木鶏には程遠くて

 毒を吐く、と云う行為は全く持って好きではない。好きな人もそんなにいないだろうけどね。
 また、強烈な言葉、辛らつな言葉をこのブログに置くのも、本音は心外な部分があります。
 今日の記述は、仮定の話も含めて、自戒も込めて、のお話。
 このように思ったのはもうずっと前の話です。最近の僕に「何かあったの?」と言われても、何も無いんだよね。いや、時間を掛けて風化させる、濁すためにもちょっと時間を空けたのです。
 自分の中でも消化できると良いなぁ、と思ってたのですが、いかんせん、半年以上経っても、気持ちに変わりは無いままで、このまま風化を待っていても、詮無い話だなぁ、と、感じていました。
 心にとどめていたことでもありますが、今になって、やはりそっと認(したため)ておこうと決意しました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 僕が最も忌み嫌うもの。そして生きていくうちで自戒をこめて、踏み外さないようにするロードマップとしての境目が「無視」と「嘲笑」と「侮辱」です。
  生きていると、どうしてもいろんな過ちを犯してしまう。僕だっていつどこで、誰の気持ちを殺めているかわかったものじゃない。その懺悔の気持ちもずっと持ち続けていないといけない。
 ただ、気持ちとしては、誰かを「無視」「嘲笑」「侮辱」することは無いように、無いように心がけていかなければ、とはいつも思っている。これらの言葉、これらの行為はそれほどまでに強烈なもの、です。
 人は、過ちは許すが、侮辱は生涯許さない。
 だからこそ、僕は人に敬意を払っていきたいのです。
 僕もまた、然りです。
 僕や、僕の家族に対しての侮辱だけは、今まで起きたことも全て忘れることができません。赦すことは、なかなか、できない。僕はまだまだ弱い人間です。その場で噛み付くようなことはない程度の節度は持っているけれどね。
 社会のなかでは、僕は人の気持ちを殺めないためにも、なるべく蔑まれてもよい様な風体を演じるようにはしています。もちろん一対一で接するときは、自然に、対等に、礼儀をもって接しますけれどね。
 これがまた残酷なもので、僕が下に出ると、その段階で、人に敬意を払う人、やさしい人、そうではない人が露骨に見えてしまうのです。僕のこの「私を蔑んでも私は平気ですよ」的な風体を真に受けて、蔑む人の如何に厚顔なことか。
 
 
 
 あくまで仮定。僕が、家族が、侮辱されるような事があったと、して。
 事実かどうかは僕の心の中に閉ざすべきもの。
 
 
 僕は侮辱を許さない。例え軽率さから勇み足をしてしまったものだとしても、その行為を行う人からは、成長や人間性、教育、社会貢献と言う言葉を素直に受け止めることはできない。協力して、応援することができない。
 もちろん、仲間に対してであれば「それは侮辱だ」と訴えて、やりあう事で襟を正すことも必要なのでしょうが、過ちはまだしも、侮辱した相手に対してはそれをする必要はあるのかなぁ。僕は伝えたり、成長を促したりする必要は無いと思う。その後はずっと、朽ち果てるまでにこやかに見届けるだけ、でいいんじゃないかな。それ以外には何もできないよ。気付いて、泣いて謝られても、結果が変わるわけじゃないからね。
 
 
 
 僕に改めて自戒の気持ちを呼び起こさせてくれた、この出会いには感謝する。
 出会いが無かったら、僕が傷を与えられる前に、僕自身が誰かを傷つけていたかもしれないからね。
 僕が人を侮辱するくらいなら、僕が侮辱されるほうが、全然ましです。そこまで堕ちるつもりはないよ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 侮辱された、と感じたら、もう二度と元に戻ることは無いのです。
 僕は誰でも、助けられる限り助け、サポートできる限りの人をサポートしたいと思ってますが、
 数少ない、僕と僕の家族を侮辱した人にだけは、そっと手を引きます。たとえその人が沈没する船から助けを求めていたとしても。そこに罪悪感はありません。
 まあ、僕に助けを求めてくる人はそんなにいないですけどね。
 でも、人生どこでどうつながるかわかりませんから。 

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