僕は天下のばったモノ

 ある人に「斜に構えるな」と諭された。
 正直、自分の中ではそういうつもりはまるでないのだが、自分のターニングポイントには、そう言われる事が多い。
 「斜に構えすぎるな」
 「損してるよね」
 「そんなにカッコウつけないで良いから」
 「もっと泥臭くていいのに」
 「悟り切った顔しててつまらない」
 はい。どれもよく言われる言葉です。それも10代前半から。
 もちろんね、そういう言葉を真剣に僕は受け止めているつもりだし、自分の中で改善を続けている心持はあるんですよ。
 でも、正直まだ自分では良く解らない事が多いのです。
 僕は常に素直でいるつもりだし、大事な人たちを大事だと胸を張っていっているし、苦手なものは正直に苦手と伝えて沙汰を待つようにしてる。のだけど、それ自体がおかしいのかな。(苦手を克服しようという気持ち、無し)
 子供の頃からわからないのですよ。人目を気にしすぎるな、とか、よく言われるのだけど、僕は思ったとおりに行動してるつもりなのです。これでも。
 なんというか、最後は自分の思い通りになる、といった不遜な自信が心の奥底にあるんですよね。
 (うーむ、だとしたら素直な自分自身が思いっきりネジくれているのかもしれない。)
 「X-10はどこに向かっているのだ?」「本当は何がやりたいのだ?」とも、この時期いろいろ聞かれることが多いのですが、正直、僕の中では「ご縁ありき」で、全ての僕の成長は周りとお天道様が決める、と思ってて他助努力によって生かされていると思っているために、向かう方向もお天道様と海原次第、と心から思っている、のは、本心なのですよ。自助努力、もあるけど、9割は周りが動かしてくれていると思っているため、あまり成長欲が無いのですよね。と書くとえらいダメ人間だな。わはは。
 こういうところが斜に構えているといわれる所以なのかな?ココこそが本心だといってるのに。
 不遜な話かもしれませんが、僕はずっとそう思ってきたのです。
 「自分が信じていれば、ご縁とお天道様が、その方向に大海原を案内してくれる」と。
 入りたい会社も、学校も、結婚も、「その方向に向かう」と思っていれば、確実に自分の手元に入ってきました(不遜な言い方ですが、僕はそう感じてるのです。)。何か人一倍の努力をしたわけではなく、人として全うに生きてきた(ダウトって言うな)ら、きっと良い形になる、と思ってたら、そうなったのです。
 今居る会社なんてまさにそう。同社の存在を6年信じてたら入社しました。その中で通いたいコースに通う、と信じてたら今年通えたし。それもすばらしい先生の下で。大学なんて最たるもの。18歳の頃、偏差値最後まで僕は40台前半のままでした。それでも小論文のみで第一希望の大学に入学。「信じてれば大丈夫なのだ」とその頃から思ってました。かみさんの病気だって最後に鬱を打ち砕いたのはその信念だけです。ただまあこの話は今日の本題で無いので割愛。
 その頃から斜に構える下地が出来ていたのでしょうね(斜に構えてるの認めてるのかよ)。
 つか、これだけの実績を元に僕はそう信じているのだから、決して斜に構えているわけではなく、心の奥底から「惚れたもの、信じたものは、必ず周囲のおかげで良い結果が導かれる」と思っているのです。
自らの力による開拓意欲が薄い。全くもってフロンティアスピリット無し。どちらかというと神輿の上で「みなさんありがとうありがとう」と言ってると自然と進んでくれるような。なんちゅう不遜なんや。
 ただ、会社も学校も結婚も(敢えて特徴的な3つを出しますが)、一つだけいえることは、他者の評価とか、「ステータスになる」とか「他人と比較していいところにいく」とかといった事だけは全く考えず、自分が惚れ込めるかどうかだけが選ぶ判断基準でした。「こいつヨメにするとステータスだよな」とか「この大学ならモテモテだな」とか「この会社に入ると高収入でウハウハだな。」とかだけは絶対に考えなかったのです。なんというか、僕の中で、それは「邪念」なのです。自分が惚れられるかどうか。それだけを純粋に判断基準にした場合、必ず惚れたものは僕の手元にやってきます。今までも。これからも。
(なんか僕さりげなく酷い事言ってる?)
 ただ、ね。
 上記の人と話をしたときに、ちょっとだけ、お天道様の力だけじゃなく、自分の向かう方向に自分で泳いでも良いじゃないかな、と思ってしまいました。
 
 「斜に構えるな」と言われたことが、ちょっと素直に受け止められることが出来たのかもしれません。
 というか、そんなに自助努力嫌いなのか。僕。
 努力してませんよー。とそんなにアナウンスしたいのか。
 「昨日勉強して無くてさー。」とテスト前に言う中学二年生か。
 まあ、自分突っ込みはさておき。
 努力云々じゃなく、信じて漂ってるのではなく、目標地点まで奪い取りに行くような心持も、時には必要なのかも、と思えたのです。
 自分の中でも「現場屋」なのか「学校屋」なのか「営業屋」なのか「経営屋」なのか「変態屋」なのか、その場その場でコロコロと姿を変えてきて、その自分に何の疑問も抱いていないのですが(畢竟「山本屋」です)、そのあり方も少し自己意思を交えてみようと思ったのです。
 求められる屋号で漂っていれば、僕の目的には近づくものだと思ってました。
 でも、時には自分の屋号を自分で選んでいくこともあるかな、と、思ってみたりして。いやん。こんなの初めて。
 というか、この年齢までこんな不遜クラゲ野郎が生きてこれたことが実はたいしたことだと自分では思っています。みなさんありがとう。
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 てなわけで、「斜に構えるな」といわれた後、毎度恒例、わが家の護符尊・根津神社に参拝。気持ちを落ち着かせて、職場に向かいました。

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