ロサンゼルスと僕

7年前の今日。

僕はロサンゼルスにいました。

7年前、貯金も技術も何もなく、会社を追い出されて不安でどうしようもない僕がいました。

救いは、妻が「そんな会社辞めて正解です。心中覚悟でいきましょう」と言ってくれたこと。

両親が「ようやく辞めたか。おめでとう。好き放題生きてください」と言ってくれたこと。

映像の師匠が「ひどい顔してるぞ。早く辞めちまえ。お前の飯くらいなんとかしてやる」と言ってくれたこと(その後、本当になんとかしてくれた。この御恩はまだまだ返せていない)。

今思うと、結構救いは多かったな。

とはいえ、その時の自分は不安で不安で仕方なかったのです。「なんとかしてやる」も「おめでとう」も明日のおマンマにそのまま繋がる保証はない。ましてや「心中しようぜ」と言われても、その、なんだ、気持ちは嬉しいし、腹は括れたけど、まあ、その、怖いじゃないか。

その中で、もう一人僕の恩人が「山本くん、映像屋になるなら、ロサンゼルスに行っておかなきゃダメだよ。行ってみたらわかるよ。」と声をかけてくれた。

どうせくたばるなら、面白いことやって、恩人の声に耳を傾けてみようじゃないか。

心中覚悟、何も捨てるものもない僕は、借金してロサンゼルスに行きました。

映画の都、ロサンゼルス・ハリウッド。

今は映像最先端の地ではないとはいえ、そこには映像文化がしっかり根付いているわけで。

バーに入れば

「(現地の方)君はどういう仕事をやっているんだい?」

「え、え、フリーで映像を…」

「Cinematographer!(映像屋)すごいじゃないか!人を幸せにする仕事じゃないか!」

そうか。

僕は日本の中で、商流の下っ端の下っ端、おこぼれの案件を土下座して「おもらい、ありがとうございます…」と日当を乞う様に受注して月15万でも食いつないで生きていければ、くらいに考えていたけれども。

ここでは、僕の仕事は敬意あふれる素晴らしいものと認められている。

日本で言えば、医者や弁護士のように扱われている。

街を見れば、至る所に映像クリエイター、映画監督、編集技師の名前が彫られ、名前が上がり、「地元を喜ばせてくれる大事な職業」として扱われている。

そうか。そうなんだ。

僕は、とんでもない勘違いをしていたかもしれない。

僕がこれから飛び込もうとしている世界は、クライアントワークの下っ端なんていうせせこましいものではなく、「世界を喜ばせる、クライアントも僕らもお互いに敬意あふれる」とても素晴らしい職業なんじゃないか、と。

ユニバーサルスタジオハリウッドにもいきました。パラマウントスタジオツアーにもいきました。ソニーピクチャーズスタジオツアーにも行きました。

そこで展示されているもののみならず、その映像文化に対する誇らしい地元の方々の顔、見にくる観光客の嬉しそうな顔。

映像は世界を彩っている。人を幸せにしている。

この仕事が、商流の末端で細々と「食べていけるかな…」なんて不安を感じていてはならない。

この旅から、僕は何かが切り替わりました。

映像屋として、やっていこう、と。

それまで淀んでいた目が、変わったと思います。

もちろん、次の仕事の目処が立ったわけじゃありません。

でも、恩人の声の通り、行ってよかった。僕は会社を辞めて、この人生で間違ってなかったんだ。

そう信じることのできた瞬間でした。

そして、日本に戻ってきて。まずは恩人に挨拶をして。

その後、僕がハリウッドのお土産を持って向かった先は

その土地と同じ名前の会社「ハリウッドエージェント(当時)」でした。

そして、お土産を渡して挨拶し、熱く映像について語った際、社長から次に出てきた言葉は

「山本さん、一緒に学校始めませんか。BYNDを。」でした。

それが、今につながるのです。

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