ゆあーん ゆよーん



 簡単に感受性なんて言葉を使う奴を見ると反吐が出る。



 お前は感受性を何だと思ってるのだ。感受性という言葉を頼りに自分を評価するその根性に苛立たしさを感じる。

 「僕には優れた感受性がある」違う。感受性に優劣など無い。誰でも持っている、心の動きに他ならない。もし仮に優劣があったとしても、そこに意味はあるのか?競争するつもりなのか?感受性の競争?全く持ってばかげている。「感受性」という言葉を下手な言い訳や自己防御に使うくらいなら、優劣を無視したほうがよっぽどましだ。



 受け止める力。愛する力。目の前の人を思いやる心。晴れた空に幸せを感じる事。朝食べたご飯に喜びを感じる事。感受性。



 …音楽や絵画、舞台、文学から与えられる力、心の動き、感動は、2次的、人工的なものだ。いや、人工的に作られたものだからこそ、麻薬的に感受性に訴えかける巨きな力がある。そりゃ当たり前だ。感受性に訴えかけるため、その部分を愛撫してオーガズムを感じさせるために存在しているものが芸術なのだから。一度取り付かれると、マスターベーションに似た閉鎖的快楽となり、それは病み付きとなる。



 麻薬的快楽しか知らない奴に感受性を語られると反吐が出る。さらにはそれを自慢げに語られる奴に遭うと、虚脱感に襲われる。



 評価の基準も無く、権威も形も存在しない。だからこそ、実績の無い奴は好んで「感受性」と言う言葉を自己弁護に使いたがる。もういい。勘弁してくれ。そんな言葉で飾らなくても、お前に対する愛情は変わらない。無理にアピールしなくてもいい。外界から受け止めた感動は、そのまま人から滲み出てくる。「優しさ」や「思いやり」「逞しさ」と言った形を採って。それらを巧く捕え、訓練に基づいたアウトプットが出来るならば、それは作品と言う麻薬に加工できる。



 素晴らしい作品を作ったからと言って、お前が偉いとは思わない。勘違いするな。その努力は評価する。諸手をあげて喝采しよう。心から労おう。また、その作品の力も認めよう。作り上げるまでの葛藤、ドラマも是非聴かせて欲しい。でも、お前と言う人間に対する愛情は一切変わらない。少なくとも僕は。作り出した作品によって変化するような人間関係は持ってない。



 決して、生きる上で必要な力では無い。誰にでも当たり前に存在する力に過ぎない。それゆえに、それだけで金に転化することも無い。



 そう言う僕自身、感受性と言う言葉に囚われて身動き取れなくなっている。そんなモノをわずかなりにでも頼りにしているから、全てが困窮するのだ。役にたたねぇ。この言葉は、今の我が家にはデメリットの方が大きい。



 僕の感受性は、僕の人生を楽しく彩るための存在だったはずなのに…。それすら否定しなければいけない自分の生活が腹立たしい。



 だから今、「感受性」と言う言葉を聴くと、羨望ややっかみで、攻撃的になってしまうんだろう。あぁやだやだ。


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