放恣な生活の中で垣間見えるもの

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 真の意味で休養が取れているかといえば、実はまだそんなことも無く。本心は取れていないと感じます。ですが、ここまでの準備期間はむしろ重要で、これまでの期間があったからこそ、これから先については、十分に安息な日々を送れると信じています。皆様に感謝感謝。
 自らが本当に心休まるようになるためには、まず、焦りをなくさないといけません。「安静にしてなきゃ駄目」「ゆったりしてなきゃ駄目」という言葉をそのまま飲み込んで、ゆったりじっくり布団に篭っていると「あああなんて僕は駄目人間なんだああああ」という自虐や「あれやんなきゃこれやんなきゃそれやんなきゃ」といった焦燥感、また、「せっかくこんな機会なんだからあれやっとかなきゃああこれもやっとかなきゃ」といった自分の今の状況における豪奢な悩みを思い煩ったりもするのです。
 ともあれ、まず休養初めの一週間ほどはそんな声に耳をかさず布団に篭ってましたが、なかなか落ち着くことが出来ず、それこそやりたいことだらけでガスが溢れかえってパンパンになった自分をなだめすかしながら生活してました。暇を得て久々に自分自身と向き合ってみたら煩悩丸出しの自分に気がついたというべきか。
 で、正月前辺りから「じゃあ思う存分やりたいことやって、それが心の休養になるならいいじゃないか」とやりたい事を存分にやる毎日に切り替えました。それこそピアノ運動数学仏語英語映像制作3DCG制作論理学経済学会計学世界史読書読書読書映画鑑賞とやりたかったことをやり放題やってみました。なんだか真面目な書生っぽい事ばかりやってるみたいですが、実際はそんなことありません。やりたかったというか、これ、全部若い頃からコンプレックス・劣等感に苛まれてるものです。コンプレックス多すぎ。恋を止めないで。
 で、それだけいろいろやってみたらもちろん一日24時間では足りませんし、できる訳もありません。心が疲れて休んでるのですから、身も入りません。でもそれでいーんです。実際、やりたい事を思うぞんぶんやったら、まあ、ええ、心地よい、開放的な疲れを感じて「もう、満足。もう、ええわ」「ああ、休んでええわ。やれるだけやったわ」と芯から理解することができました。
 そして1月後半辺りから、休養に入れるようになった、と感じています。改めて一日のうち、やりたいことを少し進めて、後は安静に。自分の中の焦りや劣等感を引っ張り出して、正しい意味でなだめる事ができたのかと。この年になって自分の焦りに櫛を入れさせてもらえた事自体有難いことです。もちろん、なだめるだけではなく、身に着けたいと思っているものは、回復してから改めて挑戦していきます。読書や映画鑑賞はそういった類ではないので、ぼちぼちと変わらぬペースで自分遊びを続けてますけどね。
 そんなこんなで30代後半の冬休み。写真は日暮れ前の福岡町、通称「裏の宮」の本殿。拝殿を通して、本殿にいきつくような心持なのでございまする。

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