ジュ・リテール・モア・ノン・プリュ

 トラック野郎の話するぜ!と言っておいて、いきなり違う話でごめんなさい。
 いや、ちょっとね。先日読んだ本のことを、鮮烈に語りたくなりすぎて、割り込ませていただきます。
 そのうちトラック野郎の話するの、忘れるんだぜ。これ。
 
 
 30代回顧ゲーマーには必読の「3丁目の夕日」的ノスタルジーあふれる本です。
 まだまだ現役、角度はまだまだ上向き以上の僕ですが、こういうノスタルジックには脆いのでございます。
 内容はゲームを軸にしたエッセイ集。ゲームやったことない人にも十分楽しめる本です。読め。
 で、それ以上に思い出してしまったこと。
 あー、僕が若いころやりたかったこと、なりたかった職業ってこれだったんだなー、というまた変な感触。こういうフリーの神出鬼没ライター、ブルボン小林さん大好きです。
 そもそも作家というかライターに憧れが強かったです。10代から20代前半のころ、特に。
 理由は簡単、人に何かを押し付ける伝えるのが好きなのと、非社会人的生活であることがそのまま生活の糧になりそう、というライター的ライフスタイル感がとても僕の触覚をびんびん突いたのです。
 いやわかってます。ライターに対する視点がまるっきり間違ってることはわかってます。この年になって、そうじゃない事はよく理解しているのですが、当時は、やりたい事を好きなだけやってもご飯食べられそうだと思ってました。(今でも若干思ってます)
 ちゃんとサラリーマンしてなくても、起業してなくても、毎日ゲームばっかりしてても、寝てばっかりいても、酒ばっかり飲んでても、女の子口説いてばっかりいても、コンニャクとカップラーメンとティッシュの感触の違いを徹底的に研究していても、ラブプラスを3台並べてプレイしてても、「ライターです」と言えばなんかそれは「仕事なんだな。」と思われるじゃないですか。そして、こういった趣味的部分に100%力を注いでも、「仕事なんだな」という目で見てもらえるじゃないですか。うまく伝える技術楽しませる技術とネットワークがあればお金もらえるじゃないですか。更に経費として申請できるじゃないですか。飽きたら辞められるじゃないですか。僕はそういう仕事がしたいのです。誰に熱く語ってるんだ。
 やりたい事をやりたいだけやって、自分の好きなものを「これおもしれーよ。」と伝える仕事が好きなのです。その意味では今の仕事もあんまり変わらないな。
確かに、今の仕事「学校屋」は、ライターとは別に、やりたい職業ですので、満足してるのも事実です。
 ただ、正直、今、社会の中で活動してる自分に未だに違和感があります。
 「え、ちゃんと社会人してるんだ、僕」とか「うわ、かみさんが家にいて家庭持ってるよ」とか「マンションとか老後の話とか考えてるよ」とか「プロピアの資料請求しようかな」とか、そういう自分に未だに違和感を感じてるのです。
うーむ、違和感といったら変だな。「だったらやめろ」といわれそうだし・・・。なんつーか、「こんな僕でも社会活動に参加させてもらってます」といったありがたさを感じている、といった方が適切かもしれない。
 そうそう、若いころから「全うな社会人にはなれないだろう、お前。」という気持ちが強かったのです。
 そういう意味で、この世の中には感謝感激雨あられであり、全うに生きさせていただきます、と思っています。なれないだろうと思ってた「学校屋」になれてること自体が自分には奇跡なのです。
 10代のころから、人としての生き方に全くもって自信のなかった僕は、社会の規範を踏み外したままでも、何とかそのままでも食べていける方法はないかと考えたときに、ライターという職種しか思いつかなかったのです。(10代から諦めてたのかよ)(というか世のライターさんに失礼だ。)
 村上龍も「作家は、殺人犯にも乞食にも、ましてや総理大臣でさえもなることができる、最後の職業である」という言葉(若干違うかもしれないけど)があります。作家とライターを一緒くたにして、例えば覚せい剤をやっても許される唯一の職業、に考えていたのです。(タイムリーで危険な事言ってます)
 そんなわけで、大学4年生のころに、社会には嫌われそうだけど、生きてるの楽しいし、(当時は)ヒキコモリという職業もまだ社会的に認知されていないし、やりたい事して死なないで東京にいるにはライターしかないかなぁ、と思っていたのです。(今でもヒキコモリは職業ではありません)
 その理由で、脚本家募集のチラシに引っ張られて制作会社に入ってナンダカンダとやってるうちに、その気持ちが薄らいで、「ああ、社会って僕みたいなのも受け入れてくれるくらい間口が広いんだ。ありがとう社会!ソーシャルネットワーク万歳!」ということに気がつき始めてから、駄目人間のまま社会の端っこにいる快感に身をさらしてました。駄目人間を改善するのではなく、駄目人間を受け入れてくれる社会を作るよう、一生懸命努力してまいりました。間違ってる言うな。
 で、話が戻ります。
 社会で15年近くうろうろしていた後で、この本を読んだときに、「ああ、僕もこれがやりたかったんだなぁ」と改めて感じ入ったのです。
 社会に受け入れられそうもないから文章書こう、ではなく、社会に受け入れられてても文章書きたかったのかもしれない、と思ったのです。
 ブルボン小林さんの文章もそうですが、愛情を持って日々を過ごし、それを糧に生活することが僕の中では理想なんだなぁ。
 
 その意味で、この本は僕の中でいろいろと痛いところを突いてきました。簡単に言うと「僕もこういうのやりたい」という意味で。
 ただこれをかみさんに話したら
 「社会に受け入れられてると思ってるのはあなた一人で、現実にはあなた社会から存分に脱落してますから。」とのこと。なるほど。
 存分に脱落、という言葉が気に入りました。うむ、存分に脱落してみよう。これからも。今まで以上に。

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