我が心のジョージア

 僕に何をしてもらいたいのか。僕はただのハゲではなく若ハゲだ。ただのボケではなく大歩危だ。決して地名などではない。僕がこのサイトでカミングアウトしていることは激しく真実である一方、その言葉の裏に潜む重大な真実を隠すカモフラージュとしても活用されているのだ。僕のハゲがデブであることを隠すように。ボケがブサイクを隠すように。米倉と矢田が佐藤を隠すように。


 むしろ僕は自分のボケハゲよりもジョージアのCMについて語るほうが閲覧者には喜ばれるかもしれない。顧客の要求を満たす事がビジネスの基本である。しかしながらこのサイトはビジネスではない。即ち喜ばせる必要も無い。しかし僕がジョージアのCMについて語るのもやぶさかでは無い。むしろ語る。語らせろ。


 ジョージアCMの出演者に問う。あの演技は何なのかと。あれはラップなのかと。しわくちゃっちゃは日本語なのかと。最後の米倉の白眼は何なのかと。あれは珈琲が黒色の液体という通称概念に対するアンチテーゼかと。ならば佐藤の顔面の大きさは何なのかと。あれは米倉と矢田の顔の小ささから比較して大きく見えるだけであり、即ち小泉の圧勝予想は他の勢力の矮小さを表現しておりこれからの日本の行く末を佐藤の顔面肥大で表現しているのかと。それならば佐藤の動きの鈍さは何なのかと。ボディにコクがあると動きにキレが無くなるという暗喩かと。それ即ちコクとキレは両立しないと言う珈琲飲料製作者の敗北宣言であり言い訳なのかと。然るにあの矢田の似非笑顔は何なのかと。偽物の笑顔で自らの行う演技の下らなさを隠そうと思っているのかと。しかしどんな笑顔見せても、心の中が読まれそう。大人ぶった下手な笑顔じゃ心かくせない大キライ大キライ大キライ大スキであり、ああそうさ僕はジョージアよりもボスの銀缶の方が好きなのだ。あのCMから導き出される結論はボスの銀缶であり、米倉矢田佐藤は3人とも放課後に僕の机に来なさい。ついでに浜崎も。

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