眠り その3

 元はといえば保育園時代より朝は起きれませんでした。もちろんそれを言い訳にするつもりは(ほんのちょっとしか)なく、ひたすら寝ることが好きでした。
 て、いったい僕は誰に向かって何を自己吐露してるのだ。なんでこんな流れになってるのだ。
 恐ろしいのは、保育園時代からすでに「正刻に集合する事ができなくても世の中は渡っていけるものだ」なんていう思想を身に着けてしまったことです。
 いや、わかるよ。社会人も10年やってみたら、定刻に出勤しないとか、そんなこと許されないし、もちろん軍隊などでは規律が何より重要だという事も身に染みて実感しております(何故)。
 いまやそんなことは極力無いようにに生活してますけどね、ええ、もちろん。
 学校って、もともとそういう社会性を身につける場所だったと思ってます。
 友達と仲良くする、時間を守る、掃除をする、etcetc…授業よりも大事なことはそういう「社会の規律」を身につけるために通う場所だと実感してます。
 でも、問題は「社会の規律が守れない」人には別のルートを用意することができず「守れるまでやらせる」しか方法論を示せなかったことじゃないでしょうか。
 やー、わかる、わかってますって。時間が守れないとか掃除ができないとか、それは人生の価値観とかいう問題でなく、集合体の否定であり組織を統制することを拒否することに他ならないこともわかります。それゆえに「何があっても可能でなければならない」事であることも理解してます。国家という枠組みの中で社会のメリットを享受するためにもね。それができなければ枠を外れてアウトローになるしかない(でもそれはひとつの選択肢として、常に国家※の枠を外れて生きる覚悟はしていかなければならないと思ってます…家族が居る限り難しいけどね)。
 つか、社会のルールを守るのに相当な労力を必要とする人には、それなりのケアが必要な時代になってきたのではないでしょうか。逆に、社会のルールを守るのに労力を使う人はそのことを覚悟して自分の生き方をセグメントする必要があると実感します。
 などなど、起きてると僕はどんどんこういうことを考え始めて、一見反社会的に見える発言が多くなってしまうので、ここらでゆっくり寝ることにしますおやすみなさいぐうぐう。
(全然反社会的でなく、リスクを背負って個人が立てれば良いと言うだけのことなんですけどね。その考え方が文化的に反社会性にうつりやすいのでしょう。脊髄反射的な受け取り方によっては個人=国家対等論になりますからね。言いたいこともいえないこんな世の中じゃぽいずん。)
 とまた青二才的な発言になるのでやっぱり寝ますぐうぐう。
 僕が寝るのは変なことを考えすぎないようにするためです。
 全然冒頭の話から支離滅裂になりました。すみません元々オチ無かったんです。
 
 
 別に何かに不満があるわけじゃなく、日々僕はこういう事考えて生きてるんです。信じてください。て、余計に変な人か。
 
※「国家」なんて怖そうな言葉使ってますが、僕は「国」と「国家」と云う言葉だけはどうしても同義に使えないのです。国は伝統や文化、土地や歴史を含みますが、国家は社会的組織です。国は好きだけど国家のやることは…とか、「愛国心」と「愛国家心」は別物である事とか、国のために国家をリニューアルするとか、は至極当然にあってしかるべきだと思います。と云うか、歴史を学んだ人には当たり前の事なのでしょうが…なんか今の日本では同義でしか語ってない上に、同義で語らせるように言論統制が敷かれてる気がして。あれ、なんか怖い事言った?

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください