お祭りこそ命

戻ってまいりました。

労働基準法なんのその。株式会社彌榮では5月第三土曜日だけが休日と決められている上、その日以外は全て出勤日です(一人社長だから)。

伏木神社例大祭。伏木曳山祭。通称「けんかやま」。

すべてのエネルギーを燃やし尽くし、神々しいパワーを吸収して戻ってまいりました。

僕の生き甲斐は「来年もまた山車曳きたいなぁ」という感情です。もはやそれしかありません。

今年は能登半島地震の影響で開催が危ぶまれました。液状化も酷い中、お祭りをしていいものか、経済的にも地盤的にも大丈夫なのか…様々な方の意向、気持ちがある中、開催についても本当に議論が尽くされたようですが、僕はただとにかく「この町を大事に思う方が話を尽くして出した決断」に従います。その結果、規模が1/4に縮小、かっちゃ(ぶつけあい)も一箇所に限定し、四基の曳山にて行われました。

いち曳き子として。ただのいち曳き子としての感想です。

とても楽しかった。素晴らしい祭りだった。

もちろん、もっと奉曳きしたい。朝から夜までずっと山車に繋がっていたい。町中を曳き回したい、という「知らない人が聞いたらよくわからない」感情があることは否めません。でもそれはもう、仕方がないことじゃないか。あれだけの道を奉曳きできただけでも、僕は嬉しく思います。

そして何より、かっちゃ(山車同士のぶつけあい)

https://www.youtube.com/live/Fvz7-4p7xjc…

無観客で行ったこと。場所をいつもの「本町広場」「法輪寺前」から変わったこと。

幼少期(昭和50年代)から見ている僕からしても、見慣れない景色。

そして、これこそが「祖母から言い伝えられていた」かっちゃの姿でした。

昭和30年代、町の至る所で行われていたかっちゃ。

観客のため(と言っていいのか)、観光行事としての力点が大きくなる前の、自分たちが楽しむためのかっちゃ。

広い道で思う存分やりあえるかっちゃ。

気持ち良いくらいのみんなの笑顔。

総代たちの気持ちいいやりとり。

久々に見た、石坂町の「法被を着ない」拍子木のいなせな姿。

千枚のだしは緑じゃないし、ネオン「千」「枚」もなかったけどね。

全てが「聞いていた昔の姿」であり「僕が幼少期に憧れた姿」でした。

もちろん、こんな形ではなく、みんなが幸せに生活し、その中で思う存分「いつも通りの」祭を開催したかったものだけれども、

その中で、少なくとも僕は活力をもらいました。

来年もまた、そして以前通りの祭りができるようになるまで、僕はずっと応援、協力、支援し続けます。

彌榮の名前は伊達じゃありません。

コロナを乗り越えた総々代と、震災を乗り越えた総々代、同級生の二人が最後、特攻隊の先端として最後の一発を撃ち合った時、僕は涙がこぼれそうになりました。

伏木の町は昔から大火、地震は多いと聞いています。

まだまだ、負けません。

僕は今年も仕事をします。

気持ちの良い仕事をします。たくさん映像を作って、たくさん講義して、たくさん執筆します。

人の役に立って、ありがとうと言っていただきながらいただいた対価を、きもちよく伏木の町に還元していきます。

あ、もちろん福岡町にも、新宿区にも中野区にも市川市にも返していくよ。でもちょっと待ってね。特に新宿は本社があるゆえ税金で(以下略)。

改めて、頑張る理由とパワーをもらって帰ってきました。

今の気持ちはもうこの一言に尽きます。

「良い祭やったなぁ!また来年!」

ということで来年まで死に物狂いで生きていきます。仕事せな。

Works Preview

お祭りで全てのエネルギーを入れ替えた翌週は、卒業式でまた全ての感情を入れ替える。

昨日は映像の学校BYNDの卒業式「ワークスプレビュー」だった。

BYNDを詳しく知らない方には「一年に何回卒業式やってるんですか?」と言われるであろう。答えから言おう。8回だ。年に8回だ。ほぼ1ヶ月半に一回卒業式をやっている。なんといってもそれだけ受講生がいて毎回盛り上がっているからな。リアルタイムの対面授業にこだわり続けるこの学校、リモート主体な社会においても、意外と?人気あるんだぞ。繁盛してるんだぞ。

毎週対面授業を行い、ロケ弁までご用意しておいて、卒業式だけライブ配信という「訳のわからなさ」が魅力だ。まあ配信後に集まって飲んでるんだけどな。

僕は今回3つの講座を受け持たせていただいた。実写撮影・編集のメインクラス、音と色の専門クラス、モーションデザインの専門クラス。

間にお祭りがあり、代講をお願いした先生方もおりますが(ありがとうございます)、無事この日を迎えられたことを本当に嬉しく思います。

いつも思っていること。

僕は常に「その人にしか見えていない世界」を共有してほしい。喜ばせてほしい。

人は皆違う人生を歩み、違う視点を持つ。同じ景色を見ても、違う感想を抱く。アウトプットする言葉も異なる。

視座を広げることは、優しさにつながる。相手の立場を理解し、共感することができる。

二十世紀までは言葉と、絵画と、写真と、音楽と、演劇あたりが「視座」の共有、コミュニケーションのツールだったが、より高密度なメディアとして映像が一般人の手の届くところにやってきた。

であれば。

お金を稼ぐとか、YouTuberになる、といった目先の目的ではなく。(それもあっていいんだけど)

お互いの視座の共有、優しさの発露、コミュニケーションの手法に、一つ映像を加えることで、自分の人生が、あなたの人生が、より色鮮やかになるのではないか。と僕は思う。

そして、言葉には文法、音楽には楽典、絵画には筆遣いがあるように。

映像にも、コミュニケーションを取りやすくするためのマナーやルールが存在する。時にルール違反をすることも大事だけれども、やはり綺麗な言葉遣い、綺麗な姿勢で生きている人に説得力があるように、綺麗な映像を作れる人の方が、コミュニケーションは円滑になる。円滑になれば、豊富になる。嫋やかに、艶やかになる。

僕は本を読むのが好きだ。なぜならば、その時代、その環境に生きた方の思想や感情を共感することができる故。ピラミッドを作った人、将棋打ち、架空のヒーロー、様々な物語を経験する中で、自分の世界を広げてきた。

僕は今でも「言葉の人間」を自称しているが、その立脚点の上に「音・光・色・艶・香・触」といった「非言語」の分野を用いて、コミュニケーションをとることができれば。

僕は何十人、何百人分の人生を体感することができる。それはもう、不老不死と言っても過言ではないのじゃなかろうか。「100万回生きた猫」や「孔子」ではないが、人生経験を豊富にすることで、他者に対して手を差し伸べられる機会が増えるのではないか。

生きている限り、人の役に立つことは責務だと思っている。僕らは、他者と共に暮らしているし、先人たちの知恵のおかげで道があり、信号機があり、電灯があり、スマホがある。

享受するだけで生きてもいいのかもしれないけど…なんというか、先人の努力の上にあぐらかいて生きてると、その、ちょっとご先祖様たちに「かっこ悪いな」「ダサいな」と思ってしまう感覚があるのです。やっぱり格好良く生きたいし、子孫(おらんけど)からも「かっこいい大人ありがとう」って言われたいのです。

なんの才能も努力する気力もなく寝て暮らしたい僕としては(既にカッコよくないではないか)、せめて視座、視点くらい広げて、優しさを持った人間でいたいと思うものだ。

話が逸れた。

卒業式だ。ワークスプレビューだ。

僕が受講生のみんなにできたことはなんだろう…。何もできてないかもしれない。

単に「情報量多めに生きてるおじさん」「楽しそうに生きてるおじさん」なだけかもしれない。

いや、それでいいんだ。

嫋やかに、艶やかに。匂い立つような清涼感を持って。

「生きることは楽しいんだよ」「君の人生、君の見ている視点も素晴らしいよ」とお互いに言えること。言い合える仲間を持つこと。様々な手段で、お互いに触れ合えること。

僕はただ「そういうことを考えて生きるのが好きなおじさん」なだけだ。

そういう人がいるよ、ということが伝われば、それでいい。

みんな、卒業おめでとう。

そして、こちらの世界へようこそ。

僕は皆さんのおかげで「たくさんの世界に触れられる」「寂しくない」人生を歩んでいる。

感謝以外に、何があるというのか。

伏木曳山祭2024

明日はお祭り…なので、僕自身も年に一度のけじめとして、身綺麗にして臨むのですが…。

先程、富山に到着し、伏木の街に出向いたのですが、想像以上の被災状況に絶句しました。電柱は傾き、道は陥没し、賑わっていた家々がいなくなって更地になった箇所も多く。地震発生から半年近く経ってなお、大変な状況に。

道を修繕するためには、その前の地下水道から直さねばいけず、しかしながら修理工事業者も今は能登半島の方が優先で…と、なかなかに苦しい状況。

まさか、こんな形で祭りを迎えるとは思っていませんでした。

開催自体にも賛否両論あったとのことですが、ともあれ「地域復興の活力」として開催が決まり、明日は毎年の1/4の規模ですが祭りが行われます。

元に戻るには4〜5年かかるかな、という声も聞こえましたが、それでもなお続けていきたいという皆様の想いも伝わってきました。

僕も、何ができるかわかりませんが、精一杯尽力します。

明日は事故なく、大きな声を出していきます。

名言の中に名言を

僕のメモの中の名言集

このうちのどれかに、僕の適当な戯言が混ざっている。

ひとつだけとも言ってない。いくつ入っているかも内緒。

-狂気の定義は、違う結果がでることを望みながら、同じことを何度も何度もし続けること。

-この国は 「才能がないこと」 には寛大だが、「手を抜く」ことには偏執狂的に厳しい

-自分の前にいっぱい敵があらわれた時、振り返って見るがいい。味方だっていっぱいいるものだ。

-女とは 残酷でわがままでうそつきで… でも切ないくらい可愛いもの。

-日本における「真面目」という言葉の使われ方は「多数派や権力者の意見に素直に従う」「長い物に巻かれる≒空気を読む力がある」辺り。子供の頃における権力者はおおむね親や教師辺りなので、イエスマンになれば自動的に「真面目」という属性が付属することになる。

-誰も一夜にして肉体を鍛えようなどとは思わないだろう。それなのに、こと精神に関しては、すぐにも効果が現れるのが当然だと考える人が多いようだ

-私は弱い自分を許すことにした。駄目なやつだが、自分だけでも自分を許してやろうと、存在することを許す!と自分に宣言した。だから、絶対自分を責めない。生きるために、あえて自分に目をつむる。生きてることが一番大事。そんだけ自分が弱いってことを認めたから。だから他人も許す。

-どなたかも言ってましたけど「社会の厳しさ」の9割は「社会は厳しくあらねばならない」という妄想を持った人たちに作られてます。

-「自分は正しい」「これこそ本物」「これは良い事」

実はこう思った瞬間こそが人間が最も攻撃的になる時なのです。

-論理的に正しいということと、解答が正しいということは、実は相関がないのです。 論理的には正しくても、回答が間違っているということは日常茶飯事です。

-考えるのは誰でもできる。

だから作ったやつが偉いんだ。

そして、続けたやつはもっと偉い。

-現実か妄想かなんて多数決で決まるのだ。

-精神年齢が低い人の特徴は、自分の感情をコントロールできてないこと。さらにいえば、コントロールできるなんてことを知らないし、たとえ知っていてもコントロールしようとしない人。彼らは「自分が抱く感情は正しい」と信じている。

-「何か起こればいいのに」と思っているのが子供で、「何も起こらなければいいや」と思っているのが大人

-幸せにしてやろうとか、してもらおうとか、 与え合おうとか、 そんな奴らは結婚してもうまくいかないよ。

この人となら不幸でも構わない。コレ最強。

-自分をダメな人間だと判断しているようですが、その判断は本当に間違いのない普遍的な価値判断なのでしょうか?あえて厳しく言いますが、仮にあなたが本当にダメな人なら、自己分析をしたその判断もダメな可能性がありますよね・・。

-ロイヤルストレートフラッシュが5連続することはたぶん有り得ないけど、実際起こった後で「なぜそれが起こったか」なんて考えても意味はなくて、強いて言うなら「その確率がゼロではないから」だ。

-根拠のある自信は、根拠が無くなれば自信も無くなる。

根拠の無い自信は、決して尽きることが無い。

-失敗することを恐れるよりも真剣でないことを恐れたい

-人はさびしいとおかしくなる

ひっくり返すと、人がおかしなことやってるときは、だいたいさびしい

-人付き合いがうまいというのは、人を許せるということだ。

-誰が決めたかわからないような、わけのわからない決まりごとに粛々と従う人が多すぎる。

-世界の毒から子供を守るものは家族で、家族の毒から子供を守るものは世界だ。子供が健やかに育つためにはどちらも必要だと思う。

-人脈とは、自分が知っている人ではなく、自分に関心を持ってくれている人。ベクトルが逆なのです。

-笑う時、人は決して手を握らない 笑いながら手を握っている人は、つくり笑いをしているのです。

-私は祖国を愛している。

だが、祖国を愛せと言われたら、私は遠慮なく祖国から出てゆく。

-わけがわからなくなってからが本番です。

-言語への過信が近代人最大の迷妄の一つではないかと思う。

ぼくのせるふぷろでゅーす

セルフプロデュースや自己発信がお得意ですねと言われるが、どう考えても下手である。

いや、言葉を変えよう。「偏屈すぎて他者に応用が効かない変態的なセルフプロデュースしかやっておらぬ」

まずそもそも流行りとか知らぬ。どのSNSを使おうかとか考えぬ。手当たり次第に使う。全ては「僕のおもちゃ」であって「営業ツール」ではない。営業ツールや営業文、営業動画なんざ誰が観るか。(自己仕事の否定)

「SNSを頑張る」と言う概念もない。

僕は息をする様に文章を書く。垂れ流す。SNSはチラシの裏である。壮大なチラシの裏である。むしろ印刷してばらまきたいのでチラシそのものである。飛行機で「東京大本営発表」とばらまくようなチラシである。大人として眉を顰める様な発言、思想こそ更に際立たせて大きな声で書く。頑張ってはおらぬ。社会に怪訝な顔をさせたり常識的な大人に煙たがられたいのだ。問題提起や根底常識への猜疑こそが作家の役割なのだから当たり前だろうが。

動画の時代であろうがSNS戦略だろうが、僕は僕の文章で発信するし忖度しないし好きなことだけ好き放題言う。

動画屋だし映像を愛してはいるが、だからといって自分を動画や映像で売り込んだりはせぬ。

好きなことを好き放題放言して、その結果愛して頂く。このアナーキーさが僕なのだ。

「Web3.0の時代に」

黙れ僕は山本輔50.0だ。たかだか世紀末に現れた技術に僕の発言を左右されてたまるか。

「これからはAIが」

AIがどれだけ役に立とうが関係ない。僕は僕である。僕のことが好きな方はこの世に確実にいる。They love me.絶対的自己愛。有能性で負けようとも無能性では負けておらぬ。何を言うておるかわからぬ。

「プロダクトアウトでなくマーケットインでなければ」

黙れ。全ては僕発信、タスクアウトから始まるのだ。

僕の人生がアウトとか言うな。