外に向かう誠心誠意は、自爆行為だ。

 僕はテレビやラジオなど、マス媒体メディアに目や耳を傾ける事が少ない。
 必要な情報は足で稼ぐか、またはこちらからプルできるメディアを使って、引っ張ってくるようにしている。もちろん、僕のフィルターに引っかからない、トータルな情報(金融や一般趣味、芸能、海外政治などだろうか)もどこかで補わないといけないのだけれども。
 時にふと、テレビをつけたりして(大体朝が多い)情報を流し込むようにすると、「希望」や「誠心誠意」「一生懸命」などの言葉・ドラマ・行動が耳に入ってきて、僕は暗鬱たる気持ちになる。それが辛くて、あまり多用しないのだ。
 もちろん、希望や誠心誠意がいけないわけじゃない。希望も誠意も懸命も、それぞれ楽しい栄養素だと思っているけど、向かう先がずれている事が多くて、僕は時々悲しくなるのだ。
 話が大きくなりすぎる。希望と一生懸命についてはさておきだ。
 誠心誠意、と言うのは決して第三者に向かうべきベクトルじゃないだろう。
 誠意、をそのままぶつけるのは、「僕は君の事をこんなに愛しているのに、何故わかってくれないんだ」と言う自己愛的情熱の発露でしかない。
 誠心誠意には、目的があり、その目的に対する自己献身を意味する。そして本来は、目的を達成するためには、知恵を搾り出す必要がある。そして、その知恵を搾り出す行為、掛ける時間と体力自体が、誠心誠意に匹敵するものだと思う。
 知恵を出すためには、充分な睡眠と食事が必要だし、考える時間そのものも確保しておかないといけない。そのために節制があり、自己管理が生まれる。
 知恵が出ない、と思えば頭を回転させるか、情報を増やすか、整理するかの3つしか手段は無い。頭を回転させるためには睡眠を増やし、食事を取る。休養もいいだろう。情報は決まった手順に従って収集、整理すればいい。ともあれ、目的に向かってまい進する、と言うことは24時間目的を想い続けることとは全く別種のものだ。
 心と意思、を用いて如何に結果を追い求めるべく知恵を絞るか、そこに尊さと献身が生まれるのだと考える。
 何も考えず、「誠心誠意がんばります」と言って技も知恵も無いまま突っ走るのは、戦闘機に竹やりで立ち向かうようなものだ。あるいは、会話したことも無い女性に告白に行くようなものだ。
 相手は失笑するか、柔らかく困惑するしかない。
 
 僕は今更何を言ってるのだ。若造じゃあるまいし。
 智恵を搾り出せなくなって焦っている自分への自戒、なのだろうな。
 いやだなぁ。頭で考えて文章を組み立てるのは苦手だ。内容がじじくさくなる。
 調子の悪さは、文体に出てくる。
 ことばと言うメディアは、自分の底の浅さをばらさないため、煙に巻くために使う道具だと思っているのに。

「外に向かう誠心誠意は、自爆行為だ。」への3件のフィードバック

  1. 言葉は道具だから。
    使う人次第で、癒しにもなるし、凶器にもなる。
    自分にとって真実の言葉は人には伝わらなくて、繕う為の嘘の言葉はいとも簡単に他人に受け入れられる。そんなものでしょう。
    それでも、色んな言葉が横行する中で、人に伝えるために吟味に吟味を重ねた言葉を発する人の思いは、きっと伝わる人には伝わる。
    虚飾に満ちた言葉は、それだけの物として人に伝わる。
    分かっていても無視できないX-10さんの真っ直ぐさが昔っから好きですよ。うらやましくもあるな。

  2. 笑い猫先輩、ありがとう。
     言葉の脆さと危険さはいつも感じます。
     でも、言葉で伝えたい事も多くて、その危なっかしさにいつもはらはらしてます。
     笑い猫先輩の言葉遣いにも、僕は昔から優しさを感じてました。いつも見守ってくれてた気持ち、今も感謝してます。

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