輔見会

花見の季節です。

輔見会が行われました。

「また変なこと言い出した」「痴呆が始まったか」「誇大妄想かな?」「まだ50代なのに」「春だからな」という前に、聴きたまえ。

真実だ。輔見会が行われたのだ。

僕が見られたのだ。

50代のおっさんを見に大勢の人が集まってくれたのだ。誇大妄想ではない。

皆様がお酒だ食べ物だを用意してくれて、僕が仕事をする姿をひたすら眺めながら飲み続ける1日。もちろん仕事は捗っておらぬ。

「パンダのような生き方をしよう、人に愛嬌振り撒くだけでゴロゴロしながら人の役に立とう」と思い始めて6年。あらぬ方向に自己実現している。

もともと、僕は極度の寂しがり屋だ。

そのベースには「実家が学習塾」だったことが起因する。

実家の一室で学習塾をやっていたことから、みんなが僕の自宅に集まっていた。中学時代、僕が家に帰ると数名の同級生±2学年くらいの仲間が先に自宅に転がっていた。授業が始まるまで、思いのままにジャンプを読んだりお菓子を食べたりファミコンしたりしていた。大鍋で出てきた夕食を7人くらいの同級生プラス兄弟プラス親で一緒につついて食べていた

その空間が、僕にとっては当たり前であり、居心地の良い空間だった。

「自分の空間に、人がいる。」

それ自身が耐えられない人もいるのは理解するが、ある意味「孤児院的」というか「児童館的」な実家で育ち、外に出てはお祭りだなんだで公民館や集会場に顔を出す毎日を送っていた僕には

「自分の空間に人がいないなんて信じられない」

という精神性が出来上がってしまった。

寂しがりというか「僕のパーソナルスペースに人がいない!緊急事態だ!」と思うくらいに精神性が幼稚、ある意味病んでる、ある意味狂ったまま大学生を迎え、それこそ毎日のように友人宅に泊まりに行き、付き合えば同棲し、気がつけば結婚し、今では学校の先生として皆様にチヤホヤしていただくお仕事を行っている。ひとりで過ごした時間などほとんどない。孤独に耐えられぬ。死ぬ。

—————

で、輔見会である。

上記のまま大人になった僕は、大体皆に囲まれて幸せな日々を過ごしているが、リアルに「事務所に押し寄せて突然パーティを開始していただいた」のは僕にとって「35年前に実家で経験していたことじゃないか」と懐かしい思いに浸れる時間でした。心地よい空気が溢れていました。

結論、とても楽しかった。嬉しかった。

「人の仕事場に突然押し寄せるなんて!」と憤る方もいらっしゃるかもしれませんが、もちろん事前にはちゃんと約束を取り付けてくださる方がいて、かつ楽しい時間を過ごせた僕にとって本当に嬉しい1日でした。

いや本当にこんなにチヤホヤされるのは「世間が正気ではない」と僕は思っている。が、利己的に考えてこの方が心地よいので黙っていることにする。

もちろん仕事は捗っていない。

人の前に立つ

「人前に立つ」という役割がある。

書くとそのままだが、非常に深い意味がある。

僕は田舎の長男坊だ。

別に本家とか分家とか関係なく、田舎の長男はそれなりに古いしきたりの中で生きる。

祖父の時代から、家長が箸を持つまで家族は手をつけないとか、父が席に座る際は全員姿勢を正すとか、そういう教育を受けてきた。多動な僕はできてなかったけど。

長男は「その次の家長になるべく」して、それなりの教育を受けてきた。いわゆる「長男教育」。田舎の長男は案外多いんじゃないかな、と思ってるんだけど。

僕が教育されてきた部分はこうだ。

間違っていたらすまぬ。

「冠婚葬祭含め、家を代表して挨拶する日が必ず来る。そのときに堂々と振舞え。お前の役割はそれだけだ。だから、生きていろ。健康でいろ。生活や経済観念など、他はどうでもいい。生活感あふれる汲々した男になるな。堂々としていろ。堂々と遊んで、酒を飲んでいろ」

僕の理解としては

「普段は平々凡々、昼行灯で構わない。女中(時代錯誤なお言葉失礼)妾(時代錯誤な以下略失礼)丁稚(時代錯誤)に助けられつつ、皆に頭を下げてできないところを守ってもらいつつ、そして愛されつつ、普段を和やかに過ごすのが務め。基本「何もできない自分で良い。ただ、不機嫌にはならない。こうべを垂れて、皆に愛されていじられて『うちの大将はなにもできないんだから』と陰口叩かれて笑ってるくらいがちょうど良い」

「ただ、冠婚葬祭、喪主や総代など、いざ自分がその場の顔看板として立った際だけは、誰よりも堂々と。葬式であれお祝いごとであれ、最後の締め言祝でも乾杯の挨拶でも、答辞であれ送辞であれ、しっかりと堂々と「引き締まった会だった」と思ってもらえるように、座長の振る舞いがきちんとできること。

「田舎の長男」の仕事はこの一点に尽きると思っている。

僕が人前に立つ時は、この思想を根元に持っている。

その結果か知らぬが、僕は最近「人前に立つ」仕事が多くなった。それもただの先生業や登壇者じゃない。

「締めのご挨拶」だったり「卒業式の送辞」だったり「乾杯の発声」だったりと。

なんだこれは完全に「顔の人」ではないか。

まあでもいい歳だからな、そういう役割が来るのならば受けて立たないといけない。

話長くなった。

で、ハッピープレビュー(BYND卒業生主体運営の映像作品発表会)。こちらが2/29に銀座で開催されました。

参加映像作品は14作品。観客は70名いるかいないか…くらいでしょうか。

その中、今回もコメンテーターとして喋り倒してまいりました。

確かにこれは冠婚葬祭ではない(若干「祭」ではあるかな。)そして僕は主催者でもない。

だが、これで初回からずっと「前で喋る役割」を続けている僕自身、「顔役」を任されているという自覚があった。(それが不遜な勘違いであれば次回から辞退する。)

だからこそ僕は、堂々と振る舞い、堂々と語り、堂々と祝う。それで喜んでくれる方がいるならば、僕はいくらでもこの役割を続けよう。しっかりとその訓練、心意気をもって生きてきたのだからな。

「この人が『顔』を張ってるイベント」は間違いない(誠実だ/楽しい/ちゃんと締めるところ締まってる)と思っていただければ、僕はここにいる意味がある。

僕の仕事は、意外と「顔」になりつつある。

だからと言って昼行灯が許されるわけではないのだが、普段のんべんだらりとしていても「決めるときに決める」男でありたいものだ。

いや、基本がだらしない性分。

のんべんだらりと生きていきたいものだ。

浦霞の熱燗もう一杯頂戴。

…この「のんべんだらり」にも品格が求められると思ってるのだが、その辺りはまた今度。

綺麗に蕎麦が食べられる、とかね。

お金のために生きている訳じゃない

「好きなことをして儲かる」から嬉しいんじゃないんだ。

楽して稼いだり、老後の蓄えを作ったり、本当に興味がないんだ。

もっと極端にいえば、お金は嫌いなのだ。

ただ「お金が嫌い」と言うと、「じゃあ下さい」とか「貰ってあげよう」とか「お金なしでも働け」と言われるから、僕は口を閉じるのだ。

その!

人間という愉快な存在が!

お金という欲で醜く変容する姿を見たくないから、お金が嫌いなのだ。

僕がこの仕事をやっていて、しかも沢山報酬をもらっているのには訳がある。

「好きなことを表現できる」こと自体が嬉しいからなんだ。

更に、自分が表現したものに対して、みんなが大好きな「お金」と言う対価を差し出してくれることが嬉しいんだ。

一所懸命に「僕が表現するものに対して」方々に頭を下げたり稟議を通したり交渉したりを繰り返して「これだけ用意しました!」と言ってくださる方の心意気と覚悟に対して仕事をするのだ。

不遜かな。僕はそうは思わない。

これは、クライアントに対する「誠意」の形の一つなのだ。

故に、(簡単な話にすると)資本金10億の大企業が「ほれ」と差し出す1000万の案件は食指が動かない。

個人で頑張って、自身が赤字になってでも用意してくれた10万円のために頑張る。

もちろん、自分の手元に利益を確保しながら「少額だけどなんとか!」なんて言う輩は論外だ。ビジネスのためでなく、身銭を切る方のために協力したいのだ。

その上で、その覚悟のまま、大きなお金が動く表現者たり得る様行動しているのだ。

極論、僕は(失礼でなければ、法律違反でなければ)差し出された報酬をその場で焼き尽くしてみたいのだ。

それは「報酬が要らない」のとは訳が違う。

儲かりたい訳じゃ無い。

でも、安くは引き受けない。

これが理由です。

ただ、税金分と、僕が優雅に暮らす分くらいは頂くよ。優雅は大事なモチーフなのだから。