the Box
コミュニケーションにメッセージは必要ない。
メッセージのなくとも、伝えたいことはなくとも、それでも会話は出来るはず。
他愛も無い相槌、微笑み。散らかる単語。フィーリングだけで進む言葉。韻とリズムと、声の響き、そして何よりその場の心地よさが内容よりも重要視される、そんな会話。
メッセージのない状態で、言語でコミュニケーションをとること。
これをお互いに飽きずに続けられること。それが人とのつながり、そして信頼の礎だと思う。
・・・僕のように中身空っぽの人は普通にできます。ええ、何か。
ブログは暑苦しく伝えたい事満載でお届けしております。

アルバイトの選び方

Tumblrより転記。もっと言うならば元はTwitterだ。
hiroto_999: 「大学時代アホみたいにバイトしてたけど、これって親が高い金を払って買ってくれた時間をバイト先の会社に安く売ってたのと同じだと気がついた」 っていう社会人の言葉にはっとする俺。 っていうつぶやきに関するリプライがあまりに多いので、ちょっとだけおいらの意見を。 [http://twitter.com/hiroto_999/status/78445735879786496]
hiroto_999: 大学は勉強するとこではありません。すごくリアルな言い方をすると、四年間の自由な時間を親に買ってもらったのかも。だから、その時間をお金を得るためにバイトばかりに費やすのはやっぱなんか違う。もったいない。 だけども、座学以外の何か生きた体験を得るためにある程度の金が必要なのもまた事実 [http://twitter.com/hiroto_999/status/78445818876657665]
hiroto_999: だからアルバイトは人との関わりが濃いバイトをしなきゃもったいないのかも。友達が言ったけど逃げのバイトじゃなくて攻めのバイト。 そこで得た最小限の金を握りしめて最大限の生きた体験ができたらベスト。 俺はできてないけども。笑 [http://twitter.com/hiroto_999/status/78446445287571456]
 以上、引用終わり。知らない方のツィートですが、気になっていました。
大学に入るまでバイト禁止の家に育ち、大学に入ってからもろくに「労働」と言うものに価値を見出してこなかった。
それでも、変なコダワリはあって「絶対に家庭教師と塾講師だけはやらないようにしよう」と思っていた。
実家が学習塾をやっていたこともあって、「実家帰ればできるじゃん」と思えることには価値を見出せなかった。
その根底にある気持ちは、この転記した記事。
僕が大学時代に言葉にならずとも思っていたのは、こういうことだった、のだと思う。
お金が欲しくてバイトをする必要は無い。それは、根底には両親に対するとてつもない感謝と庇護があるのだけれど。(それでも飲んだくれて素寒貧だったけど)
それを踏まえて、だったら大学生活をしっかりと満喫すること、自分の人生に根を生やすことこそが、両親への恩返しだよね、と不遜にも思っていた。
今思えば「お前もう少し社会見ろよ。で、もっと勉強しろよ。」と心から自分を叱責する部分も大いに非常に多々としてあるのだが、それはそれ。もう一度大学生に戻れ、と言われたら、今の知識と経験を持ったまま、多分全く同じように家に篭って本を読んだりデートしたり朝まで酒飲んで語る毎日を送ることになると思う。変わるとすれば、昔よりは授業の価値を理解して、受けたい授業をもっと受けるようになることくらいかな。特に文化人類学と言語学と経済学はもっとやりこんでおきたかった。
大学時代にやったアルバイトは、読売新聞の世論調査、赤坂見附のランジェリーパブ・ウェイター、新大久保の牛丼屋、深夜のビル引越し屋、コンサートの警備員(布施明とか)…もっとやった記憶もあるけど、大きなところではこの辺か。
実入りはそれほど大きくなかった。けど、「攻めのバイト」を選んでいた自信はある。一番一般的な牛丼屋だって、基本深夜シフトなために麻薬密輸や取締りやアングラな皆さんとの遭遇など様々なものを目の前で見ることができた。うん、もちろん僕はやってないよ。
もっともっとたくさんの事も出来たのかもしれないけれど、とりあえずアルバイトとしては満足。アルバイトをする為に上京したのじゃない、と言う気持ちもちゃんと持っていた。
今思うと、本当にうちの両親の「学生としてのあり方」の教育は間違ってなかったのだな、と思う。一般的には正しいのかどうか知らないけど。
話を戻して。
でも、危険な事に、刺激を求めて仕事をしてると、大人になってからもその癖が抜けなくなります。
今も変わらず。どうしよう。これ。

「つまるところ、私は人生には向いていない人間なのだ」

 正月明け。一人放蕩ついでのミギリ。当てもなく山谷界隈を散歩してきました。
san_ya.jpg
山谷 @ Wiki
 簡単に言うと、旧来から存在するドヤ街です。
 なんの理由があって僕はそこに行くのか・・・。
 自分自身、どこで生きていけるのか。
 まだ僕の肉体は通用するのか。
 どういう生き方までできるのか。
 それを時々知っておきたい、と思うのです。
 (もちろん散歩するだけだと何もわかりゃしないんだけどさ。)
 また、勤め人@渋谷やその他諸々をして幅広い世界を知ったつもりになっている自分に、違う空気を触れさせておきたい、という気持ちもあります。

 年末に「山谷がけっぷち日記」を読みました。

 淡々と、その場で生きる人の姿を描き出すこのドキュメンタリー。非常に面白かったんですね。
 筆者自身、勝ち負けではなく、自分の意思で山谷にたどり着き、日雇い労働を二十年以上続けるという人生を選んだ男性。その人が、恨み節でもなく、政治思想の吐露でもなく、ただその場の毎日を書きつらねた話を読んで、興味を持ったのです。
 日々を生きるとはどういう環境なのか。
 その環境で生きるとはどういう意味になるのか。
「市民社会とは明確に区分された異貌の空間が、眼前に展開しているのだった」(上記、引用)
 その空間を知りたくなり、ネットを活用&書籍を読んで、自分の中で想像を膨らませていったのです。

 僕は自他共に認める引き篭もり気質満載の男であり、PCの前に座ると100時間でも200時間でもインターネットをし続けてだらだらと時間を過ごすことのできる無為無策の中年です。
 そんな自分でも、インターネットの情報と肌の知覚、この二つの限りない差異は感じていて、畢竟「インターネット上の情報はどこまで行っても情報である」更に言うと誰かがかいつまんだ話をまとめたもの=二次的情報、の集合体であるという意識がどこかにあります。
 例えばWikipedia、例えばUstream、例えばTwitter、百科事典化、時間軸、映像表現、リアルタイムキャッチ、様々な切り口をもって僕らにこれでもかと言うほどの情報を与えてくれるインターネット。でも、どのような切り口をとっても、情報は情報。僕の生き方の根底をひっくり返すものではないし、熟慮から生み出した自分の信念を曲げる威力もさほどない。
 情報は、実際に足を運んでみてみること、その場の人に話を聞くこと、触れてみること、殴られてみること(したことないが)、口説いてみること(してみたが)、交わ(略)みること(したいが)、そこで体験したものとのギャップはまだまだあると感じます。
 それゆえに、僕は興味があるところは極力、足を運ぶなり実体験するなり、自らの身体をもって経験してみることを欠かしたくないのです。やっぱり、耳年魔より経験豊富なほうがいいじゃないで(略)。

 そんな理由で、でも実際には一日散歩をするのが関の山。知ったつもりにすらなれない。のだけど、やはりその場に行って、自分と違う空気に生きる人の生活空間に足を踏み入れる体験は非常にスリリングです。
-一見、普通の住宅街。というか、高級邸宅とそうでない家が通常より広い幅で混在している。
-「全室カラーテレビ完備」「冷暖房完備」。この看板が売り文句になる世界。賃料2000円。入り口がどこかわからない。
-一切電飾のないパチンコ屋を初めて見ました。それでも盛況です。平均年齢は50代。
-というか、僕らの世代より下の人が全く道を歩いていない。
 この点について語るとそれだけで一冊書けそうですが、一言で言うと「社会福祉が必要だ」ということを痛感しました。
-資本主義的視点とは別の生活観念。僕が同化できるかは別として。
-この点も書くといろいろ差しさわりがありそうですが、一言で。「左派の存在理由を感じた」
 普段何も感じない自室と渋谷を往復する日々ですが、こういう時間を持つことで、僕はまた改めて刺激を受けては自室に引き篭もるのです。世の中に対する愛情は深まりながら。
 ※記事のタイトル「つまるところ、私は人生に向いていない人間なのだ」は上記「山谷崖っぷち日記」の一説です。

2011年

 あけましておめでとうございます。
 今年もよろしくお願い申し上げます。
 正月は意外と規則正しい生活をしております。朝の清清しさを体感したり、家の中で静かに過ごす時間を楽しんでみたり、頭を空っぽにして読書をしたり、映画三昧の日を過ごしたり、次の計画を立てるのに真剣になってみたりと、いつもなら落ち着いてできないことを様々味わってみました。
 
・AppleTV買った。
 前々から気になっていたアイテム、AppleTV買いました。
 寒空の下、凍えながらTSUTAYAにレンタルDVDを返しに行かなくてもよくなったのは、ほんとうにありがたい。また、こたつに入ったまま映画をチョイスできるこのぐうたら感。とてもすばらしい。
 とりあえずまずは「さんかく」「レスラー」を立て続けに拝観。
 

・自室大改装した。
 自室だけでなく、玄関からいろいろと大掃除兼ねて変革しました。
 15年付き合ってきた靴箱や衣装だなともお別れし(もっと早く捨てろよ、と言う意見は聞こえない)、新しい棚やパーツを買いこみました。
 特に自分で大きな変化が「自室のダーツボードを撤去」「万年床を毎日上げ下ろしする体制に」としたことです。
 どちらも僕のぐうたら放蕩のアイコンであったのですが、今回ココロ新たになるにあたって、自分の環境を大きく変えることからはじめることとしました。決意って、ほら、当てにならないですから。環境変えたらイヤでも自分を変えないといけなくなりますし。
 そんなわけで、ふらふらとしてる放蕩親父は変わりませんが、案外環境の変化により髪の毛が抜けたり減ったりするかもしれません。そんなときはそっと見守ってやってください。

長期間のブログの続け方

 気がつけば11年このブログを書き続けています。
 その間、酸いも甘いもいろいろありました。甘くはないか。
 で、よく聞かれるのです。「なんでそんなにブログが長続きするのですか?」と。
 うん、確かに、ブログを書く事による金銭的な儲けはないし(長期で見ると微々たる収入はあるのですが)、コメントがそんなにたくさんもらえるわけではないし、普通の神経をしてればそんなに書き続ける事は出来ないと思うのです。それはよく解ります。だって、何にも得しないもん。無駄もいいところ。そもそも結論は「僕が普通の神経をしてないから」という逆説的なモノです。
 でも、そこで食い下がって「それでも、長くやるには何かメリットがあるんでしょ」と食い下がられる場合もあるのです。いや、そこまで食い下がってもらってありがたいのですが・・・本当に何もないのです。こんな腐れブログからよいところを探していただいても、残念ながら本当に何も出てこないのです。逆に申し訳なさで一杯になることが多いのです。
 結論から言うと、長続きの秘訣は「僕は僕の文章を読むのが好きだ。」というとってもチラシの裏的な答えなのです。
 僕は誰より僕の文章が好きなのです。時々自分のブログを読み返してニヤニヤしてます。そして批判を加えたりいろいろ意見を自分の中で交えながら、更にまた文章を書くのです。
 うん、とっても不遜な事を言うと、僕には僕のブログが一番面白いのです。iPhoneでも暇があると自分のブログを見るというなんらかの人格障害的な性癖ももちつつあります。「King of チラシの裏」という自信があります。節度をもって、大人として、堂々とチラシの裏を公共の場にさらしております。
 更に、「この僕の文章を他の人はどう思いながら読んでいるのだろう」という事も想像しながら、またニヤニヤして自分で推敲を重ねます。中心は自分。The world is mine。
 みなさんの「駄目だこのオヤジ・・・はやく何とかしなければ」という顔がモニタ越しに見えてますよ。

ロングスリーパー

 某所で相変わらず「眠らないオトコ」扱いを受けている山本です。
 人とずれた生活スタイルで日々を過ごしていると、どうしても皆さんの認識にギャップを感じさせてしまうようです。
 たとえば、僕は昼から終電までの会社勤めをしているのですが、これだけを切り出しても「夜18時~22時に働いてるなんて、なんて働き者なんでしょう」的な目線を感じるのです。いやいやいやいや、皆さんが働いている朝9時~13時なんて僕はぐーぐー寝てるわけですからね。働き者じゃございません。
 さらには、僕は終電近くで帰って、そのまま映像を作ったり変なことしたりするのに朝5時くらいまで活動をしています。これを話すと「眠らないオトコ」扱いになるのです。
 上記2つを足すともう誤解されまくりになります。
 「終電まで働き、さらに朝まで活動するものすごい社畜ワーカホリック」と言われてしまいます。うん、確かに終電まで働くのも、朝まで活動してるのも、間違いじゃない。間違いじゃないのですが、
 朝から昼まで熟睡してることを忘れないでください。
 そうそう、ここからが本題なのですが、僕は非常にロングスリーパーです。
 基本的によく寝る体質で、一日8~10時間は眠っています。モノヅクリ屋は寝ないで仕事するのが当たり前、と思われがちですが、僕はごんごん眠ってます。そもそもモノヅクリ屋じゃないし(名目は)。20代の製作会社勤めの経験から、「眠らないと作業効率は十分の一レベルまで落ちる。これは回避できない。」ということを身に染みて理解してるので、回りから何を言われようとも、ぐうたら扱いを受けようとも、僕は徹底的に寝ることにしています。
 一番がんばってる人は、ちゃんと寝る時間を確保してる人。僕はそう信じてます。
 眠らないでがんばることは演出としてはアリですが、僕は極力避けたい。10倍時間を掛けたり10倍がんばれば10倍の結果になる、とは思っていないのです。
 じゃあ結果出してみろよ、といわれますが、それに対するご返答はまた後ほど。
 睡眠をたくさんとるということは、ストレスに弱いんです。ええ、皆さん僕に優しくしてください。
 

Tumblr

 TumblrというWebサービスを使ってます。
 X-10 Royal Tumblr
 Tumblrとは、メディアミックスウェブログサービス。ウェブログとソーシャルブックマークの良いとこ取りをしているウェブスクラップサービスである(Wikipediaより)。
 と、まあWeb上の情報をボタンひとつでスクラップして、また自分のスクラップを他者に共有することで情報を伝播/共有スクラップを広げていく、というとてもWebらしいサービスです。
 簡単に言うと、誰かが佐々木希のかわいい写真をWebにアップすると、それをTumblrにスクラップし、それをみた誰かがまたスクラップし、と、またたくまに情報が拡散していき、また同時に自分の手元には肌色の豊富な写真集が出来上がるという素敵なサービスです。
 もちろん写真だけではなく、文章やTweet、ブログ、いろんなものをスクラップしていけるので、非常に自分の趣味嗜好にあった拾い物をまとめることが出来るのですよね。
 もちろん、自分で書き込むことも可能なのですが、どちらかというと他者のコンテンツをまとめていくことに活用する機会が多い(というかほぼ99%)Webサービスです。
 更には、こいつがまたiPhoneとの連携が素晴らしく良く、興味のあるものをひたすらリブログ(Tumblr用語でスクラップのことです)リブログリブログと繰り返して、またたくまにまたぴちぴちした肌色の多い写真集が出来上がっていくのです。
 それはよいとして、Tumblrを使っているうちに、いつも感じることがあります。
 今日の本題はココからです。ここまで前フリ。
 Tumblrを使ってて、いつも感じること。それはただひとつ
自分でコンテンツを生み出す事がしたくてたまらなくなる。
いや、Tubmlrって人のコンテンツを面白がって集めていくサービスなのですが、究極、僕が一番すきなのは自分のコンテンツなのです。不遜って言うな。小林よしのりも言ってるような「世の中でいっちゃんおもしろいのはわしの意見じゃい。」という気持ちを僕個人が持っているのです。
 だったらTumblr使うな、といわれそうですが、人の意見は僕の意見の次に面白いのでこれはこれで使うのです。
 無論、僕の作るコンテンツなど世の中の用途から見たらうんこでしか無いことは百も承知です。だけれど、僕は「紛れも無い僕のうんこ」をひねり出すことにこそ喜びを感じるのです。
 映像でも文章でもデザインでも、世の中に居る巨匠の皆様はうんこどころか栄養たっぷりのフルコース料理を生み出してくれていることはよくわかります。で、それを食べてうんこにしているだけの存在が僕なのもよく解るのですが、まかり間違っても人の料理を他人に紹介するだけの人間になるより自分のうんこをぶつける人間になりたいのです。例えがひどすぎる?
 自分の意見、思想、これらもコンテンツです。表現するときは演出も必要です。
 そして僕は自分の意見や思想を自分テイストで演出することが好きなのです。
 例えそれがうんこだとしても。みんなが逃げるとしても。
 受け入れられたい、と云う気持ちとはまたちょっと違うんですね。受け入れられることが目的なら、多分このブログは既に閉鎖していることだろうし。
 いうなれば、まさにうんこ。ひねり出すこと、排出すること、たくさん出てこそ健全。
 それをしないと病気になるのですよ。
 そんなことを人前でするな、と言われそうですが、そもそもアートは存在自体が(以下略)
今日はたくさんお下品な単語書いてごめんなさい。

Twitterとブログ

 えーと、今日の記述は僕個人の意見です。
 賛否両論あると思いますが、特に否定意見はどんどんぶつけてくださいませ。
 今、世の中にTwitterというWebサービスがあります。結構有名になってるのかな。
 Twitter
 いわゆるミニブログ、簡単書き込みお手軽更新、といった140文字の簡単なコミュニケーションツール・ライフログツールですね。
 もちろん新しい物好きの僕も大活用してます。ええ、自分大好きなものですから。自分の記録になるものとコミュニケーションになるものは活用しないわけが無い。
 僕が勤める会社では非常に盛んに活用されている為、僕の更新量はむしろ少ないくらいなのですが、あまりWeb界隈にいない人からすると、とてつもなく更新しているようにみえるらしい。大学の友人からフォローされると「Twitter一面がtaskyamamotoに占拠されてしまう」と言われます。特に僕は夜起きているため、深夜の更新が非常に多い。そのため、フォローしてる友人は朝起きて携帯を開くと、僕のミッドナイトつぶやきだけが綿々と並ぶというジェットストリームな朝を迎えることが出来るのです。
 うん、それは本題じゃない。
 そのTwitterに対して何か意見があるわけじゃない。あるわけじゃないのです。
 最近の潮流を見てて、ひとつだけ気になることがあって・・・。
 それが何かと云うと
 ブログとTwitterの両方を持っている人が、
 ブログにTwitterの記述を「本日のつぶやき」としてまとめ、転載することが如何なものか。

 ということです。
 うん、誰か個人に対して言ってるわけでもなく、僕の知り合いにも多数こういう活用方法をしてる人がいます。その人たちに意見していることも承知で伝えてます。
 実際僕もこのブログで一日だけそれをやってみたことがあるのですが、やはり相当違和感を感じたのですね。
 じゃ、何に僕が違和感を感じたかと云うと・・・。
 まず何より、ブログとTwitterでは使ってる言葉も文面も、閲覧顧客対象もコンテンツ内容も全く違うと僕が感じていること。
 俳句と小説、論文、ラブレターが全部違う文体、対象、制限を元に書かれているのと同じく、僕はブログとTwitterを全く別物に考えてます。ブログはどちらかというと僕に近い対象の方がターゲット。いうなれば、この僕の暑苦しさに耐えられる稀有な人物。なので、コンテンツも有る程度掘り下げて、論理(無いけど)的にも情緒(無いけど)的にもマーケティング(無いけど)的にも有る程度コントロールの効く内容、そしてそれに適した文体(になってるかどうかは別として)を使うようにしています。
 対してTwitterでは、ミニマルな思いつき、共感をベースにして不特定他者、関係が薄い人への発信と、公共の場での一対一のコミュニケーションを中心に考えます。リプライとかリツイートとかね。
 それを一緒くたにしてはならんと思う。思うわけですよ。
 校長先生の朝礼の話とプーチンの政見放送を一緒くたにしたらならんと思うのですよ。
 (どちらがどちらという意味は無いです)
 一日書いてみて、感じたのはまさにこれでした。
 もちろん、ここまで僕の意見、僕の私見ですから、これにあわせる必要は無いと思います。
 人それぞれ、考え方があるでしょうから、ブログにtweetを転載してもいいとは思うのです。
 ですが、もう二つ思うこととして、
 「別に転載してまとめなくてもtwitterのページで個人の書き込みまとめてみられるやん。」
 ということと
 「君のtwitterは確かに読みたい。だけどそれと別に君の暑いブログの文章も別に読みたい
 ということです。
 両方書くのは面倒くさい、と云う人もいるかと思いますが、それだったら転載そのものもめんどくさいと思うのですよ。
 多分、転載する方の流れとしては、こういうことだと思うのです。
 先に自分のブログが存在していて、ずっと書き込んできたのだけれど、twitterをはじめて、そちらに書き込むことがシフトしてしまい、とはいえブログを閉じるのも忍びないので、twitter→ブログへの転載を始めた、というパターンです。
 うん、解る。解るのだけど、できれば「転載しないで、両方書いてほしい」です。これが僕の結論。もっともっと裸の心をみせないか。もっとさらけ出せ。その人の色が濃くでているブログ、輝きが垣間見えるtwitter、その人の両方を僕は見たいのです。男女関係無く。
 twitterで書きたい事と、ブログで書きたい事、両方、別々にあると思うんだけどなぁ。
 気がつけば転載についてだけじゃない意見になってましたね。
 ブログしかやってないヒトには、ぜひtwitterを勧めたい。Twitterしかやってないヒトにも、ブログを勧めたい。理由は「両方読みたい」から。それだけです。
「お前ほど暇じゃない」「お前ほど暑苦しくない」といわれたらそれまで。

肉体経験

 経験は何より大事、と思うことがあります。
 知恵と知識、情報、の違いなどを延々と語るまでもなく、人間が「知っている」事には大きな幅があると感じています。
 この前、深夜に自宅近くの公園をジョギングしてまして。なんとなくそこにあるウンテイやアスレチック遊具(大人使用可能なもの)を使ってトレーニングしてみたんですよ。
 特にウンテイ、いわゆるモンキーレーン。手でぶら下がって移動するアレ、ですね。
 僕は腕力があまり無いため、アレを使ってトレーニングを行うことがあるのですが、先日、特に面白い経験がありました。
 高さは大体2m。ぶら下がっても足から地面までは30cmほどしかありません。
 でも、実際に手を離して降りてみると
 「!」
ええ、身体がものすごく重く感じるんですね。ドサッと降りてしまいました。
そこで
 ・落下と飛び降りの違い
 ・重力の本当の力
 ・自分の体重の本当の重さ。
 みたいなものを肌で感じたのです。いや、これ、本当に良い経験でした。つかその後毎日のように身体を酷使することに喜びを感じるマゾヒストになってます。元からとか言うな。
 時を同じくして、最近は自宅でDVDの映画を観ることも多く、特にアクション映画もたくさん観ているのですが・・・。
 映画を見た後って、自分が主人公になったくらいの気持ちで、身体が軽くなったりアクション俳優になった気持ちになるんですよね。あれ、僕だけ?
 酔拳みたあとは自分もジャッキーチェン的気分だし、ファイトクラブの後はタイラーダーデン、ダイハードの後はマクラーレン警部、ダークナイトの後はジョーカーの気持ちになってました。一人だけ肉体派じゃないのがいますが、まあ精神的に。それはそれでやばいですね。ジョーカー様最高。
 そのときには気分と身体が遊離してて、自分は万能な、そこまで行かないとしても自分の身体でできる範囲がとても広く感じているのですね。2階くらいなら平気で飛び降りれるだろう、とか切れのある動きが出来るだろう、とか。
 でも、実際に落下してみたら、30cmでもうこの重さですよ。映画みたいにかっこよくできるわけが無いのです。現実と理想のギャップ。肉体と空想のギャップ。これを認識しておくことの大事さ、身にしみて感じました。
 実際に経験することの大事さ。それは、本当に重要なことだと思います。
 経験をしなければわからないこと、経験をしてみて始めて自分の立ち位置、理想とのギャップ、そういうものが認識できる。それが本当の知恵だと思います。
 (この続きは僕のSNSにて。
 …いや、ズルしたり、SNSに囲い込んだりしてるんじゃないの。
 自分の文章が何かを批判した言葉になってないかどうか、クローズドで確認したいだけなのです。)

感情のコントロール

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 昨日「情緒」と言う言葉を使ってしまったので、そのつながりで。
 情緒、すなわち感情の振れ幅やその心持自身。
 感情自体の器というか、感情そのものというか。
 この、情緒についてふと言葉にするとき、僕はいろんなことが頭をよぎるのです。
 特に思うのが「感情のコントロール」ということについて。
 僕の持論は、感情はコントロールできるモノでもあるし、時に誰もがコントロール不全に陥るもの、だと認識してます。そして、コントロール不能なのは決して弱いからでなく、コントロールできない「時がある」のが普通だと思うこと。
 まあ、いろいろな経緯の中で、感情機能の障害やそれが巻き起こす問題、家庭不和などもたくさん見てきました。特にここ8年~20年ほど。この幅については別途。実際医学的に調べ始めたのはここ5年ほどです。
 自分が感情について知っている、詳しい、と言う気はサラサラないですが、なんというか、その、少しでも感情に因するトラブルが少なくなれば、よりお互いに幸せに生きられるのではないかなぁ、と、常々思いながら暮らしているため、こういった記事をしたためているわけでございます。
 あ、とはいえ昨日のブログに書いたとおり、あまり身のある話はできないので、その辺はご了承をば。
 なんというか、他論を見てると「感情はコントロールできる、できないのは弱いから」論の方と、「感情があるのが人間、自然のままに思い切りぶつけることが人間らしい」論の方がいて、そのどちらも僕は正しいと思ってるのですが、お互いが持論の中で攻撃しあってるというか、「真実は常にひとつ!」的な強迫意識を感じてしまうのです。どっちかが正しい、みたいな。そもそも上記二論は同軸上にないんですけどね。
 
 うん、人と接する中で、感情を揺らさないことは、トレーニングでできるもの、だと信じてます。僕できませんが。すぐ怒るし。泣くし。興奮するし。はぁはぁするし。
 トレーニングといっても、他者や社会から自分が愛されていることをきちんと認識すること、だけだと思います。自分がここに居てもいい。自分は受け入れられている、と思える方は、自分の根っこがしっかりして、下手なことでは不安になったり感情が暴走したりしません。
 なので皆さん僕を受け入れてください。愛してください。
 ただ、とはいえ、感動したりショックを受けたり、世の中に出てると感情は大きく揺さぶられることがありますから、上記のような自分の居場所を一瞬見失うことがあるのも人間です。そんなときに言いようのない不安や焦りから、怒りや悲しみ、絶望を感じることも、まあ、普通にあることだと思うのです。
 これを普通だと思えるようになると、時に感情が振れ過ぎて、おかしなことになってる人が居ても、それ自身を受け入れられる(許せる)ようになってきます。許せるから僕偉い、じゃなくって、そのほうが僕も楽なのです。「なんでそんな理不尽なことするんだよ!」じゃなくて、「おお、あんさんも人間やからな。」という風に。
 多分このあたりは、子どもが居る方にとっては普通に感じていることなんじゃないかな、と思います。
 僕はいつもヒトと接するとき、その人の感情がどれくらい安定しているのかをみてしまう癖がついてしまいました。(なぜなのか、詳細は割愛します。個人的な話になるので、僕のSNS内で記します)
 その人が事象に対して喜怒哀楽を感じるのか、感情不全や焦りを感じてしまっているのか、そこを見て、接するようにしています。
 せめて、僕の周りにいる間は落ち着いて、安心してもらえるように。
 僕だって絶望感じているヒトをそのままにしておきたくないですから。鬼じゃないし。
 てな訳で、感情、情緒、と言うことを口にすると、いろいろと思うことが出てきてしまうのです。
 語るともっと長くなるので、とりあえずこの辺で。
 まずは何より、みんながお互いに仲良く暮らせますように。
 トラブルの因のほとんどは感情によるものだと、僕は思っています。
 うわこの僕が人間論語ってるし。どうしちゃったのだ。
 教祖にでもなろうとしてるのか僕。
 煩悩教祖というのもニュージャンルで良いかもしれない。
 皆さんお布施ください。現物でも可です。