ランジェリーパブの思い出(2)

その年は、取り立てて大きな事件が起きた覚えが無い。
覚えている限りでも、Jリーグが開幕したり、室内スキー場「SSAWS」がオープンしたり・・・。経済も文化もまだまだ日本の勢いが失速する前だった。正確にはバブルが崩壊した直後。でも、日本人にとってはサリン事件も阪神の震災も経験する前の、おおらかで夢の有る時代だった。
それが、1993年。

僕はその年の9月から、赤坂見附にあった「ランジェリーパブ・クラブスマイル」でウェイターとして働いていた。アルバイトの経験も、大人の社会に触れた経験も無い19歳の僕は、大人の社会のルールやマナー、そして力の入れ方と抜き方、抑えなければいけないポイントなどを必死で覚えなければいけなかった。
まずはトイレ。店内に一つしかなかったトイレは、従業員も同じトイレを使用するしかなかった。そこでのマナーは「お客様の気配を感じたらトイレを中断してでもすぐ外に出てトイレを空けろ」。
そんな無茶な、と思うかもしれない。でも、結論から言うと、トイレの中から外の気配を察知する技術、もしくは気配取り、は、人間でも可能な技だった。壁を越えて、人が近づいてくる気配、というのは確かにわかる。そして、それは音で察知するわけじゃない。店内には大音量でユーロビートが流れ続けていて、お客様の足音は全く聞こえない。「誰か来たかも知れない」という第六感だけを信用して、即座に僕は手を洗い、その場を去る準備をした。女の子たちはトイレの外で、おしぼりをもってお客様の用足しが終わるのを待っている。彼女達に会釈し、残尿感を持ちながらも、僕はすぐに持ち場に戻るのだった。
そして、灰皿。狭い店内、15ブロックほどしかない少ない客席の店内でも、灰皿の数は200以上用意されていた。角丸四角形の、小さなガラス製の灰皿群。そして驚くべきスピードで灰皿が使われていた。煙草一本でも捨てられると、どんどん入れ替えられ、店の一角へと運ばれていく。
その灰皿を、すぐに磨いて準備するのもウェイターの仕事だった。ポイントは、灰皿の角。使用済みのおしぼりを使い、角をえぐるように拭いては積み上げていく。
その他、ビールの持ち方、お盆に載せたビールの運び方。女の子達とのチェックの合図の交わし方。時にはウェイターもお客様に気に入られる事がある。そんなときは、席に座って話に参加する必要がある事も。些細な、細やかな作業ばかりだが、そういう作業の一つ一つに合理性、作法、方法論がある事を僕は覚えた。お客様へのお詫びの仕方、なんて事もそこで学んだ。アイスペールを運んでいる最中に、僕は誤ってお客様に水を頭からぶっ掛けてしまった事があったのだ。その瞬間の店長の飛び出し方と土下座の仕方を僕は今も覚えている。どんなスポーツ選手よりも俊敏な動きを、店長は見せた。そして一緒に僕も土下座し、許しをもらった。そのあとで、そのミスで僕は店長から一切とがめだてを受けなかった。「休憩行ってこい」と尻を叩かれて煙草を一箱もらっただけだった。マネジメントの要諦が、ここにあると思った。
休憩はいつも、店の入口からすこし曲がった路地で、座り込んで煙草を吸うだけだった。
そこで僕は、店の女の子「美奈緒」と会話を交わす事が多かった。
女の子達は特に休憩という概念があったのかどうか覚えていないが、僕が休憩を取る時間帯と、彼女が入店する時間帯が重なっていて、彼女に挨拶する事が多かった。21時半前後の時間帯。
「ヤマちゃん、寒いねー」
僕の名前「たすく」は特徴的なため、苗字「山本」からあだ名をつけられたことはほとんど無い。この店でついた唯一の呼び名「ヤマちゃん」は唯一の、苗字からの呼び名だ。39年経った今でも、これは変わらない。
「うん、寒いねー。今日も遅番?」
「学校が終わるのが遅くてねー」
「そっか。がんばってねー」
他愛もない会話。どこの学校に通っているとか、どこに住んでいるとか、更には本名は何なのかとか、僕は美奈緒の事を一切知らなかったし、知ろうとしてはいけない気がしていた。女の子達とは、業務上の関係という以上に、プライベートに踏み込んではいけないと思っていた。多分、それはマナーとして間違いではなかったのだろう。お店では僕は「ヤマちゃん」であってそれ以上でもそれ以下でも無い。どこに住んでるとかどこの出身とか、彼女達も僕に興味が無い。一人のウェイター。アノニマス。でも、その関係性だからこそ、女性とあまりコミュニケーションを取るのが得意じゃない僕も、フラットに話をすることができた。
彼女はクローズ後も、話しかけてくれる事が多かった。プライベートは踏み込まない、というさっきの話と矛盾するようだが、どの女の子達も、彼氏の話、友達の話、将来の話の3つだけは、踏み込んでも話してもいいルールがあったように思う。不思議なものだ。でも、逆に言えば、この3つの話題があれば、充分に相手の人間性がわかるし、コミュニケーションが取れる、ということでもあった。
彼女は特に僕に興味があった訳じゃない。それは今思い出してもよくわかる。ただ、近くに居た、年の近い、話し易いウェイター、というだけのことだ。彼氏と喧嘩していること、その原因は煙草の火の消し方だったこと、明日は青山に買い物に行く事、一緒に行く友達は中学時代からの親友だと言う事・・・その会話の節々から、僕は大学の女友達とは違う世界に住みながらも、同じ興味・同じ悩みを抱える女の子達の距離感、空気感を感じ取っていた。恋愛・友達・将来。その3点だけでも、様々な彩りの女性がこの世の中に居る事を知った。この、多層に重なった女性との距離感の取り方は、翌年に初めて僕が女性と付き合うことになったとき、大きな効果を発揮した。一途になりすぎたり、俯瞰しすぎたりしない、等身大で女性と付き合う、という意味で。
「好きな芸能人とか居るの?」
「オジサン好きでー。逸見さんとか好きー」
「そういえば、よくオジサンに指名されてるよね」
「それは店が決めてることだからー」
今で言うと誰だろう。思い出補正や当時の化粧文化などを計算に入れると・・・篠崎愛みたいな感じだろうか。ちょっとふくよかな美奈緒は、中年男性からよく指名されていた。指名数自体は決して多いほうじゃなかったが、接待の場や中年の集い?のような客層の席にはよく付いていた。
彼女はよくサッカーの話もしていた。僕はサッカーが全く解らなかったので、取り合えず話を聞いて合わせる事しか出来なかった。アルシンドや井原、柱谷という名前が良く出ていた気がする。それがどんな選手なのかは、今もって僕はわからないのだけど。
一番よく覚えているのが、少し暇な店内で、美奈緒を初めとしたサッカー好きな女の子と店長が和気藹々と、少し興奮しながら話をしていた時のことだ。
カウンター席の近くで、「今、一点勝ってるってよ」「今日勝てばワールドカップだって」「もう決まったようなもんじゃん」と客待ちの女の子が話をしている中に、勝俣州和に似た店長も少し割って入るようにして、サッカー談義をしていた。アズマもその日は出勤していた。流行りものを捕まえるのが得意な彼も、その日はサッカーの話題を店長と交わしていた。全くもってスポーツ、特にサッカーに関しては門外漢な僕は、みんなが何に対してそんなにアツくなっているのか、よく解らなかった。
30分の休憩に出て行ったアズマは、煙草を吸いながらラジオでサッカー中継を聴いていたようだ。そわそわと落ち着きが無い店内で、みんなはアズマが試合結果を教えてくれるのを待っているかのような空気だった。
突然、アズマが階段を駆け下りてきて、店内に戻ってきた。
「取られた。ロスタイムで取られた。同点だ。行けんくなった!」
店内にサッカー愛好者の悲鳴が上がった。数少ないお客も「え、サッカー負けたの?ウソ」とその話に食いついてきた。僕を除いて、店内の空気が一変した。
俗に言う「ドーハの悲劇」だった。
その日を境にして、美奈緒は出勤しなくなった。
もちろん、サッカーが原因じゃない(と思っている)。でも、ただのウェイターである僕は、辞めた理由など知る由も無い。沢山の女の子達が入れ替わる店内では、去って行ったアルバイトの一人に過ぎない。挨拶も何もできないまま、彼女との細い縁は切れた。
ふと、思い出して書き綴ってみて、初めて、すごく些細なエピソードの積み重ねで、僕とその店との関係はなりたっていた事に気がついた。大きな事件があった訳じゃないが、僕もそれから半年経たないうちに、その店を辞めた。理由は無かった。
先日、赤坂見附のみすじ通りを歩いて、僕の勤めていた店「クラブスマイル」の跡地を見た。もう20年も前に存在した店など、ほとんど誰も覚えていない。この20年の間に、何件の店が入れ替わり、ビルが建て直されたことだろうか。世界の全ての情報を網羅しているように見えるインターネット上にも、この店のことは記されていない。こんな情緒的で曖昧な記載が、ネット上に残る唯一の、店の記録になるのかもしれない。
店長も今は40代半ば、何をしているのだろう。あの当時店に居た女の子達も、お母さんになったり、OLになったりしているのだろう。何人かは、気付かないうちにすれ違っているのかもしれない。もう生涯、僕と接点を持つ事がないであろう数十人の人達。でも、僕はそんな彼ら彼女らからも、生かしてもらって、今こうやって生きているのであります。やっぱり頑張っていかないと、いけないんだなぁ。ぐうたらしてたら、罰があたりそうだ。
20年前を思い出して、ふと書き記してみました。若き日の記憶。

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