インタラクティブ・リアルタイム・コンテンツ

僕は80年代に少年~高校時代を過ごしてきた。
まさに、キン肉マン/北斗の拳/JoJoの奇妙な冒険/スラムダンク といったジャンプ黄金期の中にどっぷり浸かり、毎週月曜日を心待ちにして駅前のパン屋(一日早く配達される)に買いに行っていた。次の日の学校の話題には確実にジャンプが入っていた。
そして映画。小学校六年生の頃にキョンシー/グーニーズ/バックトゥザフューチャー/ゴーストバスターズ。中学時代にストリートオブファイアー/トップガン/ロッキー4が封切り、高校に入ってなおバットマン/ダイハード/ターミネーター2と、歴史に残る名作かどうかはさておき、確実に熱く、「これから次々と面白い作品が登場してくる!」といった暑苦しいアメリカン・ハリウッドパワーと期待感に溢れていて、「どうせ」といった諦めやシニカルさは全く無かった。
更に熱くは洋楽の時代。カルチャークラブ/マイケルジャクソン/TOTO/リックアストリー/AHAと、とても良い意味で軽薄で、良いものと売れるものがある程度マッチングして、貨幣とマスメディアと良作にずれがなかった気がします。
極めつけはゲーム。小学校高学年がまさにゲームバブル。スーパーマリオはもちろん、名作奇作が溢れかえる84年前後。そしてドラクエ・ゼルダ・FFが登場したのが中学時代。特にドラクエは1~3で中学校1年2年3年がまとまっていることもあり、完全にゲーム一色の中学時代だった。
原発の問題もなく、世界情勢はアメリカとソ連に集中していれば用は足りたし、両親の世代もどんどん家が安定・成長しているのが見て取れた(うちの両親はサラリーマンではなかったが)。
今もこれらのコンテンツは存在しているし、デジタル社会になって、全てがアーカイブ~即時入手可能な時代になってきた。
ニコニコ動画を開けばびっくり箱のように楽しいコンテンツが飛び出してくる。
でも、僕が自分自身の成長の中で価値を感じているのは
「中学生という感性の時期に」
「学校と云うコミュニティで人と接する中で」
「経済的な制約からある意味外れた場所で」
「大人が顔をしかめる作品をこっそり読むスリリングさと共に」
「何が名作で何が駄作か。まだ世の判定が決まっておらず、自分達のコミュニティで議論が出来て」
「世の中の潮流がこれからもっともっと面白い作品を出すぞ、といった期待感が溢れる中で」
体験することが出来たこと。
このような作品を享受できたこと、そのリアルタイム性に僕は感謝をしているのです。
更にバックヤードには来るべきサブカルが後方支援しており、吉本ばなな、村上龍、栗本慎一郎といった作品群が背伸びした中学生を待ち構えていた。
戻りたい、という感傷はないが、「改めて、生まれる時代を選べるとしたら、いつ生まれたいか」と聞かれると、僕は間違いなく今の自分と変わらない1973年!と答えるだろう。
貧乏くじ世代、と呼ばれていることは承知のうえ。ちょっと下のIT革命児たちの世代にとってはロートル過ぎるのも承知のうえ。これから地獄があるかもしれないことも承知の上。
それでも、多感な時期に、リアルタイムに豊穣なコンテンツに触れることのできた喜びは、他の何にも変えがたい。
幸せな時期は一旦経験してきたのだから、この満足感と感性を元に、生きていけば何にも怖くないと思う。
「とりあえず一旦、イケたんだから、我が人生に一片の悔い無し!」なのである。
 もちろん、誰だって、自分の感じた時代が良いに決まってる。
 僕はたまたま、こういったメディアコンテンツが狂い咲きした時代が少年時代と重なってただけだ。
 これがコンテンツではなく「思想」だったり「政治」だったり「社会活動」だったりしても、いいのだと思う。
 「あの時代は良かった」じゃなく、「良い経験を重ねてこれた」と思えるかどうか。
 大事なのはそこ、だと思う。

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