夜明けの町



 最近キンモクセイの「二人のアカボシ」にハマってます。



 あの曲が好きだ、って言うと「若いね」と言う人と「ジジイだな」と言う人と真っ二つに別れます。うん、解ります。つうか僕も三分前まで村下孝蔵の曲だと思ってました。今は70年代ポップがブームなのか?



 でも、



 僕「二人のアカボシって良い曲だよねー。」



 某氏「そうだな。お前ハゲだからな。」







 この返事にはなんですかオイ。ジジイは100歩譲っても「アカボシ」=「ハゲ」はどういうシュールなんだコラ。それ以外にもお前とかお前とか。本当に特定個人じゃないんだろうなキミら2人共。







 さて、デマちんさんの波もほぼ完全に退きましたので、今日からは人目を気にはばからず書いていきたいと思います。



 あ、でも今日のデマちんちんは面白い文章発表してますので、再度文中リンク。ちょっと読んでみ。

 「文章力」とは!おおそうか。そんな言葉は存在しなかったのね。まあ、言ってみればそうか。言われてから解るんだけどね。いや、この人あったま良いわ。回転が速いとかそういう分野ではなく、きちんと言いたい事を平易に伝える能力があるという意味で。インテリともクレバーとも微妙にニュアンスの違う、もっとこう人格が揉まれているって感じの賢さを感じる。まあ、内容は賛否両論出てくるだろうなー。







 唐突ですが、僕の本職は自分でも良くわからないのですが「パソコンスクール講師」「イベントのPやD」「映像のAP」「ロボットメンテナンサー」「企画書き」「営業」「Web屋」「システム屋」「エセ社長」「かみさんの尻敷かれ係」などなど沢山の仕事をこなしてます。その割に金が(中略)。んで、これ以外にも2年前から「プロの翻訳者を目指す人に日本語を教える教師」もやってるんだよね。こんな文章書いてる僕が。なんで?何か間違ってると思う人手ー挙げて。ひーふーみー(中略)。



 当然、プロとしてモノを書く事を目指す人(あ、当然日本人ですよ)に日本語を教えてるわけですから、僕自身に理論だった日本語能力が無いといけない訳。だよね。でもまだまだ勉強中の身、なんとか考えながら授業しています…まあ、そんな環境だからこそ、ちょっとこの「文章力」「表現力」ってモノは気になるんだよね。



で、僕が思うに。



 基本的に文章にしろ発言にしろ、言葉ってのは基本的に記号なんだよね。「山」っつったらアルプスだったり富士山だったりそれらを包括したものであったり、抽象的なものを論理立てて考えられるように置き換えたものなんだと思うわけ。で、言葉を発言する側と受け取る側で、ある記号に対してどんな意味を持っているかってのは微妙に異なってくるわけだよね。例えば、うちら(北陸人)にとって「山」つったら立山が思い浮かぶだし、静岡県民にとっては「富士山」が真っ先に出てくる人が多数を占めるだろうしね。



 言葉一つとってもそうだし、言葉を構成して文章を作ったときなんかは尚更。言葉が連なり、ある論理構築をなしたときは、その文章が持っている本質ってのは発言する側と受け取る側で解釈が変わってくるんだよね。そりゃ仕方ないわな。記号に対する発想が違う上に、一人一人の読解力が違うわけだから。そうするとどうしても誤解や曲解が生れてきちゃうよね。言葉は人に何かを伝えるためのものであったはずなのに、なんでこうなるんでしょ。



 ある文章を解釈する権限は読む側に存在すると僕は思ってるのね。結局は何かを伝える事が言葉の目的であるならば、受け手が手に入れたものが全てであって、発信した側はそれ以上どうしようも無いものじゃない?例えばプレゼントだって、受け取った品物が全てであって、「本当はソレじゃなくてこんな感じのものを送りたかったんだけどね。」なんつっても全く相手には伝わらないわけで。で、発言する側としては、イカに誤解を少なく文章を書けるか、誤解されないようにするにはどうするかに注意を働かせて書く必要があるんじゃないかなぁ、と思ってる。例えば「お前こんな悪口言っただろ」「イヤ僕はこういうつもりで言ったんだ。それは誤解だ!」って言うトラブル、あるじゃない。こう言う場合、僕は書き手側に責任があると考えてる。程度にもよるけどね(自覚的に悪意ある曲解する人も居るからね)。書き手側の責任として、自分の思いを過不足無く、間違いなく伝える技術を持つ事ってもっと重要視されても良いんじゃないかなぁ。それこそが表現力であり、論理構築の力であり。



 確かに、難しい理論を上手く伝えたり、突飛で魅力的な文章を書く事が出来たらカッコイイよね。諸葛孔明が赤壁直前に呉の重鎮を論破したり、芥川賞作家の町田康みたいな独特の文章を書いたり出来るのって、かっこいいと思う(僕だけ?)。これも、表現力の一部分なんだろうけど、それは鉄棒で言えば大技「大車輪」をする事に近いよね。その前に懸垂がしっかり出来たり、逆上がりがきちんとできる事がまず必要になると思うなぁ。つうか、簡単な文章を誤解無く書くことができないまま、イッちゃってイケてる(と自分で思ってる)文章を書いてる人が時々目に止まります。気になります。いや、書いてる本人が気にならなければ良いんだけど。読む側としてはなんか、こう、尻の辺りがむずむずして。



 でも基本的に誤解無く伝えるためのテクニックって「短い文章を書く」と「係り受けを意識する。」と「語順と助動詞を吟味してトゲと誤解を無くす。」の三つくらいしか無いと思うんだよね。うん、難しくないと思う。うわぁ、言ってる事が国語教師くさぁ。ええ、国語教師なもので。エセって言うな。



 で、これを意識することで、(個人の)表現力の底上げがおきると、デマちんの言う「キャラクターの質」が問われ始めるんだろうな。うわ、面白そうだな。表現力が無ければ如何なるキャラクターでも誤解と難読(による嫌悪)に埋もれちゃうわけだからね(例外もあるけど)。逆に、キャラクターに自信の無い人は表現力つけたらボロが出る、っつうことか。表現力つけるのも問題だな。



 とにかく、言いたいことを伝えるんであれば、思ったことをそのまま書けばそれでいいわけじゃないんだよね(特定個人に言ってません)。簡単で平易な文章を書いて、誤解を少なくする、ってことにもっともっと意識を向けても良いんじゃないかなぁ(特定個人に言ってません。)。意識してるつもりで、出来てないことって結構あるぜ。上の三点、ちょっと意識してみてよ。いや、僕だって出来てるわけじゃないけどさ(特定個人に向けていってません。)。つうか、僕上の3つ今初めて知ったところだし。これから意識して書いてみようと思います。はい。すいません。





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