コトバ

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Tumblrより。名言集。
-狂気の定義は、違う結果がでることを望みながら、同じことを何度も何度もし続けること。
-この国は 「才能がないこと」 には寛大だが、「手を抜く」ことには偏執狂的に厳しい
-自分の前にいっぱい敵があらわれた時、振り返って見るがいい。味方だっていっぱいいるものだ。
-女とは 残酷でわがままでうそつきで… でも切ないくらい可愛いもの。
-日本における「真面目」という言葉の使われ方は「多数派や権力者の意見に素直に従う」「長い物に巻かれる≒空気を読む力がある」辺り。子供の頃における権力者はおおむね親や教師辺りなので、イエスマンになれば自動的に「真面目」という属性が付属することになる。
-誰も一夜にして肉体を鍛えようなどとは思わないだろう。それなのに、こと精神に関しては、すぐにも効果が現れるのが当然だと考える人が多いようだ
-私は弱い自分を許すことにした。駄目なやつだが、自分だけでも自分を許してやろうと、存在することを許す!と自分に宣言した。だから、絶対自分を責めない。生きるために、あえて自分に目をつむる。生きてることが一番大事。そんだけ自分が弱いってことを認めたから。だから他人も許す。
-どなたかも言ってましたけど「社会の厳しさ」の9割は「社会は厳しくあらねばならない」という妄想を持った人たちに作られてます。
-「自分は正しい」「これこそ本物」「これは良い事」
実はこう思った瞬間こそが人間が最も攻撃的になる時なのです。
-論理的に正しいということと、解答が正しいということは、実は相関がないのです。 論理的には正しくても、回答が間違っているということは日常茶飯事です。
-考えるのは誰でもできる。
だから作ったやつが偉いんだ。
そして、続けたやつはもっと偉い。
-現実か妄想かなんて多数決で決まるのだ。
-精神年齢が低い人の特徴は、自分の感情をコントロールできてないこと。さらにいえば、コントロールできるなんてことを知らないし、たとえ知っていてもコントロールしようとしない人。彼らは「自分が抱く感情は正しい」と信じている。
-「何か起こればいいのに」と思っているのが子供で、「何も起こらなければいいや」と思っているのが大人
-幸せにしてやろうとか、してもらおうとか、 与え合おうとか、 そんな奴らは結婚してもうまくいかないよ。
この人となら不幸でも構わない。コレ最強。
-自分をダメな人間だと判断しているようですが、その判断は本当に間違いのない普遍的な価値判断なのでしょうか?あえて厳しく言いますが、仮にあなたが本当にダメな人なら、自己分析をしたその判断もダメな可能性がありますよね・・。
-ロイヤルストレートフラッシュが5連続することはたぶん有り得ないけど、実際起こった後で「なぜそれが起こったか」なんて考えても意味はなくて、強いて言うなら「その確率がゼロではないから」だ。
 
 
-根拠のある自信は、根拠が無くなれば自信も無くなる。
根拠の無い自信は、決して尽きることが無い。
 
-失敗することを恐れるよりも真剣でないことを恐れたい
-人はさびしいとおかしくなる
ひっくり返すと、人がおかしなことやってるときは、だいたいさびしい
 
 
-人付き合いがうまいというのは、人を許せるということだ。
-誰が決めたかわからないような、わけのわからない決まりごとに粛々と従う人が多すぎる。
-世界の毒から子供を守るものは家族で、家族の毒から子供を守るものは世界だ。子供が健やかに育つためにはどちらも必要だと思う。
 
 
-人脈とは、自分が知っている人ではなく、自分に関心を持ってくれている人。ベクトルが逆なのです。
 
-笑う時、人は決して手を握らない 笑いながら手を握っている人は、つくり笑いをしているのです。
 
 
-私は祖国を愛している。
だが、祖国を愛せと言われたら、私は遠慮なく祖国から出てゆく。
 
 
-わけがわからなくなってからが本番です。
 
 
 
 
-言語への過信が近代人最大の迷妄の一つではないかと思う。
 
 
そしてこのうちのどれかに、僕の適当な戯言が混ざっている。
ひとつだけとも言ってない。いくつ入っているかも内緒。

棋士の本

 棋士の本が好きです。
 将棋、滅法下手なのですが、まさに「下手の横好き」。先を読むという能力が無く「とにかく特攻」「手数だけやたらに多い」というのが持ち味の僕にとって、全く持って正反対の資質を求められるこのゲーム。苦手すぎるほどに苦手だからこそ、学ぶものも多いというか、この世界で生き残る人たちの哲学に憧れを持ってしまうのです。
 そういう訳で、将棋うち、いわゆる棋士の本は僕にとってとても面白く、また学び多い書物なのです。
 他には数学者の本とか、音楽家の本とか。騎手の本も好きですね(時々軽佻浮薄なのもありますが)。別世界の人たちの言葉は、とても響きます。

 まずはこちら。10年以上前からずっと手元で読み続けている本です。米長名人は毀誉褒貶の激しい人ですが、僕は非常に好きです。生きる上で避けられない勝ち負けの波にもまれないために、どう進めばいいのか、この本を元に僕は20代を乗り越えてきました。借り方でなく、貸し方に回る。舟に乗れる人数が決まっているのなら、全うに落とすべき人を落とすのも義理の通し方。そして米長哲学。これからも何度も読み返します。

 一大名人、大山康晴。とても真面目で、誠実で、それでいて勝負師として一流を貫いた大人物だと思います。なので、彼の書く文章は非常に理路整然としていて、筋が通って読み易い。その易しい文体の中に、プロとしての厳しさが随所に現れていて、身が引き締まります。

 その大山康晴と昭和時代に名勝負を重ねた名人升田幸三。これまた生き方も文体も洒脱で色気があって、香気にあたります。広島弁口調の文体に、生きる上での指南。ひょっとすると大山名人の方が正攻法としての生き方を記しているのかもしれませんが、僕は正直、升田幸三の方が好きなんですね。オシャレだから。こういう語り口調の出来る大人になりたい。そのためには修羅場をもっともっと体験して、勝ち進まなければならない。

 上3つと違って、団鬼六がまとめた、昭和50年代に活躍した真剣師(賭け将棋のプロ)小池重明のドキュメンタリー。もちろん違法行為・アウトローそのものの生き方ですが、何よりも壮絶。絶対真似できない。そして、人としての生き方を真剣に考えさせられる。とにかく、壮絶。賭け事の世界、アウトローの世界で生きるということがどういうことなのか。自分は何をもって生きているのか。名文家、団鬼六氏の文章も巧みで、一気に曳き込まれて読みきってしまいました。
 今日は本のご紹介まで。また良い本に出会ったら紹介します。
 加藤一二三の本が読みたいなぁ。

Magazine Life

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雑誌づいてます。
 もともと雑誌と言う媒体が大好きで、それこそ大学4年次ぐらいには月間50媒体くらい読みつぶしてた記憶があります。ああいった雑誌の端々にある小さなコラムが特に好きでした。
 時代が変わり、2000年代以降になると、とんと雑誌を読まなくなってしまいました。理由は簡単。ネットばかりしてたから。
 これはこれで必要な情報を集めるには良かったのですが、ご存知の通り、ある分野に対して、面的アプローチで塗りつぶすには、ネットは散文的すぎるのですよね。
 それはそれで、ネットジャンキーである自分を後悔したりはしないのだけれど、iPhoneを持ち、散文的ネット活用(Twitter、Tumblr、etc)に磨きがかかると、ある分野に関して、知識を面的に(または球体的に)塗りつぶすための雑誌読破欲が戻ってきました。
 今月も久々に雑誌をバカ買い。自分に関係する業界紙はもちろん、趣味関係の雑誌も堀りまくってきました。
 そんな僕の雑誌読み手法のひとつ。
月に一冊は「全く分野の違うマニアックな雑誌(いわゆる業界誌)を買う」
 別に「S&Mスナイパー」や「サムソン」を購入しようと言ってるわけじゃありません。これらも名雑誌だと思いますが。ええ。
 いやでも特にS&Mスナイパーは雑誌としてのクオリティは抜群に高(略)今日はその話がメインではありません。(にしてもまだ刊行してるのかな)
 自分の全く知らない分野の雑誌を紐解くこと。そしてその雑誌を、一月分でいいから隅々読むこと。本当に目からうろこが50枚近く落ちるほど新鮮な驚きがあるのですよ。皆さんにも是非オススメしたい。
 たとえば、僕が体験した中で、こういう雑誌技を身に付けるきっかけになったのが「月間廃棄物」
 当然ながら廃棄物に関するビジネスを行っている人たちがいるわけで、その人たちへの情報共有のための雑誌は必ず存在しているのですよね。
 この雑誌を知った当時、僕はゴミ処理場の撮影をしていたと言う関係もあって無関係な分野ではなかったのですが、まあ自分の知らないベクトルで話が繰り広げられていることの衝撃。じぶんの知識の少なさと目線の薄さを真剣に思い知ります。
たとえば…今月号の「月刊廃棄物」から特別寄稿のメニューを抜粋すると…
・ごみ手数料を強制徴収できるか? 
・古紙偽装問題は何をもたらしたか・上
・海洋越境ごみに埋もれる宝の島「沖縄」 
・廃棄物減量等推進員制度の現状と課題 
・災害廃棄物に関する危機管理の現状と提言 
 と、生涯知らないかもしれない情報が沢山載ってます。
 で、自分の知らない知識に対して「お、何コレ、面白そう!」と思える人にとっては、こんなに楽しい遊びは無いのですよ。ちょっと興味が出たら3ヶ月くらい買ってみたらいいです。業界によっては2誌3誌と別目線の雑誌が出てますからこれらを半年隅々読めば間違いなく業界通になれます。
 このほかにも、僕が今まで目を通してきたもの(仕事や趣味とは関係ない分野で)としては「月刊会計検査資料」「月刊下水道」「月刊基礎工事」「月刊アミューズメント産業」などなど。
 専門誌、業界誌にもマニアック度、一見さんお断り度もいろいろあります。どれかオススメをあげろと言われたら、山本の個人的見解では「月刊飲食店経営」などはとっつきやすいですよ。飲食店は顧客の立場で、縁遠い世界ではないですからね。逆にどれとは言いませんが建築系業界誌は素人お断り度がかなり高いかも。。。
 まだ、僕が自前で体現してないですが、絶対に信じてること。
 自分と関係ない業界誌を5誌年間購読してたら、人の5倍の企画力が身につくと思います。
 もちろん、10誌読めば10倍。それくらいの幅広い知識を洞察力が身につきます。
 と言う僕もココ10年やってなかったので、久々に始めようと思いますけどね。はい、えらそうなこと書いてすみません。

オッドトーマスの霊感


 今日は連休一日目。映画を見たりゲームをしたり本を読んだりと、ゆったりと過ごしました。
 海外小説を読むのが苦手(翻訳文体で好きな人がいないのです。原文はなお更)な僕は、どうしても日本の小説家やエッセイに偏るのですが、その中でもクーンツは読み続けています。
 とはいえ、やはり読了スピードは遅く、ゆったりと時間のあるときにのびのびと読んでいたのですが、さすがにサスペンスの巨匠。ラスト100ページに入ってからは一気に加速し、本を置く間もなく最後まで読んでしまいました。以前、同じクーンツ著の「ウォッチャーズ」「戦慄のシャドウファイア」「アイスバウンド」を読んだときにも同じ状態(本を置けずに一気に読了)になりましたが、こういった畳掛けの記述ができる人は本当に尊敬します。娯楽がなんたるか、よく解って楽しませてくれます。
 プロット自体が目新しいわけではないのですが、文体自体に力とリズムがあります。翻訳モノなのに。原文で読んでみたいですが、僕は英語と言う言語は勉強しちゃ駄目だと亡くなった祖母に強く戒められていますので残念ながら原文を読むことはままなりません。ちなみに祖母は存命です。
 何も考えずにゆっくり本が読める時間、この後どれだけそういう時間を持てるのだろうか・・・。忙しくなりそうな気配です。

君が読んでいる本を教えてくれ 君がどういう人が当ててやろう

 と言ったのは昔の仏人です。
 本の管理、と言うことは基本的に行わず、自分の心に入ったものだけが栄養素、という呈でひたすら貪る読書スタイルを貫いてまいりましたが、それとなく自分が読んだ本を覚書したいという気持ちもどこかにありまして。
 このブログでもちょこちょこと思うところのある本は記載して来ましたが、なんかもっと、こう、一括管理できるものはないかしら、と思ってました。
 職場のUさんからもいいアイテムを教えてもらいましたが、あまりに多機能すぎてちょっと使うときに腰がおもくなっているものもあり、改めてガジェットを探してました。
 見つかりました。
 ソーシャルライブラリ
 単純に読んだ本を重ねていくだけなのですが、表紙が見える、と言うだけでとても収集癖を刺激する。やっぱりデザインって大事なんだな、と感じました。文字が並ぶのではなく、表紙が並ぶ、と言うところに惹かれました。
 また、僕は非常に見栄っ張りで且つひねくれものでありますので、基本的にココに並べる本も素直に読んだものそのまま並べたりしません。ベストセラーなんて読まないのですから。ふん。と言う風体で演出を込めた本棚を作り上げてまいります。そうやってまた自分自身も偽って生きるのです。マガイモノ人生。自分さえ騙しきれば、世の中は本質と虚構が入れ替わります。
 と言うわけで、ここではDVDやゲームなども並べられるので、これからまた貪ってはここに並べる毎日を送ることにします。仕事?知りません。

ちくま書房 日本文学シリーズ

が最近のブーム。
 僕は基本的にあまり何も考えずにばかばかと本を買うスタンスです。
 こういう全集ものをまとめて買うことは滅多に無いのですが、ときどき馬鹿みたいに手を出してしまいます。
 昔、Jazzにはまってた頃はマイルスデイビスのコンプリートCDとかキースジャレットとかも全集モノを買ってた時代があったけど、音楽関係は・・・今はダウンロードの時代になってなんというか購入意欲があまりなくなってしまったなぁ。
 ちくま文庫は昔からひいきな出版社です。
 なにより、装丁が並ぶと綺麗な本棚が出来上がる。
 筑摩書房 日本文学シリーズ
 はっきり言って、かなり偏った文士を選んでる。気がする。
 トップバッターが内田百閒。それだけで買い。
 泉鏡花に中島敦、谷崎潤一郎あたりはまあいいでしょう。澁澤龍彦、色川武大、夢野久作なんて絶対編者の好み以外ないだろうというチョイス。僕は大喜びですが。極めつけはエロ詩人金子光晴。谷川俊太郎入れないでこっち入れちゃうんだ。思わず「節子、そっちやあらあへん!」と叫びそうです。
 と、色々書いてみましたが、冷静に見てみると、確かにこの40人、美文を書くなぁ、言葉の使い方が美しい人が並んでるよな、と思います。
 で、いきなりコンプリートしようと思いましたが財布をもったかみさんに止められ、まずは手始めに寺山修二と澁澤龍彦を購入。自分チョイスでは至極当然です。
 感想。
 これ高校時代に読んだ全集の焼き直しやん。
 でもよかったです。20年前とは感覚も違っていますね。作家一人の全集とかよりあっさり読めて、今の体力ではこういう文庫のほうがありがたい。やっぱり全部購入予定。
 

成毛眞氏の新刊


 僕の尊敬するビジネスマン。成毛眞氏。
 彼の新刊が出てたので買いました。
 相変わらず言葉遣いが汚い。そしてそれは演出も含めて、この言葉遣いだからこそ納得するものを感じる。僕は言葉遣いの汚い人を真っ先に(心の中で)お断りするんだけどね。
 それも、この人自身が言葉について僕以上に深い含蓄を有して、その上でこの言葉を選んでいる、という一点を感じるからこそ、それは納得してしまうのです。下手な大人がこの言葉遣いをするとただの下品な親父になってしまう。
 
 正直このタイトル自身にも僕は気恥ずかしさと衒いを感じてしまうのだけれど、装丁がしっかりつくられているのであまり気にしないで買うことができました。
 内容は非常に読みやすいエッセイ集であり、「内容が軽い」とは思わないけれど、洒脱に軽妙に切込みを入れてくれて、読んでて楽しい。
 でも、この本を読んでて、「あ、僕もまだ捨てたもんじゃない。」「僕を弁護してくれてる」と感じるのは、僕が如何に社会人を脱落しているかをよくあらわしている。こういう自己弁護の本を見つけては僕がまたどんどん堕落していくのである。
 そして、僕の今の上司にこの本を貸したのだけれど、そのときの複雑そうな顔が忘れられない。
 ~大人げない大人になれ~
 まるで「お前が言うな!」「お前が読むな!」といわんがばかりに。
 そして全く関係ないけど、僕が好きだったバンド「Little Creatures」のYoutubeが見つかったので貼り付け。イカ天出身バンドの中では群を抜いてセンス良かったと思うんだけど、あまりJazzyなのは時代が受け付けなかったのかな・・・。

ジュ・リテール・モア・ノン・プリュ

 トラック野郎の話するぜ!と言っておいて、いきなり違う話でごめんなさい。
 いや、ちょっとね。先日読んだ本のことを、鮮烈に語りたくなりすぎて、割り込ませていただきます。
 そのうちトラック野郎の話するの、忘れるんだぜ。これ。
 
 
 30代回顧ゲーマーには必読の「3丁目の夕日」的ノスタルジーあふれる本です。
 まだまだ現役、角度はまだまだ上向き以上の僕ですが、こういうノスタルジックには脆いのでございます。
 内容はゲームを軸にしたエッセイ集。ゲームやったことない人にも十分楽しめる本です。読め。
 で、それ以上に思い出してしまったこと。
 あー、僕が若いころやりたかったこと、なりたかった職業ってこれだったんだなー、というまた変な感触。こういうフリーの神出鬼没ライター、ブルボン小林さん大好きです。
 そもそも作家というかライターに憧れが強かったです。10代から20代前半のころ、特に。
 理由は簡単、人に何かを押し付ける伝えるのが好きなのと、非社会人的生活であることがそのまま生活の糧になりそう、というライター的ライフスタイル感がとても僕の触覚をびんびん突いたのです。
 いやわかってます。ライターに対する視点がまるっきり間違ってることはわかってます。この年になって、そうじゃない事はよく理解しているのですが、当時は、やりたい事を好きなだけやってもご飯食べられそうだと思ってました。(今でも若干思ってます)
 ちゃんとサラリーマンしてなくても、起業してなくても、毎日ゲームばっかりしてても、寝てばっかりいても、酒ばっかり飲んでても、女の子口説いてばっかりいても、コンニャクとカップラーメンとティッシュの感触の違いを徹底的に研究していても、ラブプラスを3台並べてプレイしてても、「ライターです」と言えばなんかそれは「仕事なんだな。」と思われるじゃないですか。そして、こういった趣味的部分に100%力を注いでも、「仕事なんだな」という目で見てもらえるじゃないですか。うまく伝える技術楽しませる技術とネットワークがあればお金もらえるじゃないですか。更に経費として申請できるじゃないですか。飽きたら辞められるじゃないですか。僕はそういう仕事がしたいのです。誰に熱く語ってるんだ。
 やりたい事をやりたいだけやって、自分の好きなものを「これおもしれーよ。」と伝える仕事が好きなのです。その意味では今の仕事もあんまり変わらないな。
確かに、今の仕事「学校屋」は、ライターとは別に、やりたい職業ですので、満足してるのも事実です。
 ただ、正直、今、社会の中で活動してる自分に未だに違和感があります。
 「え、ちゃんと社会人してるんだ、僕」とか「うわ、かみさんが家にいて家庭持ってるよ」とか「マンションとか老後の話とか考えてるよ」とか「プロピアの資料請求しようかな」とか、そういう自分に未だに違和感を感じてるのです。
うーむ、違和感といったら変だな。「だったらやめろ」といわれそうだし・・・。なんつーか、「こんな僕でも社会活動に参加させてもらってます」といったありがたさを感じている、といった方が適切かもしれない。
 そうそう、若いころから「全うな社会人にはなれないだろう、お前。」という気持ちが強かったのです。
 そういう意味で、この世の中には感謝感激雨あられであり、全うに生きさせていただきます、と思っています。なれないだろうと思ってた「学校屋」になれてること自体が自分には奇跡なのです。
 10代のころから、人としての生き方に全くもって自信のなかった僕は、社会の規範を踏み外したままでも、何とかそのままでも食べていける方法はないかと考えたときに、ライターという職種しか思いつかなかったのです。(10代から諦めてたのかよ)(というか世のライターさんに失礼だ。)
 村上龍も「作家は、殺人犯にも乞食にも、ましてや総理大臣でさえもなることができる、最後の職業である」という言葉(若干違うかもしれないけど)があります。作家とライターを一緒くたにして、例えば覚せい剤をやっても許される唯一の職業、に考えていたのです。(タイムリーで危険な事言ってます)
 そんなわけで、大学4年生のころに、社会には嫌われそうだけど、生きてるの楽しいし、(当時は)ヒキコモリという職業もまだ社会的に認知されていないし、やりたい事して死なないで東京にいるにはライターしかないかなぁ、と思っていたのです。(今でもヒキコモリは職業ではありません)
 その理由で、脚本家募集のチラシに引っ張られて制作会社に入ってナンダカンダとやってるうちに、その気持ちが薄らいで、「ああ、社会って僕みたいなのも受け入れてくれるくらい間口が広いんだ。ありがとう社会!ソーシャルネットワーク万歳!」ということに気がつき始めてから、駄目人間のまま社会の端っこにいる快感に身をさらしてました。駄目人間を改善するのではなく、駄目人間を受け入れてくれる社会を作るよう、一生懸命努力してまいりました。間違ってる言うな。
 で、話が戻ります。
 社会で15年近くうろうろしていた後で、この本を読んだときに、「ああ、僕もこれがやりたかったんだなぁ」と改めて感じ入ったのです。
 社会に受け入れられそうもないから文章書こう、ではなく、社会に受け入れられてても文章書きたかったのかもしれない、と思ったのです。
 ブルボン小林さんの文章もそうですが、愛情を持って日々を過ごし、それを糧に生活することが僕の中では理想なんだなぁ。
 
 その意味で、この本は僕の中でいろいろと痛いところを突いてきました。簡単に言うと「僕もこういうのやりたい」という意味で。
 ただこれをかみさんに話したら
 「社会に受け入れられてると思ってるのはあなた一人で、現実にはあなた社会から存分に脱落してますから。」とのこと。なるほど。
 存分に脱落、という言葉が気に入りました。うむ、存分に脱落してみよう。これからも。今まで以上に。

SELDOM‐ILLEGAL―時には、違法

SELDOM‐ILLEGAL―時には、違法
 ふと、本棚の奥に並ぶ、埃を被った本達を整理する。
 その中に「SELDOM‐ILLEGAL―時には、違法 / 坂本龍一」がありました。
 20年前の、相当に古い坂本龍一のエッセイ集です。
 そして、僕の文体(特にこのブログ)から活動スタイルにいたるまで、様々な部分で僕の栄養素になってくれた大事な一冊です。
 音楽の授業で聞いた「音楽図鑑」で打ち抜かれ、「千のナイフ」「未来派野郎」で坂本龍一にノックアウトされた僕は、その後彼の書籍、エッセイ、評論には全て目を通すようになりました。あ、もちろん音楽もね。
 それでも、この本を初めて読んだときは、それはもうサカモトが大嫌いになりました。なんだこの上から目線のいやな男は。何を軽々しくバブリーな話をしてやがるんだこのサカモトっっちゅう奴は。と中学生の頃思いながら読んでいました。(じゃあ何で読んでるんだよ。という突っ込みはおいておいて)
 でも、僕自身が大きくなるにつれて、上から目線とかそんなことは全くどうでも良いことなのだと理解してきまして。自分が楽しんで世界を走り回って生活すること、肩に力を入れないこと、肩書きや権威に惑わされないこと、自覚無く屈託無く生きる事、など、生きる上で大事なことをこの本から学びました。
 この本はとにかく坂本龍一のモノローグ。長電話のように希薄な、ただ彼が思いついた事をぽつぽつと書き並べただけの作品なのですが、それゆえに彼の無意識にあるもの、生活と思想の擦れる部分が見えていて、僕は「大人になるってこういうことなのか。早く大人になりたい」と思っていました。いまだに僕がブログでモノローグを延々と語り続ける理由も、きっとこの本の影響です。
 別に名言があるわけでもない。ストーリーがあるわけでもない。そんな、この本を読んでいると、不思議と心が落ち着くんですね。
 (余談ですが音楽を奏でる人の書く文章と、数学を理解する人の文章って、基本的に非常に似通っていて、且つ洒脱な文章が多い気がします。僕の尊敬する最大のエッセイスト吉村浩二さんも音楽家だし。)
 ふと、何か自分が立ち止まったときに手にとることの多いこの本。また改めて読み返し、自分がやるべきことを思い直しています。
 あ、また「やるべきこと」なんて言葉つかっちゃった。「べき」なんて言葉自体必要ないんだよな。自分がすること。そして面白いと思うこと。そのうちにやっちゃうであろうこと、が見通せてきた、に言い換えます。
 このタイミングで、この本を手に取ったのも何かの縁だと思います。
 多分明日からのブログは、またこの本に影響された文章になるんだろうなぁ、きっと。僕、影響されやすいもので。
 それじゃあ、また。

桜桃忌

 今日は6月19日。

 太宰治の誕生日で且つ遺体発見の日。いわゆる「桜桃忌」です。

 桜桃忌には太宰好きが、墓のある三鷹の禅林寺を参る、という習わしがあります。

 いけすかない文学青年だった僕は「そんなミーハーなイベント事行って何になる。書物を読んでこそ何ぼ。供養など関係なかろう」」なんて気持ちもあって背中を向けていました。でも、さすがにこの年になってくると、昔お世話になった作家さんのお墓を参るのもいいものではないか、と思い始め、たまたま今年「太宰生誕100年」などでマスコミでも認知をかけてくれたので、暇に任せて三鷹まで行って参りました。

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 きたる善林寺。駅から結構遠い。足が疲れた。

 僕にとっての太宰治は、相原コージの「コージ苑」と言う漫画の登場人物がスタートでした。あの愛嬌のあるコミカライズされた姿がインプリンティングされていて、本を読んだことも無く太宰のキャラクターだけを偏ってみてました。

 でもまあ、若いころに数冊読んでみると、やはり文章が巧い。作家のキャラクターが立ち過ぎていて見失われそうになりますが、文章の技巧で言えば大変なものだと改めて大学時代に恐れ入って読み込んだ覚えがあります。

 なんというか、日本の私小説家のキャラクターを作り上げたという意味では、本当にヒーローです。功罪あるとは思いますが。年取ってみて、改めて好きな作家と名を言えるようになりました。

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 あまりお墓の写真を撮るのはいい趣味ではないことは理解しているのですが・・・。

 小畑健が表紙を書いた「人間失格」の影響か、はたまた元からの人気なのか、結構たくさんの人が弔問に訪れてました。お墓の手前で行列に並ぶほど。とはいえ3分程度だけど。もっと閑散としてるイメージだったのに。人気あるんじゃん。この人。

 花に紛れて、タバコの吸殻が丁寧に並べられていたり、ワンカップ大関が綺麗に置かれていたり、なかなか他では見られない粋な品が墓の前に並んでました。

 そして何より、お墓に彫られた「太宰之墓」の文字に埋め込まれたサクランボの数々。(写真参照)

 ものすごい淫靡で卑猥に感じてしまったのは僕だけでしょうか。誰だこんなことした人。それとも毎年の恒例行事なの?なぜかドキドキしちゃったよ。

 そんなこんなで初めての桜桃忌でした。高校時代に知ってから20年を超えての参列です。

 

 そのほか有名な文学忌では芥川の河童忌があるけど、参列者が大挙するイベントにはなってないよな。そもそもお墓がどこにあるのか知らないし。その意味でも太宰だけは特別なキャラクターなんだよなぁ。

 基本的に文学には疎いけど、お世話になった人に参ることそのものはいいことだと思います。年を取って少し素直になりました。はい。