精緻なる筋肉を


1月近辺は、更新が頻繁になります。毎年の、季節の流れがそうさせている様です。
書き殴りではありますが、最近ふと思ったことを。
ここのところ中国語を学んだり、読書をしたりする中で、自分自身に欠けていると実感するもの。それは「精緻さ」=「細やかな努力の積み重ね」です。
精読、という言葉があるように、知識を学ぶ、何かを習得する、脳を変容させる、そして、何かを創り上げるには、必ずそこに緻密さ、が求められます。その緻密さをもって、神が宿る、あるいは、筋肉に変わる、骨格を作り上げることができます。
これ、自分自身に全く足りてない素養だと、感じたのです。
ええ、意図的に、自分自身に多読濫読癖と、拙速でもスピードを求める生活をこれまでしてきたのも事実です。そして、コツコツと気の長いトレーニングのタグイをこれまでやってきた事がありません。気の向くままに、大量消費と素早い行動、これを自分に課す代わりに、精緻さ、緻密さ、継続力という部分については全くトレーニングをしないまま、40を迎えてしまいました。
それはそれで、いいのです。自己責任だし、それによって出来上がった自分の利点欠点は把握した上で、日々の生活に臨んでいるのです。側には、それを理解して支えてくれる家族が居るわけですし。(むしろ、今更丁寧な生活をし始めたら精神を心配され病院に連れ込まれかねないレベルです)
でも、歳を重ねてバイタリティも消化力も落ちてきた今、大量消費だけでは生きていき難くなってくるかな、とも思っています。
そして、二つの出来事が僕を精緻さに向かわせようと、しています。
一つは、朗読をしてみたこと。
別の言葉で、音読。中国語に限らず、言葉を学ぶ上で必要なものは発音、そして耳です。重複になりますが、言語は学習ではなく、身体トレーニングです。そこには、細かい発声の違い、聞き取りの違い、意味の分別を同時に、そして正確に行わなければならない反射神経レベルでの精密さが求められます。
そこで効果的になるのは、音読です。
今流行のシャドーイングやロゼッタストーンに興味があるわけではないですが、一番効果的な学びは、やはり「丸暗記レベルでの暗誦」に他ならないと、今更ながら思った訳です。一音一音間違えず、意味を理解して、きちんと伝達する、その文章が薄髪のようにじゃなかった薄紙のように積み重なっていったとき、僕は母国語以外の言葉を話せるようになるのではないかと考えています。
そしてそのとき「よっしゃ、どうせなら読書も音読したろやないけ」と、ある小説を自室で一人朗読してみたのですが・・・。
滅茶苦茶に、頭痛がしました。
なんだこれ。言葉をきちんと理解しながら一言一句読むってのはこんなに頭を使う事なのか。これまでいかにいい加減に本を読んでいたのか改めて理解しました。呼吸がうまくないのか、酸欠なのかと思い、思いっきりゆっくり朗読もしてみましたが、やはり同様に頭が痛い。頭痛が痛い。そして同時にすらすらと入ってくる鮮やかな小説の情景。朗読って効果があるんだな、と改めて思いました。因みに読んだのは「奔馬」です。歯ごたえありすぎ。

そしてもう一つは、別に改めて記すつもりではありますが、妻のピアノです。
うちのかみさんは若い頃(大学時代)ピアニストを務めており、その腕前はなかなかのものだったと聞いております(同じサークルに居たので知ってるはずなのですが、ほら、僕、物忘れ激しいですから)。
この前、ふとしたご縁で、その大学時代のかみさんのピアノの音源を16年ぶりに、手に入れることが出来たんですね。当時の技術なので、カセットテープという形で。改めてmp3に起こして、聞いてみました。
なんだこれ。滅茶苦茶うまいやん。
身びいきを差し引いても、巧い。巧いうますぎる。風が語りかけるレベルです。こんな人が身近におったんや。もちろん、僕はピアノについてある一線以上のレベルを評価できる耳は持っていませんが、とうにそのレベルは超えた腕前でした。
で、それはそれとして。後でこの件はきちんと書くとして。
この腕前の根底にあるものは何かと、かみさんに改めて聞いてみたところ、答えは非常に簡単で「日々の積み重ね」でした。
そう、うちのかみさんはこの「精緻」という事に関しては高い能力を保っており、自他共に認める徹底的なコツコツ型の性格をしています。一日八時間毎日練習。数千回の繰り返しも厭わない。シングルタスク。ルーチンの鬼。うさぎと亀で言うと1024%亀型人間なのです。
それがために注意力過多という病(?)で床に付すことにもなるのですがそれはそれとして。(そして注意力皆無という僕と恐ろしいほどにピースが組み合わさり、絶妙なバランス均衡にて生活が保たれているわけです。)
また話がそれましたが、そのかみさんのピアノの音を聞いて「うむ、精緻さは大事だな」と改めて思った次第なわけであります。
いや、これね、本当に僕にとって革命的な事態だったのですよ。決してかみさんを甘く見ていたわけではないのですが、「コツコツ型」の人の能力に、正直腰を抜かしたのです。もちろん14年一緒に過ごしてその能力は知っていたはずなのですが、やはり健康状態に左右されるところもありまして。不断の努力、というものはこれだけの力を秘めているのか。何かをなしえる人とはこういう人を言うのだな、と僕は改めて思った次第なのです。そして、遅ればせながら「僕もそーいう事やりたい。これからの時代はコツコツ型だ。おほん。」と朝三暮四な人生設計変革を始めてしまったのです。
そんなわけで、今年の僕は前出の目標に対して、精緻さをもって挑みます。もちろんスピード感は落としません。そして僕の長所(と言っていただけてる部分)はこのままで。ただ、筋肉(脳みそを含む)を少し細かくコントロールできるようになろうかな、なりたいな。という訳でして。
全ては筋トレです。一朝一夕には身につきません。細かい日々が、膨大な力に変容するのです。

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