感情のコントロール

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 昨日「情緒」と言う言葉を使ってしまったので、そのつながりで。
 情緒、すなわち感情の振れ幅やその心持自身。
 感情自体の器というか、感情そのものというか。
 この、情緒についてふと言葉にするとき、僕はいろんなことが頭をよぎるのです。
 特に思うのが「感情のコントロール」ということについて。
 僕の持論は、感情はコントロールできるモノでもあるし、時に誰もがコントロール不全に陥るもの、だと認識してます。そして、コントロール不能なのは決して弱いからでなく、コントロールできない「時がある」のが普通だと思うこと。
 まあ、いろいろな経緯の中で、感情機能の障害やそれが巻き起こす問題、家庭不和などもたくさん見てきました。特にここ8年~20年ほど。この幅については別途。実際医学的に調べ始めたのはここ5年ほどです。
 自分が感情について知っている、詳しい、と言う気はサラサラないですが、なんというか、その、少しでも感情に因するトラブルが少なくなれば、よりお互いに幸せに生きられるのではないかなぁ、と、常々思いながら暮らしているため、こういった記事をしたためているわけでございます。
 あ、とはいえ昨日のブログに書いたとおり、あまり身のある話はできないので、その辺はご了承をば。
 なんというか、他論を見てると「感情はコントロールできる、できないのは弱いから」論の方と、「感情があるのが人間、自然のままに思い切りぶつけることが人間らしい」論の方がいて、そのどちらも僕は正しいと思ってるのですが、お互いが持論の中で攻撃しあってるというか、「真実は常にひとつ!」的な強迫意識を感じてしまうのです。どっちかが正しい、みたいな。そもそも上記二論は同軸上にないんですけどね。
 
 うん、人と接する中で、感情を揺らさないことは、トレーニングでできるもの、だと信じてます。僕できませんが。すぐ怒るし。泣くし。興奮するし。はぁはぁするし。
 トレーニングといっても、他者や社会から自分が愛されていることをきちんと認識すること、だけだと思います。自分がここに居てもいい。自分は受け入れられている、と思える方は、自分の根っこがしっかりして、下手なことでは不安になったり感情が暴走したりしません。
 なので皆さん僕を受け入れてください。愛してください。
 ただ、とはいえ、感動したりショックを受けたり、世の中に出てると感情は大きく揺さぶられることがありますから、上記のような自分の居場所を一瞬見失うことがあるのも人間です。そんなときに言いようのない不安や焦りから、怒りや悲しみ、絶望を感じることも、まあ、普通にあることだと思うのです。
 これを普通だと思えるようになると、時に感情が振れ過ぎて、おかしなことになってる人が居ても、それ自身を受け入れられる(許せる)ようになってきます。許せるから僕偉い、じゃなくって、そのほうが僕も楽なのです。「なんでそんな理不尽なことするんだよ!」じゃなくて、「おお、あんさんも人間やからな。」という風に。
 多分このあたりは、子どもが居る方にとっては普通に感じていることなんじゃないかな、と思います。
 僕はいつもヒトと接するとき、その人の感情がどれくらい安定しているのかをみてしまう癖がついてしまいました。(なぜなのか、詳細は割愛します。個人的な話になるので、僕のSNS内で記します)
 その人が事象に対して喜怒哀楽を感じるのか、感情不全や焦りを感じてしまっているのか、そこを見て、接するようにしています。
 せめて、僕の周りにいる間は落ち着いて、安心してもらえるように。
 僕だって絶望感じているヒトをそのままにしておきたくないですから。鬼じゃないし。
 てな訳で、感情、情緒、と言うことを口にすると、いろいろと思うことが出てきてしまうのです。
 語るともっと長くなるので、とりあえずこの辺で。
 まずは何より、みんながお互いに仲良く暮らせますように。
 トラブルの因のほとんどは感情によるものだと、僕は思っています。
 うわこの僕が人間論語ってるし。どうしちゃったのだ。
 教祖にでもなろうとしてるのか僕。
 煩悩教祖というのもニュージャンルで良いかもしれない。
 皆さんお布施ください。現物でも可です。

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