「つまるところ、私は人生には向いていない人間なのだ」

 正月明け。一人放蕩ついでのミギリ。当てもなく山谷界隈を散歩してきました。
san_ya.jpg
山谷 @ Wiki
 簡単に言うと、旧来から存在するドヤ街です。
 なんの理由があって僕はそこに行くのか・・・。
 自分自身、どこで生きていけるのか。
 まだ僕の肉体は通用するのか。
 どういう生き方までできるのか。
 それを時々知っておきたい、と思うのです。
 (もちろん散歩するだけだと何もわかりゃしないんだけどさ。)
 また、勤め人@渋谷やその他諸々をして幅広い世界を知ったつもりになっている自分に、違う空気を触れさせておきたい、という気持ちもあります。

 年末に「山谷がけっぷち日記」を読みました。

 淡々と、その場で生きる人の姿を描き出すこのドキュメンタリー。非常に面白かったんですね。
 筆者自身、勝ち負けではなく、自分の意思で山谷にたどり着き、日雇い労働を二十年以上続けるという人生を選んだ男性。その人が、恨み節でもなく、政治思想の吐露でもなく、ただその場の毎日を書きつらねた話を読んで、興味を持ったのです。
 日々を生きるとはどういう環境なのか。
 その環境で生きるとはどういう意味になるのか。
「市民社会とは明確に区分された異貌の空間が、眼前に展開しているのだった」(上記、引用)
 その空間を知りたくなり、ネットを活用&書籍を読んで、自分の中で想像を膨らませていったのです。

 僕は自他共に認める引き篭もり気質満載の男であり、PCの前に座ると100時間でも200時間でもインターネットをし続けてだらだらと時間を過ごすことのできる無為無策の中年です。
 そんな自分でも、インターネットの情報と肌の知覚、この二つの限りない差異は感じていて、畢竟「インターネット上の情報はどこまで行っても情報である」更に言うと誰かがかいつまんだ話をまとめたもの=二次的情報、の集合体であるという意識がどこかにあります。
 例えばWikipedia、例えばUstream、例えばTwitter、百科事典化、時間軸、映像表現、リアルタイムキャッチ、様々な切り口をもって僕らにこれでもかと言うほどの情報を与えてくれるインターネット。でも、どのような切り口をとっても、情報は情報。僕の生き方の根底をひっくり返すものではないし、熟慮から生み出した自分の信念を曲げる威力もさほどない。
 情報は、実際に足を運んでみてみること、その場の人に話を聞くこと、触れてみること、殴られてみること(したことないが)、口説いてみること(してみたが)、交わ(略)みること(したいが)、そこで体験したものとのギャップはまだまだあると感じます。
 それゆえに、僕は興味があるところは極力、足を運ぶなり実体験するなり、自らの身体をもって経験してみることを欠かしたくないのです。やっぱり、耳年魔より経験豊富なほうがいいじゃないで(略)。

 そんな理由で、でも実際には一日散歩をするのが関の山。知ったつもりにすらなれない。のだけど、やはりその場に行って、自分と違う空気に生きる人の生活空間に足を踏み入れる体験は非常にスリリングです。
-一見、普通の住宅街。というか、高級邸宅とそうでない家が通常より広い幅で混在している。
-「全室カラーテレビ完備」「冷暖房完備」。この看板が売り文句になる世界。賃料2000円。入り口がどこかわからない。
-一切電飾のないパチンコ屋を初めて見ました。それでも盛況です。平均年齢は50代。
-というか、僕らの世代より下の人が全く道を歩いていない。
 この点について語るとそれだけで一冊書けそうですが、一言で言うと「社会福祉が必要だ」ということを痛感しました。
-資本主義的視点とは別の生活観念。僕が同化できるかは別として。
-この点も書くといろいろ差しさわりがありそうですが、一言で。「左派の存在理由を感じた」
 普段何も感じない自室と渋谷を往復する日々ですが、こういう時間を持つことで、僕はまた改めて刺激を受けては自室に引き篭もるのです。世の中に対する愛情は深まりながら。
 ※記事のタイトル「つまるところ、私は人生に向いていない人間なのだ」は上記「山谷崖っぷち日記」の一説です。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください