ダンスパーティ撮影進行中

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キャメラマンしてきました。 in ダンスパーティ@パークハイアット新宿。撮ってる最中をAyako.S女史に撮って頂きました。
僕はカメラにはじめて触ったのが36歳。まだ経験値も4年ほどしかありません。周囲から「カメラを持ちなさい」「カメラを持ちなさい」「カメラを持ちなさい」「カメラを持ちなさい」と言われ続けて、プレッシャーを感じて初めて手に入れた得物です。その得方も、会社の同僚に「明日、20万もって横浜のココに来て」と言われて強引に購入させられた?ものです。それがこんな形で皆様のお力になれるとは。基本は、ブライダル撮影時代に丁稚をしていたときの経験が生きてます。あ、因みに一眼で撮ってますが、基本は映像屋さんです。

ココ最近の活動

相変わらずアクティブに生きてます。寝るのさえアクティブ。引き篭もり方も超アクティブ。布団でキリモミしながら将棋ウォーズやったり、布団相手にキン肉ドライバーをかける練習を1時間近く実行するくらいにアクティブ。こんな40歳の60日前。色々もう駄目だ。大人として駄目だ。人としても駄目だ。
【撮影現場入って来ました】

金曜夜にFacebookメッセージが届いた。
「ダメもとで質問!
来週月と火空いてませぬか?
WEBーCMの撮影なのですが演出部が1人になってしまいまして。。(原文ママ)」

あのな、僕はサラリーマンなのだ。品行方正なサラリーマンな訳だ。
その僕が、その僕がだ。月曜日と火曜日という全うな出勤日にだ、身体が空いてる訳がない。しかも来週月曜って、かなりタイトな依頼じゃないか。なめてんのか。もう長い付き合いだろう。いい加減気づいてもらえないものか。
というわけで僕の返答。
「あー、ごめん。火曜日だけなら動けるわー。」
偶然にも土曜出勤の代休となっていた本日。親友であり尊敬する監督から声を掛けてもらい、撮影現場に入ってきました。もちろん、サブワーク等ではなく純然たる身内手伝いなのですが・・・とはいえ、現場では真剣です。
ここ8年くらいを振り返るに、僕にとっての映像は、仕事とは別のライフワークの一つです(後は祭りとか中国語とか)。いわば「我が身の供養」に他なりません。近所の神社を掃除したり、御墓参りをするような。信頼する人、尊敬する人から声が掛かれば、感謝しながら、時間と身体の許す限り、応えたいと思っています。
撮影現場、好きなんです。あの緊張感。制作する内容に対して厳しい注文。音効、カメラ、キャスト、それぞれのプロ意識のぶつかり合い。そこに僕も一人のプロとして参加できることが何よりも僕のプライドになるのです。(といっても今回助監督という名の下っ端ですが)
いや、元来、気配りできない・空気読めない僕みたいな人間が助監督に向いてる訳がないのですよ。しかも若手ならまだまだ伸びシロもあるだろうに、この年になってしまったら使い勝手も悪かろうに。それでも使ってくれる監督(タカシバリュウイチ氏)が居てくれるのは本当にありがたい。できる限り、プロの中で、皆さんが仕事しやすい環境を作る補佐役として立ち回ろうと頑張ってきました。
今でも、声をかけてもらい、現場に立ち会えるのは、本当に嬉しい限りなのです。現場の緊張感、様々なプロフェッショナルのぶつかり合い、皆で良いものを作ろうとするその崇高さ。もちろん、日々も一生懸命生きているのですが、時にこういう別ベクトルから真剣勝負の場に参加する事で、自分の身を引き締めるのです。今でも、様々な事を学んでいます。10年以上前、新卒・プロダクション時代に身体で覚えた事を、もう一度思い出しています。
映像に関して、ひたすら編集側としてのスキルを積んでは来ており、そちらは少々ながらお仕事として皆さんのお役立てになれる力は着けてきたかと思っております(本当に、わずかながら)。
しかしながら、映像において編集は作業の一部。プリプロから制作・そしてメインとなる撮影、そのあたりを全く無視して編集ばかりやるわけにはいかないのです。
「撮影現場を知らない(カメラを操れない)編集屋」というのは僕の中の大きなコンプレックスでした。
もちろん、カメラマンとして独り立ちできるレベルには到底立てないのですが、7DやV1Jといった自分の機材を買って、練習をし、また今回のようにプロの撮影現場に立ち会わせてもらうことで、また一層、僕は学びを深くするのです。
もちろん、この年から演出補佐(助監督)として身を立てるつもりではありませんが、お役にたてる限り、僕の力を使ってもらいたいし、声を掛けてもらえる限りは全力を尽くします。そして、そこで身につけた現場感と人脈を、また別のところで活かしていけるようにしていきます。
http://instagram.com/p/eIBQIChKxT/
2枚目の写真は1年振りに活躍してくれた我が演出補佐セット(今回は結局カチンコ要らずでした)。撮影現場だけは、僕はカツラを被らずにキャップを被るのです。
【反面、編集に関しては・・・】
映像を編集していて、いつも吐き気がするような苦しい気分に襲われる。自分の才能の無さはもちろんとして、どうレイアウトすれば良いのか、画選びは正しいか、フォントは、編集点は、モーションは・・・どれ一つとして納得できずイライラしてしまう。
ふと、3年前の4月に、自分で作った友人の結婚式の映像を見た。僕の技術は今より稚拙だが、本当に真剣に、徹底して作りこんだ時の事を思い出して、少しイライラが落ち着いた。スタンスとしては「思い入れなんて幻想であり、経験を重ねた技術と構造化された知識こそが全てを作る」と信じているのだけど、自分で精一杯気持ちを込めた作品には、自分が立ち帰るヒントがあるようです。
さゆりさんとひろたかさんにまた救われました。ありがとう。
そんなこんなで、アクティブに映像三昧な毎日です。

ランジェリーパブの思い出(2)

その年は、取り立てて大きな事件が起きた覚えが無い。
覚えている限りでも、Jリーグが開幕したり、室内スキー場「SSAWS」がオープンしたり・・・。経済も文化もまだまだ日本の勢いが失速する前だった。正確にはバブルが崩壊した直後。でも、日本人にとってはサリン事件も阪神の震災も経験する前の、おおらかで夢の有る時代だった。
それが、1993年。

僕はその年の9月から、赤坂見附にあった「ランジェリーパブ・クラブスマイル」でウェイターとして働いていた。アルバイトの経験も、大人の社会に触れた経験も無い19歳の僕は、大人の社会のルールやマナー、そして力の入れ方と抜き方、抑えなければいけないポイントなどを必死で覚えなければいけなかった。
まずはトイレ。店内に一つしかなかったトイレは、従業員も同じトイレを使用するしかなかった。そこでのマナーは「お客様の気配を感じたらトイレを中断してでもすぐ外に出てトイレを空けろ」。
そんな無茶な、と思うかもしれない。でも、結論から言うと、トイレの中から外の気配を察知する技術、もしくは気配取り、は、人間でも可能な技だった。壁を越えて、人が近づいてくる気配、というのは確かにわかる。そして、それは音で察知するわけじゃない。店内には大音量でユーロビートが流れ続けていて、お客様の足音は全く聞こえない。「誰か来たかも知れない」という第六感だけを信用して、即座に僕は手を洗い、その場を去る準備をした。女の子たちはトイレの外で、おしぼりをもってお客様の用足しが終わるのを待っている。彼女達に会釈し、残尿感を持ちながらも、僕はすぐに持ち場に戻るのだった。
そして、灰皿。狭い店内、15ブロックほどしかない少ない客席の店内でも、灰皿の数は200以上用意されていた。角丸四角形の、小さなガラス製の灰皿群。そして驚くべきスピードで灰皿が使われていた。煙草一本でも捨てられると、どんどん入れ替えられ、店の一角へと運ばれていく。
その灰皿を、すぐに磨いて準備するのもウェイターの仕事だった。ポイントは、灰皿の角。使用済みのおしぼりを使い、角をえぐるように拭いては積み上げていく。
その他、ビールの持ち方、お盆に載せたビールの運び方。女の子達とのチェックの合図の交わし方。時にはウェイターもお客様に気に入られる事がある。そんなときは、席に座って話に参加する必要がある事も。些細な、細やかな作業ばかりだが、そういう作業の一つ一つに合理性、作法、方法論がある事を僕は覚えた。お客様へのお詫びの仕方、なんて事もそこで学んだ。アイスペールを運んでいる最中に、僕は誤ってお客様に水を頭からぶっ掛けてしまった事があったのだ。その瞬間の店長の飛び出し方と土下座の仕方を僕は今も覚えている。どんなスポーツ選手よりも俊敏な動きを、店長は見せた。そして一緒に僕も土下座し、許しをもらった。そのあとで、そのミスで僕は店長から一切とがめだてを受けなかった。「休憩行ってこい」と尻を叩かれて煙草を一箱もらっただけだった。マネジメントの要諦が、ここにあると思った。
休憩はいつも、店の入口からすこし曲がった路地で、座り込んで煙草を吸うだけだった。
そこで僕は、店の女の子「美奈緒」と会話を交わす事が多かった。
女の子達は特に休憩という概念があったのかどうか覚えていないが、僕が休憩を取る時間帯と、彼女が入店する時間帯が重なっていて、彼女に挨拶する事が多かった。21時半前後の時間帯。
「ヤマちゃん、寒いねー」
僕の名前「たすく」は特徴的なため、苗字「山本」からあだ名をつけられたことはほとんど無い。この店でついた唯一の呼び名「ヤマちゃん」は唯一の、苗字からの呼び名だ。39年経った今でも、これは変わらない。
「うん、寒いねー。今日も遅番?」
「学校が終わるのが遅くてねー」
「そっか。がんばってねー」
他愛もない会話。どこの学校に通っているとか、どこに住んでいるとか、更には本名は何なのかとか、僕は美奈緒の事を一切知らなかったし、知ろうとしてはいけない気がしていた。女の子達とは、業務上の関係という以上に、プライベートに踏み込んではいけないと思っていた。多分、それはマナーとして間違いではなかったのだろう。お店では僕は「ヤマちゃん」であってそれ以上でもそれ以下でも無い。どこに住んでるとかどこの出身とか、彼女達も僕に興味が無い。一人のウェイター。アノニマス。でも、その関係性だからこそ、女性とあまりコミュニケーションを取るのが得意じゃない僕も、フラットに話をすることができた。
彼女はクローズ後も、話しかけてくれる事が多かった。プライベートは踏み込まない、というさっきの話と矛盾するようだが、どの女の子達も、彼氏の話、友達の話、将来の話の3つだけは、踏み込んでも話してもいいルールがあったように思う。不思議なものだ。でも、逆に言えば、この3つの話題があれば、充分に相手の人間性がわかるし、コミュニケーションが取れる、ということでもあった。
彼女は特に僕に興味があった訳じゃない。それは今思い出してもよくわかる。ただ、近くに居た、年の近い、話し易いウェイター、というだけのことだ。彼氏と喧嘩していること、その原因は煙草の火の消し方だったこと、明日は青山に買い物に行く事、一緒に行く友達は中学時代からの親友だと言う事・・・その会話の節々から、僕は大学の女友達とは違う世界に住みながらも、同じ興味・同じ悩みを抱える女の子達の距離感、空気感を感じ取っていた。恋愛・友達・将来。その3点だけでも、様々な彩りの女性がこの世の中に居る事を知った。この、多層に重なった女性との距離感の取り方は、翌年に初めて僕が女性と付き合うことになったとき、大きな効果を発揮した。一途になりすぎたり、俯瞰しすぎたりしない、等身大で女性と付き合う、という意味で。
「好きな芸能人とか居るの?」
「オジサン好きでー。逸見さんとか好きー」
「そういえば、よくオジサンに指名されてるよね」
「それは店が決めてることだからー」
今で言うと誰だろう。思い出補正や当時の化粧文化などを計算に入れると・・・篠崎愛みたいな感じだろうか。ちょっとふくよかな美奈緒は、中年男性からよく指名されていた。指名数自体は決して多いほうじゃなかったが、接待の場や中年の集い?のような客層の席にはよく付いていた。
彼女はよくサッカーの話もしていた。僕はサッカーが全く解らなかったので、取り合えず話を聞いて合わせる事しか出来なかった。アルシンドや井原、柱谷という名前が良く出ていた気がする。それがどんな選手なのかは、今もって僕はわからないのだけど。
一番よく覚えているのが、少し暇な店内で、美奈緒を初めとしたサッカー好きな女の子と店長が和気藹々と、少し興奮しながら話をしていた時のことだ。
カウンター席の近くで、「今、一点勝ってるってよ」「今日勝てばワールドカップだって」「もう決まったようなもんじゃん」と客待ちの女の子が話をしている中に、勝俣州和に似た店長も少し割って入るようにして、サッカー談義をしていた。アズマもその日は出勤していた。流行りものを捕まえるのが得意な彼も、その日はサッカーの話題を店長と交わしていた。全くもってスポーツ、特にサッカーに関しては門外漢な僕は、みんなが何に対してそんなにアツくなっているのか、よく解らなかった。
30分の休憩に出て行ったアズマは、煙草を吸いながらラジオでサッカー中継を聴いていたようだ。そわそわと落ち着きが無い店内で、みんなはアズマが試合結果を教えてくれるのを待っているかのような空気だった。
突然、アズマが階段を駆け下りてきて、店内に戻ってきた。
「取られた。ロスタイムで取られた。同点だ。行けんくなった!」
店内にサッカー愛好者の悲鳴が上がった。数少ないお客も「え、サッカー負けたの?ウソ」とその話に食いついてきた。僕を除いて、店内の空気が一変した。
俗に言う「ドーハの悲劇」だった。
その日を境にして、美奈緒は出勤しなくなった。
もちろん、サッカーが原因じゃない(と思っている)。でも、ただのウェイターである僕は、辞めた理由など知る由も無い。沢山の女の子達が入れ替わる店内では、去って行ったアルバイトの一人に過ぎない。挨拶も何もできないまま、彼女との細い縁は切れた。
ふと、思い出して書き綴ってみて、初めて、すごく些細なエピソードの積み重ねで、僕とその店との関係はなりたっていた事に気がついた。大きな事件があった訳じゃないが、僕もそれから半年経たないうちに、その店を辞めた。理由は無かった。
先日、赤坂見附のみすじ通りを歩いて、僕の勤めていた店「クラブスマイル」の跡地を見た。もう20年も前に存在した店など、ほとんど誰も覚えていない。この20年の間に、何件の店が入れ替わり、ビルが建て直されたことだろうか。世界の全ての情報を網羅しているように見えるインターネット上にも、この店のことは記されていない。こんな情緒的で曖昧な記載が、ネット上に残る唯一の、店の記録になるのかもしれない。
店長も今は40代半ば、何をしているのだろう。あの当時店に居た女の子達も、お母さんになったり、OLになったりしているのだろう。何人かは、気付かないうちにすれ違っているのかもしれない。もう生涯、僕と接点を持つ事がないであろう数十人の人達。でも、僕はそんな彼ら彼女らからも、生かしてもらって、今こうやって生きているのであります。やっぱり頑張っていかないと、いけないんだなぁ。ぐうたらしてたら、罰があたりそうだ。
20年前を思い出して、ふと書き記してみました。若き日の記憶。

ランジェリーパブの思い出

赤坂見附
赤坂見附に行った。みすじ通りのランジェリーパブで働いていたのはもう20年前か。当時まだ10代だった。あの頃の店長の年齢もとうに超えてしまったなぁ。1993-2013。
何故そこで働こうと思ったのか今となっては解らないけど、当時は若いなりに社会を知りたいという欲求に従ってアルバイトをチョイスしていたのだと思う。同時に「絶対に、家庭教師と塾講師はしない」という変な決意もあった。どんなに時給が高くても、やりたくなかった。実家が学習塾を営んでいる僕にとって、それは「実家に帰ればいつでもできる」事であり、自立しようとする意思から逆流することだった。
今は色々言われているが、当時は(今も?)水商売・客商売の下っ端は体罰も当たり前だった。僕は決して体罰容認派では無いが、客前に出せる行動、言葉遣いが出来ない若造を店に置くからには、身体で叩き込むしか方法論が無かったのだろう。
(それは、今振り返ると、社会経験の無い僕が役に立たなかったのは当然であり、それを教育するシステムも無いままに雇ったり店頭に出したりする仕組み自体が問題だったのだと理解している。当時は「現場でしごいて教える」という丁稚システムがまだまだ幅を利かせてた時代だったのだ。)
当時は大学生で、それなりに女性とも接する学生時代を送っていたとはいえ、所詮学内のオシトヤカなお友達づきあいだけの閉鎖的な空間に居た。恋愛関係なるものも経験した事がなく、まだまだウブな19歳だった。
ランジェリーパブでは、そんな僕の前に、数多くの女の子達が突然にして現れた。
もちろん、色恋沙汰は無い。だけど、ウェイターと女の子、全くクチを聞かないわけでもない。同じ店を盛り上げる仲として、オープン前やクローズ後、それなりに打ち解けて話をすることが多かった。
打ち解けるようになって1ヶ月ほど。初めに思った事。
精神的に自立もしてなければ社会も知らない僕にとって、彼女達のなんと精神的に立派な事か。経済的にも社会的にも自立している事か。
いろんな子が居た。仙台から出てきて、ホストの彼氏と二人で住みながら将来飲食店を持つために貯金している子。博多から出てきて、ただとにかくファッションの世界に身をおく事でしか安心感を得る事が出来ない子。読書が好きで、一人で居るのが好きだけど、その反面彼氏依存で、ヒモの彼氏に捨てられないために頑張る子。普通の大学生。様々な経緯でそこに集まってきた人たちが、また様々な経緯で出会い、関係を織り成していく。
(因みに女の子にとって、お客様(オトコ)はもう完全に「物体」でしかなく、オープン前もクローズ後もお客様に関する話題は一切出てきませんでした。本当に、興味をもたれてないと言うのが良くわかりました)
彼女達は、僕と同じ19時歳の子もいたけれど、皆仕事に対して(どんなカタチであっても)ポリシーを持っていたし、生きるうえで大事なものが何かを理解していたし、それをお互いに尊重する寛容さも持ち合わせてた。言葉を変えれば、人が生きる上での「こう生きなきゃいけない」みたいなレールにものすごい幅があり、そのどこを進んでも自己責任でいいよね、というものすごく割り切ったサバサバ感があった。お金というものに対する接し方も、人それぞれではあるが哲学が見え隠れしていた。
僕は、そんな彼女達と一緒の空間に居る事が、とても恥ずかしく、また、またとない社会経験の機会としても捕らえていた。
僕が勤めていたお店は、オープンが18時。閉店は午前2時。
17時からお店に入り、30分掃除をしたら、早速マカナイが出る。マカナイはいつもその日の食材で決まるオリジナル料理だった。開店時は野菜スティックやポッキー盛り合わせ、水割りを作ってるその厨房は3畳ほどのスペースしかなかった。そこで、あまり会話をしない寡黙な厨房担当は、少し塩味の強い東北風味の料理を作ってくれた。日替わりで出てくるオリジナルなチャーハンやカレー、サンドイッチはとても美味しかった。
それを食べ終わると、その場に居る店長、副店長、女の子、厨房、ウェイターがみんな集まって、通称「ジュージャン」をする。何のことは無い。「ジュースを掛けてじゃんけん」するだけだ。勝ち抜けじゃんけんで、負けた子が全額自腹でコンビニから各自のジュースをご馳走する。僕はあまり負けたことは無かった。でも、負けることはとても怖かった。それはジュースをおごる、という経済的負担より、みんなが「メモも取らずに全員分のジュースを間違いなく買ってこれる」人たちだったため、僕が負けた時に「覚えられるだろうか」という恐怖が先にたっていたのだ。間違えたら、「ヤマモトォ、お前そんなこともできねえのか!」と(本気では無いだろうが)膝蹴りが飛んできたのは間違いない。厳密に言えば、その体罰自体が怖いのでなく、「ジュースすらまともに買って来れない、役に立たない自分」に気付き、気付かれる事そのものが怖かった。
買い物と言えば、僕はその店でイロイロと社会の隠語も教わった。いまや普通に使う言葉だが「マイセン(マイルドセブン)」「PM(フィリップモリス)」「セッタ(セブンスター)」「マルメ(マルボロメンソール)」。こういった言葉は全部この店で教わった。もちろん煙草だけではなく、お酒用語も、接客用語(社会人になってからは使えないような水商売専門用語だが)も、沢山教わった。
店長と副店長、そしてメインで入っている女の子達の煙草を用意して、ウェイターの仕事は始まる。
(時代の後押しもあったのかもしれないが、男女共に喫煙率は100%だった。)
後はひたすら接客業。ビールを運んでひざまづき、うやうやしくビール瓶を置いて、会話の邪魔にならないように綺麗に去る。
この一連の行為が、またとても難しくって、僕は何度も叱られた。
ここでも、一番大事な事は筋肉だ、と感じていた。
当時、一緒にお店に入ってくれていたメンバーの一人に「アズマ」という名の男の子が居た。
年齢は僕と同じくらい。でも彼は、このランパブの親組織に属している青年で、メインの仕事は街場で女の子をスカウトする事だった。もちろん、それなりに細身で身なりにも気をつけている、いわゆる「イケメン」だった。
そんな彼は、「これから店を背負っていける立場になる為に」ということで、内勤も経験しなければならないという先輩からの推薦で、僕の居た店に配属されてきた。
彼は店に来た段階で、ウェイターは未経験。立場的には僕より3ヶ月後輩。ウェイターとしては僕の方が長くやっていた。その意味では、僕の方が先輩でもあった。
が、そんな自信はものの見事に打ち崩された。
気の配り方、身のこなし方、ジュリアナサウンドが大音量で鳴り響く中での女の子の合図の見逃さなさ、目利き、動き、そしてちょっとバックで休むこズルさ。ああ、これがこの業界で働くと言う事なんだ。と僕はその時に実感した。「人」「気配り」「応対」それが社会を形成してるスキルなんだ、とその時にはっきりわかった。と同時に「僕は、何も、できない。」という事も理解した。
これは僕が大学時代に得た経験の中でもかなり大きな比重を占める自己認識だ。
アズマとはその先もなんとなく仲良くなり、彼の家に泊まりに行ったり、僕の家に遊びに来たりした。ミスター水商売とも思える彼がどんな生活をしてるのか、僕はとても好奇心旺盛に彼の家をお邪魔したのだが、そこはあまり、僕ら大学生と変わることはなかった。ただ少し、ファッションが多く、散らかってはいるものの女性が見たときに不潔に思うような状況ではなく、後は丸まった葉っぱやそれを吸い込む道具があったりして、とても興味深かった。そんな彼と、一晩えんえんとテトリスをしながら、夜を明かした。水商売で生きる男女の居る世界と、ただの大学生である僕の居る世界、何が違っていて、何が一緒なのか、その距離感を少しづつ掴んできた。
店がクローズすると、夜は2時。もちろん、終電は無い。
その時間になると、お店の外には「送り」と呼ばれるバイトが店頭に集結しているのだ。彼らは、現金払いで運賃をもらい、僕らウェイターや女の子達を、自宅まで送り届けるのが仕事なのだ。要は、店専属・帰宅専属のタクシーということだ。
よく、僕の住む西武柳沢方面を担当してくれたヤスさんは、今で言うステップワゴンのようなワンボックスカーのオーナーで、裏道を高速で飛ばしまくるのが好きだった。今思っても、よく人を轢かなかったもんだと感心する。とにかくマンションの隙間を時速60~80km代ですり抜けるのだ。それを助手席で怖がる女の子達の動きを見て、喜んでいるところがあった。僕が乗る後部座席のその後ろには、コンサートででも使うような大型のスピーカーが2台、上向きについていた。そこから流れる曲は決まって「2-unlimited」(時代だなぁ)

爆音でテクノを聞きながら、女の子達とあわよくば、の下心をもちながら、ヤスさんは僕らを送り届けてくれるのだ。そこで起きる会話は、お店の女の子達との会話とは又一味違って、面白かった。
お店でも、それなりにセクシャルな話は飛び交っている。そんな会話に飽き飽きしながらも付き合ってくれる女の子達の集団だ。でも、夜のドライバーとの会話は、仕事モードから脱却された女の子達がリアルに彼氏の話とかホストの話とか、借金の話とかが(話、というより愚痴ばかりだが)飛び出してくる。その会話をかいくぐって口説こうとするヤスさん。後ろで素直に聞いている僕。
「そこの、俺のMA-1取って」
「え、え、え、MA、なんですか?」
「山本ぉ、お前ファッションにも詳しくなんねと、モテないぞ」
そんな会話を通じて、僕は少しずつ、自分中心の小さな世界から外の世界を見るようになってきた。
因みにMA-1とは・・・。

同じ方向で帰る女の子は二人居た。「優香」と「葵」。どちらも源氏名だ。本名は知らない。田無やその先から通ってきている女の子達だった。
そんな彼女達と僕の帰り道はほぼ同じ方向にある。だけど、帰り道は全く一直線じゃない。時には六本木のラーメン屋に寄って夜食を食べる。女の子が海にいきたいといえばなぜか晴海ふ頭に行く。そんなこんなで帰宅時間は6時を越える。拘束時間としては賞味13時間/日になる。でも、これがまた楽しい時間帯だった。若かったんだな。
そのバイトは半年ほど続いた。93年の秋から、94年の春ごろまで。
大学一年の後半、冬休みは、このバイトに精を出していたと言っても過言ではない。
大学時に入ったサークルがあまりにも居心地よく、そこを抜け出せない自分にジレンマを感じながらも、「東京に出てきたのだから、世界を知らないと」と無い頭をひねって考え出した結果が「水商売で働こう」だったわけだから、その脳みその短絡性たるや、と思う。
でも、今振り返ると、僕の経験値として、この店でのアルバイト経験は充分に、役に立っている。
・・・
論旨もなく、ただ漠然と筆の向くまま、思い出を書き綴ってしまった。
もう少し、この店の思い出を話そうか。
その店で、僕は「美奈緒」という女の子と、割と親しく話していた記憶がある。
(つづく)
ランパブへ行こう! (デザートコミックス)

フットワーク

今日は旧友と大手町で会食。社会の話から経営の話、ゲームの話などで盛り上がる。でも一番盛り上がったのはヒューマンガス様のくだり。
10年以上連れ添っているブログと勝手に認識しているhibi-no-logが3ヶ月ぶりに更新していて、ああ僕も最近筆が鈍っているなぁと改めて自覚。と同時に、「もっと更新しなさいこの毛むくじゃら親父めが」と10年来の罵声を久々に浴びせる事にする。
 と、話は変わって。
 今日、とある方と久々にお会いしました。
 その方はまだまだ二十代の若さながら、4ヶ国語を話し、海外でデザイナー・ディレクターとして活動している方でした。今は日本に戻ってまた別の仕事を始めようとしているとのこと。最近、(自分がアジア関連の仕事をしている事とはまた別に)グローバルに活躍する人たちとお話をする機会が増えている気がします。
 その方は日本に帰ってきての(恐れ多くも)ご挨拶という事でわざわざ時間を割き、僕に会いに来てくれて、1時間程度の歓談をしたのですが、改めて様々な刺激を受けました。
・ソウルではWebデザイナーの地位はなかなか向上していない。
・韓国の街デザインはニューヨークを模している。
・韓国では日本の情報はかなり調べられている。反して日本には韓国の情報は少ない。
・アジア圏のコンテンツ著作権の意識は・・・まだまだ想像通り。
・第一線級で活躍する人のクリエイティビティはどの国でも変わらない。
・バイリンガルは当たり前。トワイリンガルも当たり前。

 言葉にするとどれも当たり前のようで、またどこでも手に入る情報のような気がします。でも、実際にその熱を感じてきた人の言葉はやはり心に響きます。そこには実際に経験したエピソード、各論、物語が多数ちりばめられていて、深く納得するものばかりです。
 と同時に、あまりグローバルでない僕も、気持ちが発奮してきます。
 ですが、やはり家庭や家族の事を考えると「父さんな、明日からロンドンでデザイナー始めることにしたから」なんて決断はなかなか出来ないわけです。いきなりそんな発奮の仕方をしなくてもいいのですが。もう少し小さなステップからはじめればいいのですが。
 でも、この感じ。家庭を持ったり、歳を重ねて世間としがらんだりすると、ダイナミックなフットワークを取りにくくなるんだな、と改めて思いました。
 体力や頭の回転ももちろんですが、世間と絡んでない強さ。若さの強みはそこにあります。
 20代のうちにニューヨークで揉まれたり、ロンドンで戦ったりすることの意味。いや別に海外に出なくても意識の持ち方でどれだけでも成長は出来るのですが、やはり出来る限り様々な刺激を受けた方が強くなるし、何より人生に彩りが増えて楽しい。そしてそのフットワークは、歳をとるにつれてどうしても鈍くなりがちなんだと言うことを意識しました。
 そうそう、「鈍くなるんだ」ではなく「鈍くなりがちなんだ」です。
 僕はまだ諦めてませんよ。絶対に鈍くなる、なんて思ってませんよ。
 鈍くなる可能性もあるけど、鈍らないように生きてくつもりですよ。
 40代に入って子供が何人か出来ても「父さんな、明日からラッパーとして食べてく事にしたから」なんてフットワークを忘れないようにするつもりですよ。
 それでも、この若きデザイナー・ディレクターのグローバルな活躍を少しうらやましく思ってみたり。
 僕ももっともっと頑張らないといけない。一つの会社の中で、一つの世界の中でだけ活動していてはいけない。もっと様々な角度の修羅場を経験しないと、楽しくない。
今日は撮影日。久々にいい汗をかきました。
 そんな気持ちを持ちながら、週末は撮影現場に出かけるなど、新たな刺激を求めながら日々を暮らしています。1年ぶりの撮影現場で感じたことも多々ありますが、これはまた別項。

手と足と頭

Fly
 手を動かして何かをクリエイト・開発・生産することは、これからの時代大きな武器になる。
 いや、武器になる以前に「作れないと駄目」な時代になると思う。
 同時に足を使ってさまざまな人と会う事が更に大事になってくる。
 ソーシャルメディアが発達すればするほど、実際に会うこと、その場所に行くことの重要性は高くなる。
 その上で「頭」。企画力、提案力。能率化や組織化。
 さまざまな発想が、手と足の効果を掛け算で増していく。
 今までは手が使えれば、足が使えれば、頭が使えれば・・・どれかひとつに徹底的に秀でた人であれば、十分に食べていくことができたし、むしろ一点に秀でることを求められていたと思う。
 でも、今、周りを見渡してみると、手が動き、フットワークが軽く、その上でヘッドワークに長けている人でないと、世の中は渡りにくい。
 ただ、求められるレベルは、(食品や医療など人命に関するものを除いて)旧来ほど高くはなくなってきている気がする。
 職人レベルまで求められないにしても、ある程度その三つがバランスよく使える、いわば「ビジネスと営業と開発・生産がとりあえず全部できる人」が望まれていると感じる。
 そう思った理由、その根拠は改めて後ほど。とても長くなりそうだ。
 でも、肌で感じる状態、信頼できる人からの話、白書などから調べた数値、どれを見ても、そう感じるに足るべき時代だと思っている。
 時代はゼネラリスティック・スペシャリストを要求している。
 その時代に対峙して、僕は何をするべきなのだろうか。
 よくわからなくなるので、とりあえずコーヒーでも飲もう。うむ。
 個人的には一芸に秀でたスペシャリストが好きなんだけれどね。とりあえず僕の個人的志向では全くスペシャリストになれる気配はどこにも無いけれど。
 薄暗い廊下で思索する虫のように、静かに考えてしまう夜です。

今日も仲間とご縁に囲まれて

 今日も仲間とご縁に囲まれて。
 先日の記載のとおり、今日は仲間と野外焼肉をしてきました。
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 勝手知りすぎる程知ったる方も、新しいご縁も合わせて10名程度。
 フラットにコミュニケーションとるには非常に良い関係と環境でした。
 朝の11時からビールを飲み、ヨシナゴトを語り合う。
 その中で出てくる共感や自己確認。自己成長の中には、こういう沈殿・消化の時間が必要だと思う。もちろん無理にする必要は無いのだけど。更に言うと、自己成長のために他者とコミュニケーションとるというスタンスも嫌いだけど。
 僕はただ単に好きだから、コミュニケーションをとるのです。
 焼肉の後は場所を変えて、テラスや台場でまた語らい。
 短い生涯の中で、こういった時間を持てることに、喜びを感じます。
 大人になると云うのは、素敵なことです。

スタジオ遊び

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 先日、Twitterにて、とある知り合いのカメラマンさんから
 「輔さんの写真を撮らせてください」 と云う連絡がありました。
 それに対し、
 「わかりました。●日はどうですか」と返事をしたことから話が進展。
 さる4月某日、急遽決まった撮影会を、おこなってまいりました。
 (後ほどかみさんから「馬鹿それはただの社交辞令に決まってるでしょ何を本気にして迷惑かけてんの!」と怒られました)
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 よくツルんでる仲間の一人。
 いつもお世話になってるカメラマン shutter-girlこと、ゆり茶さん。
 その他数人の馬鹿仲間も乱入してくれて、共に楽しい時間を過ごしてきました。
・・・
 スタジオ遊びって、いいね。
 前回のブログでも取り上げましたが、複数人であーでもないこーでもないと言いながらあれこれとヨシナゴトを語りながら、作品を作り上げる楽しさ。これは他の何にも勝る喜びです。
 撮影と云えば、今までの経験はほとんど仕事。
 時に横浜の映像制作チームで半趣味の撮影を引き受けたことがあるくらい。
 特にスチールオンリーの撮影は全く初めてでした。初めての経験は、何事も楽しい。子供に戻ったような心持で、刺激に満ち溢れています。
 当たり前だけど、防音設備は無いんだよね。あと、小道具がいろいろ揃ってる。それがまたいろいろと心地よい部分を刺激する。
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 昔、憧れていた制作集団の生活スタイルが、これでした。
 面白いアングルを見つけては撮影したり、光の当て方について学んだり、ゆっくりとお茶をしたり、例えば村上春樹について語りあったり、飛び入りで仲間がやってきたり。たまにビリヤードで遊んでみたり。終わった後はみんなでお酒を飲みに行ったり。
 何にも束縛されない。安全な自分達の空間があり、好きなおもちゃが揃っていて、楽しい仲間が側に居る。
 こういう時間の使い方がとても有意義で楽しい、と感じていました。
 一軒家をもったら、自宅にスタジオを作りたいな、と思いつつ、はや三十代も後半。
 ヒッピーを気取り、自由を弄ぶ年齢はとうに超えています。
 でも、時には、こういう時間を取り戻すのも大事です。
 
 日々に追われながらも、仲間と刺激を受け合う時間を持つこと。
 暴飲や色欲、浪費とは違う形で、楽しむ時間を忘れないこと。
 それがまた、職務や生活に良い影響を与えると信じています。
 大人になって、また少し、良い日々の暮らし方を学んでいます。
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趣味で映像を制作していて気がついた5つのこと

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 横浜のホテル 2Fの喫茶室にて。
 4月9日、元同僚の結婚披露宴に呼ばれて参加してまいりました。
 昔の仲間にも久々に顔を合わせ、楽しい時間を過ごしてきました。
 ここ3月から、複数の同僚・友人の披露宴にて演出映像を頼まれており、それぞれにしっかりと心を込めて作ろうとしていたら、約2ヶ月間、計6本の作品をひたすら作るばかりの休日になってしまいました。
 その間、震災もあり、身も心も本当にフラフラになるくらいでした。
 でも、そんな中で気がついた5つのこと。
1・家族や友人を巻き込むと、楽しい。
 コレは僕だけかもしれないけど、一人で自分ワールドを作るのが相変わらず嫌いなのです。
 自分が作っているものに家族でさえも巻き込んで、あーでもないこーでもないと意見を言いながら、更には横浜の友人にもデータを送りつけて意見を貰って、と、様々な皆さんの力を借りて制作するのが好きなのです。
 休日に並んで絵コンテ作るのは、結構楽しい時間だと、かみさんも言ってくれました。それが嬉しい。またやろう。(東京メトロ的に)
2・会場で自分の作品が流れるのは、楽しい。
 なんだかんだいっても、映像屋にとっての薬であり、一番ひきこまれる魔力は、上映されたときのエクスタシー、なんですよね。
 ソーシャルメディアではまだ感じることができない、多数のリアルな人間の前で、大画面で自分の作品が晒される瞬間。ものすごく恥ずかしいし、ものすごく嬉しい。
 この瞬間を味わったら、もう他の仕事には就けない、その気持ちが良くわかります。
3・生みの苦しみを超えるのは、楽しい。
 今回、さすがに震災の影響もあって、その後一週間は何も手につかないというか、絵コンテのイメージもわかず、直前まで制作内容に悩んだものが2作品あります。
 本当に苦しく、胃が痛くなる日々でした。
 結局、コンテが決まらないまま、何もイメージを持たずに、新郎新婦に「撮影させてくれ」とお願いをし、フラッと半日撮影をさせてもらってから、その素材を見たときにひらめいた流れのあまりに美しいこと。
 これは撮影を快諾してくれ、更に良い絵を沢山取らせてくれた新郎新婦のおかげなのですが、上映一週間前と言うタイトスケジュールにて撮らせて貰った撮影素材が僕を救ってくれました。コレが無いとどうなっていたことやら。いや、本当に、壁って乗り越えられるようにできてるんですね。
4・撮影現場は楽しい。
 上記と被りますが、今回、撮影は別々の作品で、この2ヶ月に2回ありました。
 一度目は砧公園に朝6時待ち合わせ。10時までの早朝撮影。
 さすがに手馴れたプロカメラマンのアシスタント役で動いたのですが、頭にある映像イメージが次々と形になるその現場の流れは、モノヅクリのとても心地よい緊張の時間でもあります。
 ぴりっとした現場の空気を感じることで、わずかながらも僕は楽しい人生の時間を増やしている気がします。
5・クリエイティブな活動は楽しい。
 あんまり、クリエイティブ、って言葉、僕自身に使うには気が引けるんですよ。
 どちらかと言うと、制作、製作の方が性にあってて。
 クリエイティブって言うと、イケメンDJ活動っぽいじゃないですか。
 僕のはただ部屋にこもってぐちぐちとしているだけです。
 それはおいておいて。
 なんだかんだいっても、モノヅクリは本当に楽しいです。
 ・・・この年になって、ようやく制作会社の呪縛から離れられそうです。
 
 とにかく、数をこなすこと。収益につなげること。
 新卒当時、勤めた会社でアシスタントプロデューサーとしてキャリアをはじめた頃から、モノヅクリに関して思い入れを込めることは「ご法度」でした。ディレクターやエディターの暴走を如何にとめるか。コストを落とせるか。時間を縮められるか。そんなことばかり考えながら、職務を行っていました。クリエイティビティをないがしろにするわけではないのですが、「その1フレにこだわること、その色調にこだわることで、それがどれだけ稼げるの?」という視点でばかりモノを見る癖がついてました。それはそれで、もちろんとても重要だし、今でもその側面は失わないようにしているのですが、
 今回思う存分作ってみて、
 やっぱり制作って楽しいんだ、と改めて感じました。
 当時はまだ制作クオリティと納期と金額をコントロール術を持たない若者でしたが、今でなら、少しは良い作品を作るために動ける範囲が広がったんじゃないかな、と言う気がします。
 納期や金額が無い制作なんて存在しないんだけど、そのバランスを巧くとる楽しみを、この年ながらに広げることができたと感じる2ヶ月間でした。
 そんなこんなで、今はやりのブログのタイトルっぽいネーミングにしてみました。
 うわー石を投げないで。
 

チームを組むということ

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 昔から、チームで何かをするのが好きだった。
 たとえば、バンド。4~5人でひとつの和を作って表現をするというそのスタイルが僕は大好きで、特にアドリブ満載のインプロビゼーション合戦なんて、未だにあこがれる演奏スタイルのひとつです。できないけど。
 たとえば、演劇。僕は役者ではないけれども、何人かのメンバーが集まってひとつの表現を作り上げるその葛藤、ドラマ。演劇そのものも大事だけれど、そこに至るドキュメンタリーがまた僕の大好物なのです。(舞台上にその葛藤そのものを見せる演劇は大嫌いですが。人に表現する際には技術を軸に演じればいいのです。)
 一人で何かをするというのがほとほと苦手で、また精神的にもよろしくないのです。
 
 とはいえ、フリーランス的な風体を僕はもっているらしく、(これでも会社員に落ち着いて5年目です)「いい加減フリーランスになったら」「フリーの方が食べれるでしょ」「貴方に正社員的安定は似合わない。」「はげてますね」などなど、皆さんからありがたい意見もたくさん頂きます。どうも皆さんに見えてる僕はフリーランス以上に社会人が似合わない人間のようですねすみません旅に出ていいですか。
 一人でできることについては、もう2000年前後にある程度見極めてしまったというのも正直な気持ちなのです。
 組織でなければできないこと、チームでなければできないこと。僕は組織の中で上がっていくというパワーシフトはあまり得意ではないのですが(そもそも自らの指標となる人で組織内でキャリアアップした人が誰一人居ない。父親含め。)、自ら何かのチームを作って流れを生み出していく事で影響力を積み上げていくスタンスを常に持ち続けたいと思っているのです。
 そんなことを考えながら半民半官、じゃなかった半社会人半禁治産者な生活を送っていると、少しづつ世の中が変わっていくのを感じます。
 最近は会社を作る、以外に、フリーランス同士のチームを組んだり、何かしらの動きを仲間で行ったりと、一昔前の言い方で言うと「緩いつながり」での交流、仕事の授受、クリエイティブ作業が生まれ始めていると感じます。
 昔からこういったフリーランス集合体のような形は多かったのでしょうが、最近の労務、業界の流れ、なんかを見ていると、今はより個人集合体で力をつけて、ある程度大きな仕事を取る段階になって会社組織にするほうが効率がいいように感じます。昔以上に。
 正直に感じてることを言うと、戦後からの日本の中で、今が一番個人で活躍しやすい、フリーにはなりやすい環境だと思います。そして、起業するには非常に困難な環境とも思います。同時に、正社員で生きていく道を選んだ人も、起業するくらいの覚悟がないと、会社ごと、あるいは組織内で淘汰されると思います。
 そんな風潮ですから、僕自身も、すこしづつチームで作業をすることが多くなってきました。僕としても願ったりかなったりなんですけどね。
 横浜での、大好きな映像仲間たちとのクリエイティブ定例会を筆頭に、渋谷でのクリエイティブチーム、麻布十番のMJ会、いろんなところに参加させていただきながら、自分の作品を見てもらう場、勉強する場、そして何より活躍できる場を流れの中で見つけることができつつあります。そうそう、これです。自分で「活躍したい」と一人で思ってても何にもできないけど、いろんな人たちと一緒に居ると、自然とやる事が増えていくんですよね。そしてその「やる事」をこなし、信頼に裏切らなければ、自然と大きな活躍になっていくわけで。
 その意味では、今僕が勤めている会社自身も、僕の参加するチームのひとつに他ならないし、8年以上の付き合いになる千葉の映像チームだって、今は完全に流れ作業の一環に僕が組み込まれてますが、その意味では完成されたチームなのです。
 チームを作ること、チームで楽しむこと、がんばること。大学時代から、ずっと僕の理想のビジネススタイルは変わらない。僕がやりたかったビジネススタイルに、結局は一歩一歩近づいているのだと思います。