読み力

 読書について、思うところがあります。
 頭の中に情景が浮かびどんどんページが進み完全にストーリーの中に没頭出来るときがあるかと思えば、どこまで進んでも没入できず、ただ字面を追うだけで話に引き込まれないなんて時があります。
 もちろん本によってもその文章の美しさや内容によって引き込まれ方は全然違うのですが、それ以前に受けて側の自分、に、左右されることがあるのです。
 A,B,Cと、作者も内容も全く違う本を読んでいても、ただとにかく惰性と慣性だけでページをおい、どの登場人物がどの本に登場してたのかわからなくなり、話も混乱しまくってしまうという事があるかと思えば、どの話も没入しっぱなしで現実世界に戻ってこれない、ニートの出来上がり、という事もあるわけです。
 ややこしいことを書いてますが、まさにちょうど今自分がその境界線から反対側に移動した瞬間を感じたのです。うん、パチッとスイッチが切り替わるような。言葉の追い方を思い出したというか、ドラクエ的に「やまもと は クラスチェンジした」ような。どっちが上下、というものはない世界ではあるのだけれど。
 最近は古い名作月間という事もあり(自分的に)、国の内外問わず古い作品ばかり読み漁ってるのですが、その中に、2年前に読んでた「鷲は舞い降りた/ジャック・ヒギンス」があったのです。今更というところなので紹介は控えますが。
 以前に読んだこともあるので、話の筋も内容も良く知っていたのですが、昨日まではもうなんだか、ただ右手に本持ってます、の状態で、ただひたすら小学生の朗読のように文字を追いかけてました。
 それがさっきの風呂場で(僕は風呂場で本を読みます。なので古本を購入しまくる癖がついてます)いつものとおり読書してると、これがまあ頭に入る入る。物語にジャックインする感覚があったのです。
 物語が佳境に入ってきたからかなー、とも思ったのですが、そばにある雑誌を読んでも、専門書を読んでも、今までとはちょっと違う様式で頭に留まるようになりました。
 読書は能動的な行動だ、とも言われますが、読書にはトレーニングがある程度必要だと、改めて感じました。それこそ語学や数学と同じように。
 どんな本でも一定で読みきれるかといえばそんなわけも無く、ある程度本読みに慣れ親しんでないと読めない本もあるし、その逆もあります。読書家の皆さんからすると何を今更、なお話ではありますが。
 いや、当たり前のことなんですが、この能力って、自分の体力や体調によっても、かなり能力が上下するものなんですよね。で、それをわきまえずに自分の趣味で本を選んでると、全く能力不足の本をただ惰性で追ってるだけの状態(それはそれで価値のあることもあると思うのですが)になったりするのです。でも、せっかくだから、楽しい読書時間を持ちたい。その意味では、自分の読み力にあった本を楽しみたい。で、そのためには自分の読み力をある程度把握しておきたい。
 それがなんか一つ、クンと眼が覚めたような感覚が最近あったので、とどめておこうかなー、なんて思った次第でございます。
 むしろココのところが読み力を失ってた、というのが適切なんだろうな。なんでヒギンスの小説すら読めなくなってたんだ。むしろその能力低下の方が心配だ。

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