映画ログを取り続けて。

今年の6月頃から映画の閲覧記録をつけ始めました。
今日、ふとその記録を数えたら100本になっていた。
 本来、○本みる、と言う見方は好きではありません。
 数は何の意味もなさず、またそういった目標で作品に向き合うことは失礼極まりないものだと思っています。好きなら、どれだけでも見ていくものです。また、誰からも強要されるものでもないのですから、イヤなら見なければいいんです。数でノルマを作らなくてもね。
 ただ、ちゃんと映画を見よう、と思ったら、見るためには見るための姿勢や筋肉といったものが必要で、「毎日見る」「浴びるように見る」といった「量」をこなして身体を慣らせておかないと、心が追いつかなくなると私は考えています。
 更に言うと、社会人が映画を見ようと思ったら、その時間を確保したり、環境を確保したり、そういうことを家族含めて慣れ親しませておかないと、映画を見たいと思っても見る余裕が取れない事も起きるのです。むしろこっち側の方が重要かな。
 何だってそうです。100と言う数値はただ切が良いから使ってるだけですが、「本を100冊読む」「音楽を100曲聴く」ことができない人に作家やミュージシャンが務まるわけがない。それこそ呼吸のように行っているはずです。
 作る側、仕事を得る側ならなおさら。「デザインを100案作る」「事業計画を100案作る」「ショートムービーを100本作る」「営業先を100社回る」といった事ができない場合、それはその人のやるべきことではないと思います。数をこなせないことは最低限の力もつきません。それができて初めて入り口に立つもの、であり、それをこなした人たち同士でないと現場の会話に参加してはならない(常識のレベルが違うから)とさえ感じています。
 映像制作を飯種の一つとしている割に、僕は映画を見ているとは口が裂けてもいえません。
 それは、10代の頃は数を見ていましたが、やはりこの業界の人と比較すると、まだまだ基礎知識力、感動力、大事な一本に出会えてないと感じます。
 ただ、映画そのものはやはり大好きだし、この年になって自分の武器が何なのかを考えたときに、「映像」はどうしても手放すことのできないスキルになっているのです。
 その意味もあり、毎日時間を作り、映画を見る。ただひたすら感動する。泣いたり笑ったりする。落ち着いたらメモを取る。場合によっては絵コンテに落とす。脚本をなぞる。DVDからデータを出してPremiereにかけ、フレーム単位でカメラワークを研究する。色調を変えて映像の変わり方を見てみる。そういったことを繰り返してます。それが100本、ようやく環境ができてきたかな、と言う状況です。
 100本見た、といって何が変わるわけでもない。というより、100本見たところで初めてスタートラインです。筋トレが終わり、今後映画を見続けることができる処だと思います。見るための姿勢、筋肉がついたところから、初めて「映画を見る」ということができると思ってます。
 もちろん、映画はエンターテイメントですから全員がこんな見方をする必要はないと思ってますよ。あくまで、楽しんで、好きなときに、好きに見るのが一番です。
 これを飯につなげたい、と思った人の楽しい楽しい修羅の道ですね…。

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