ベーシックに、大切なもの

将棋。
モノを考える基礎能力は、体力だと思う。
体力が無いと、結論を急いでしまう。とにかく意見を決めてしまいたい、概要でいいから納得したい、決着をしたくて仕方なくなるのだ。
体力があれば、急がない。どうしてそうなるのか、ロジカルに、また時にはエモーショナルに、自分の意見をこわばらせずに、真実を掘り下げて追究することができる。これは潜水のようなものだ。息を止めての我慢に近い。どこまで、細部の疑問を残さずに考え続けられるか。それを出来るか否かが体力にかかっている。
また、体力という曖昧な指標の物理的表徴が、筋肉だと考える。筋肉は、その人の瞬時の動作をコントロールし、また長期的な行動も決定付ける。筋肉がきちんとバランスよくついていること。筋肉は考える仕事、考える趣味をする上で最もベーシックなアイテムだ。
僕には、筋肉が無い。若い頃、あまり重要視してこなかったのもあるし、また根本的に怠惰な性格もあるだろう。その分、短絡的な思考をしてきたし、自分の意見に固執する事も多かった。
39歳。ここにきて、老化も含めて更に体力・筋肉が落ちていく日々を実感し、改めてものの考え方、日々の動作も、どんどん緩慢になっていると感じている。
感じたからには、行動しなければいけない。いや、「しなければいけない」も早急な意見だ。行動、したほうがいい、行動したほうが、楽しくなりそうだ。
軽く身体を動かして、ほぐすだけでもかなり頭はスッキリする。これは誰でも経験している事だと思う。そして日々、これを続けていく事で、改めてロジカルな思考もできるようになると信じている。生まれてこの方ロジカルな思考なんてやったことないけど。
筋トレを久々に行い、その後で将棋を打ったら、これまで勝てなかった相手に勝てた、というただそれだけから、こんな事を考えました。
いや、でも、今回勝ってみて改めて思うのは、「きちんと考えて、抜けを作らず、先を見越して、何故こう打つのかを説明できるように打てば、それなりの結果がでてくるものだ」という当たり前の事に気づく勝利だったんです。そしてそれがどうしてココまで出来なくなっているものか。
ほとんど無いに等しい自分の知性を取り戻すためにも、筋トレ、必要です。
あ、後、見栄えという意味でもね。
人間、身なりで評価が変わりますから。
メタボなおっさんより、シュッとしたおっさんの方が、存分にマシだろう。
同性からも異性からも、モテないよりは、モテる方がいい。
そう思ったら筋肉つけるだけで自分の人生一変する気がしてきた。よし、頑張ろうかね。モテるために。
モチベーションの源泉は、いつもそこにある。

今週のやまもと

It towers.
普通の日記です。
・新宿で友人達と服飾について相談兼会食
FacebookやTwitter上ではあちこち書いちゃいましたが、Twitteで「こんなコスプレ衣装作ってくれる人居ないかなー」とつぶやいていた友人が居たので、「うちのかみさんできるよ」とレスしたところ、お互いの意思が合致し、服を作る事になりました。
因みに今回作ってる服はこんな感じです。
こんな感じ
そのため、詳細な打ち合わせ及び採寸を行う為に新宿で依頼者の方々とお会いしました。
なんだかんだとぼちぼち会ってる方、2年ぶりにお会いする方といらっしゃいましたが、久々でも会話が弾み、楽しい時間を過ごせました。最近の若い子はカラオケボックスに入り、歌わないでランチするという技法があるんですね。確かに個室で静かな環境ですし、何を話してもいいという安心感はありましたが。
そんなわけでうちのかみさんは今週一生懸命お裁縫してます。
因みに僕がその打ち合わせに参加した理由は今をもってわかってません。ただの付き添いです。更には採寸や下着買うときは追い出されてるし。
・最近の読書事情
もう、古い本読むの疲れた。
iPadminiを購入してから、青空文庫に少しはまっておりまして「おおこれが電子書籍か」と思いながらぼちぼちと書籍サーフィンを楽しんでおりました。みんな大好き泉鏡花や魯迅、新渡戸稲造など近代文学の方々を片っ端から乱読し、時間を潰しておりましたが、まあ読みにくいことこの上ない。昔は泉鏡花なんて味わい深く楽しんでいた(フリをしてた)くらい、近代仮名遣いには慣れていたつもりなのですが、いやー、5~6年も遠ざかってると、読み込むのにえらい時間掛かるようになりますね。
でも、小説自体は骨子がしっかりしてるし、美文の集合体である事は変わりないので、ゆっくり味わいながら読んでいます。
それと同時に、文体で疲れた僕の頭を癒す読書として





などなどぼちぼち読んでます。風呂はいって一冊、寝床で一冊、ペースでのんびりやってます。
内容については改めて書く場を設けたいですが「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」と「ニートの歩き方」「この世で一番大切なカネの話」は3冊とも非常にリンクしており、今僕にこの本が届いたというのは何かを示唆しているんじゃ無いかと勘ぐってしまいます。もし最近この3冊読まれた方いらっしゃったら是非意見交換しましょう。
・最近のかみさん
咳ばかりしていて健康状態に不安がありましたが、とりあえず浅田飴を舐め始めたら効果的面でした。というか浅田飴あれ何かヤバイ要素入ってるでしょ。あんなピタッと咳が止まるのはむしろ身体に危険な気がします。
その後はずっとお裁縫。結婚して13年経ちますが、お裁縫が好きだってのは、本当に最近知った事でした。まあもしこういう生産的な趣味に注力できるのであれば、それを活かせる場を与えてあげたいなぁと家族としておもうわけです。
今日はそんなところで。

誘う

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基本的に僕は人を誘うのが好きだ。その意味ではかなりの浮気者だ。
という話をすると女性陣がいっせいに引くのだけど、まあちょっと待ってくれ。
基本的に男女関係なく人好きなのだ。もちろん女の子の方が大好きだ。ああ好きだとも。(開き直り)
むしろ男性には好みと要求がうるさいです。スマートな男性が好みです。腹は六つに割れてないとイヤ。
それはさておき、本題はそこじゃない。
若い頃の思い出をふと思い出したので、ここで開陳。
・・・
19歳の頃の記憶だが、よく泊まりにくる女の子が居た。
僕は決してお洒落とはいえないし、モテる要素は一切無かったのだが、時代背景もあり、男女共に訳隔てない関係を作る僕はいろんな仲間と夜を徹して遊ぶことが多かったのだ。
で、もちろん男女2人きりで、僕のアパートで過ごすことなんかもあるわけだ。
当たり前だが、そういうムードに誘うわけだ。誘わないわけが無い。
悪いことはしてないよ。ちょっとばかり男女の仲に誘っただけだ。
もちろんやんわりと断られる事もあるわけだ。ビンタを食らうこともあるわけだ。あまり上手じゃない僕はたくさんの下手を打ってきたわけだ。
まあそれはいい。そんなこともある。たくさんある。男として生きてる証である。
だが問題はその後だ。
ある時、僕に誘われて、お断りされた子の御学友から呼び出しを食らって、説教されたのだ。
「たすくがそんなことするなんて信じられない」
「たすくだけは他の男と違うと思ってたのに」
「たすくも女性をそういう目で見る人だったのね」と。
ちょっとまて、と。
そんな事するよ。しないわけあるか、と。
他の男と違わせないでくれ。一緒だから。一緒の扱いしてくれ。
そういう目って何だ。どういう目を期待してるのだ。
人の家に身体一つで泊まりに来ておいて誘わないわけあるか、と。
人のことをいったいなんだと思っておるのか、と。今はやりの草食男子か。20年ほど先取りしてるが。
僕は完全に肉食です。勝手に草食のラベル貼らないでくれ。
そもそも説教してる貴方には何も迷惑掛けてないぞ。
そのご学友も、僕は今もお付き合いのある友人ですが、本音はすごく良い子なんです。
ただとても貞操観念の強い子で、正義感に溢れてる方だったんですね。
こんな捻じ曲がった性格&正義感を持つ僕と良く友達で居てくれてると思います。
・・・とりあえず、20年近く経った今でもこれくらい熱く弁護したくなります。納得いってません。
未だに釈然としてないお説教ですが、まあものすごい勢いで怒られた為に当時お誘いすることにちょっとためらいを感じるようになってしまいました。
誘うと別の人から怒られる、なんて如何に理不尽な事でしょうか。
僕はこのときにネゴシエーションと場の空気を読む、と言うことを理解しました。
 その10年後にも全く同じような事をしている僕も馬鹿なのですが。
 Links to 口説く。
   ID:yamamoto PW:tasuku
・・・当時、実際にはうちに泊まりにきても、誘わない、誘うような関係にならない子のほうが多かったのですけどね。というかそれがほとんど。そういうムードにならない。それがいけなかった。
サークルの中では「輔は大丈夫」みたいなムードが出来てしまっていたようです。風評被害は怖いです。
別に女性に何かの問題があって誘わなかったわけではなく、単純に「ゲームの話してるほうが面白かったから」とか「人生相談乗ってたらそんな気分にまるでならなかった」とかそんなのばかりですが。
基本は誘う。誘います。そうじゃなきゃ男なんてやってられない。
もちろん女性の側から誘われたことなんてほとんどありません。
だったら男性の家に一人で泊まりにくるな。
とはいえ、いろんな方が遊びに来てくれたおかげで、僕は楽しい学生時代を送れたのもまた事実。男を抜きにして人間という視点だけで言えばとてもありがたかったです。
もし僕に女の子が生まれたら、間違いなく門限作って男性の家には遊びに行かせません。自分で迎えにいって帰らせます。絶対。

自分語り

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自分語りが大好きです。語らせろ。
一行目にこう書くだけで閲覧者がみんなブラウザを閉じる様子が目に浮かびます。ええ、閲覧者のニーズに合わせたものを書こうとは初めから思ってないのです。ここはあくまで僕が僕のために僕に対して語り続けるチラシの裏なのです。僕に興味ない奴は帰れ。
といいつつも自分語りをしたいわけじゃなく、今日はメタ的に「自分語り」という行為に対して。
最近、コーチングを受け始めました。これも興味本位というより、ご縁あってのものなのですが。最近懇意にさせていただいている方が、コーチングのトレーナー見習いということで、よっしゃこれも何かのご縁や、僕も受けようじゃないか、と二つ返事でその方と意気投合、自分の目標達成に導かれる事になりました。
因みにコーチングとは
Links to コーチング
一昨日ブログに書いたように、「目標」や「自己意識による問題解決」という意識が薄いこのクラゲ人間に果たしてどこまで効果が出るものやら。コーチの方も難儀する事でしょう(他人事)。
また、それとは別に、僕は4年ほど前から心理カウンセリングも受けています。こちらも同様に、自分の問題解決のために様々ディスカッションするもの。コーチングがゼロをプラスに持っていく事が目的なら、心理カウンセリングはマイナス要素をゼロに持っていくようなものか。ええ、受けてる自分も何がゴールなのかよくわからなくなってます。
で、コーチングと心理カウンセリング。このどちらも、基本的にはまず自分について滔々と語ることから始まるんですよね。
うーん、本当は、というか僕以外は違うのかな、と今一瞬思いましたが、どうなんでしょう。少なくとも僕は、まず自分の置かれている状況、生い立ちから自己認識、プライオリティやポリシー、環境について延々とそれこそ合計20時間くらい語り続けて現状認識するところからはじめるのです。ブログでこれだけ自分の事語っていながらまだそれだけしゃべるのかよ、というくらいに。
心理カウンセリングとコーチングは基本的に別種のものですが、そのどちらも「答えは自分の中にある」という認識があり、その意味では近い存在でもあるんですよね。それはすなわち、「語っているうちに自分の中で整理整頓が進んでいく」ということで。
これ、実際に受けたことのある人は実感していると思います。何もさえぎらないで、ただ聴いてくれる人が居るだけで、自分の方向性はまとまっていきます。
そう思えば、高校時代や大学時代、無駄な長話や長電話、麻雀をしながらの滔々とした語り、そういったものを続けながら、僕らはディスカッションを交わし、同時に自分の事について誰かに聞いてもらっていた。
大人になった現在、あまりにも近い存在としての家族は居るけど、二人で自分語りを続けていくと煮詰まってしまう。それにお互いの話を黙って聴いていられるほど余裕が無いときもある。
心理カウンセリングやコーチングを受けてみて、改めて思うのは、前回のブログの結論と同じ。「自分の状況や環境についても定期的に語ってみて吐き出していかないと、これまた糞詰まりになる」ということ。もちろん心理カウンセリング・コーチングはそれだけが目的ではないのかもしれないけど、まず僕にとっては便秘を治すという治療に役立っているのです。
友達が多い人なら、誰か自分語りを聴いてくれる人もいるのかもしれませんが、薄汚い40のオッサンの自分語りなど誰も聞かないしそもそも僕は友達が居ないので、こうやってお金を払って自分の事を聞いてもらうのです。ああ、そういえばキャバクラも似たようなものか。(コーチングとキャバクラを一緒にすると怒られそうですが)
今書いてみて思った。キャバクラに行って話をするのも、ある種同じような「癒し」の効果を求めてるのかもしれない。いや、僕、年齢の割りにキャバクラ経験少ないんですがね。(これはまた10代の頃の水商売バイト経験が微妙に影響してるのです。裏方をやると、なかなかお店で楽しめなくなります)
自分語り、すなわち自分の中の整理整頓。コーチングやカウンセリングなどプロの力を借りるのももちろん一つの手法です。でも、それ以外の在野で行うときには、あまり他人に鬱陶しがられないように、上手くやらないといけないですね。

雑感

赤と黒
何故僕は齢四十近くにもなって、俺のダイオウイカを見ろ、わあ可愛いホタルイカ、といった下らない下ネタを同窓の女性と一緒にゲラゲラ笑いながら会話する人生を送る事になってしまったのか。ああ!(逆ギレ)とりあえずNHKは見ていません。ドキュメンタリーは好きですが、天邪鬼なのです。一人ケーブルテレビでディスカバリーチャンネル見てます。彗星探査機すごい。

自分の頭を健康に保つには、恒常的に読んで書いてを繰り返して便通を良くする必要がある(少なくとも僕は)。

今日は千葉。駅と月。
 実に単純な事ですが、脳みそも「お通じ」があると思います。
 昨年、ひたすらに読書を続けた時期がありました。学生時代から久方ぶりに活字に飢えた感覚を取り戻し、延々と貪るように読書を続けたのですが、その結果どうなったかと言うと、全く会話が出来ないコミュニケーション不全なオッサンが出来上がりました。
 あ、前提として、会話の質と読書量って、相関性があるように見えて実は全く無く、スマートな会話が出来る人は元から会話できるし、読書をどれだけ重ねても、操れる言葉はそんなに増えていかない、と思っています。
 僕は基本的に会話が得意ではありません。若い頃はそれでも可愛げで何とか世の中を渡れるものですが、この年になるともうこれはただの粗大ゴミです。人と正対すると「えー、あー、うー」しか言えない僕は、ああこの人は頭が可哀想な人なのだなぁ(外も中身も)と思われながら、静かにフェードアウトされるのがオチです。
 そんな僕が会話力について語るのはとっても面映いですが、まあこの話を始めてしまったから続けます。話術とは、畢竟、運動神経と反射神経に尽きると考えています。
 相手の会話の間や声色、語尾の韻律をコントロールし、相手との時間感覚を綺麗に一致させる事が話術の要、語彙なんて究極「ヤバくない?」「マジぱねぇ」だけで会話が成立している御方々をみてもわかるとおり、ある一定ラインまでのコミュニケーションには必要ないものだと思います。
 で、翻って、僕はそういう時間間隔、リズムを相手と合わせて会話するという事が本当に出来ないのです。呼吸を合わせる、というのか。相手が話し終わるタイミングやその次に発しそうな声色を察知し、阿吽の呼吸で次の言葉を発する、もちろんその言葉は相手の発した言葉の返礼になる内容をきちんと含んだものとして。
 そう考え始めると、対話なんて本当に怖くなるのです。どうやって相手と会話すればいいのでしょう。何を発すればいいんでしょう。どのタイミングで声を出せばいいんでしょう。腹に力の入らない変な声が出ないようにするにはどうすればいいんでしょう。
 考えれば考えるほど会話はできなくなり、どんどん気持ちの悪いオッサンになり下がっていくのです。でも、仕方ない。今更気持ちの良いオッサンになろうとも思ってない。こんな僕と会話してくれる人たちだけの閉鎖的なコミュニティの中でひっそりと邪魔にならないように生きていくようにします。
 まあそれはいい。それはいいとして。
 活字に飢えた半年、というのを経験してみて、感じたこと。
 読めば読むほど、言葉が整理できなくなるのです。
 このブログを読んで頂いている方はご存知かもしれませんが、僕は昨年、一旦会社をお休みし、24時間休養中の生活を少し続けていました。当時は体調もよろしくなく、全く活字が読めない時期もありました。でも、ある程度回復し、もう復帰しても大丈夫だろうという頃合を過ぎたにも拘らず、色々訳あって復帰までの期間、予備期間、復調期間のように自宅待機をしていた頃合があったのです。
 その頃は、読めなかった頃の反動か、活字に飢えるように読書を延々と続けてまして。
 むしろ時間はいくらでもあるからどこまでも読み続けるわけです。でも同時に、社会とは断絶して自宅待機しているわけですから、誰とも会話する事も無いのです。(かみさん以外)
 僕以外の方はどうなのか解りませんが、少なくとも僕に関して言うと、入ってくる文章量が多いわりに整理できる脳みそが追いつかないと、どんどん消化不良になっていくんですよね。そして、それを思索する時間(整理する時間)を取れるのならまだしも、飢えたように延々読み続けると、どんどん未消化物が溜り、更に状況が悪くなっていきます。
 これが元々読み手としての力が強い人(消化力の高い人)ならば、そんな事は無いのでしょう。どれだけでも読んで読んで読みまくって、それでも吸収できる人、というのが居る事も知っています。回りにもそういう強靭な読み手が多数居りました。で、僕も若い頃それなりに読む力を鍛えたつもりになっていたので、飢えた気持ちをそのまま本にぶつけて、読み漁ってみたんですね。
 そしたらまあ、読む力の弱っている事といったら。
 本の咀嚼力がまるでなくなってる。本を読んだら、一度置いて、考える時間を同時間だけ持たないと次の本が読めないという状況に陥ります。
 そして、糞詰まりのように言葉に捕われる。何も言えなくなるし、何も書けなくなる。同時に、論理的な思考(元々出来ないけど)が更に出来なくなってくるのです。何かを考えたら同時思考的に紐づいたキーワードが現れ、それに捕われて次に広がっていき、ロジックとは全く無関係な方向に思考がスター状に分裂していくのです。
 これ、精神分裂の五歩くらい手前の状況じゃなかろうか、と自分で感じました。
 いや、自分としては別に困った事にはなってないのですが、多分僕の回りに居る人が「こいつは何を話しているか解らん」「こいつは頭がおかしいんじゃなかろうか」「はげている」と困惑する状況が簡単に想像つくのですよ。
 でも、一旦その状況に陥ると、もう思考も出来ないんですね。思考するとすぐマーブリングや花火のように飛び散ってしまい、思考の整理が出来ないのです。
 その状況をどうやって打破するか、と言うと、もう僕は端的に話すか書くか、どちらかの方法で、アウトプットしながら思考を整理させていくしかないな、と思ったわけです。
 もちろん、書ける内容、話せる内容もまとまって無いから、支離滅裂。一種の現代アートかフィネガンズウェイクかと思うような無節操な文章しか出せなくなっているのです、でも、仕方ない、詰まったうんこは排出する以外に助かる道は無い。どんな姿だろうが、出すしかない、と、思い至ったのであります。
 そう思ってから書き始めるまでも相当時間が掛かっているのですが、まあとにかく書く事で頭の未消化分をクリアしていかない事には、僕は糞詰まりで死んでしまうぞ、と、まあ、そう思ったわけです。それで、ココ最近はブログを延々と書き続けているわけなのです。
 その意味では、今このブログに上がっている内容は、まだまだ未消化のウンコの塊で、まだまだ便秘が収まったばかりのどうしようもない内容である事は重々承知。でも、一旦出さないと次が繋がらないのです。
 そんなわけで、ココ最近は長いブログ記事が続いてしまうかもしれません。皆様ご了承くださいませ。今度僕にお会いする方は「このうんこ野郎!」と罵声を浴びせてください。

今年の抱負

 今日は成人の日でしたね。
 よどんだ天気で、皆さん大変だったかと思います。
 自分の事を未だに成人だと思った事がないのですが、これもヒトエに「成人式に出なかったから」と信じています。信じていると言うかそこに責任転嫁をして大人の責任を回避しようというずるい企みを持っています。
 19年前の成人の日(当時はまだ1月15日が成人の日だった)、僕は当時、片思いだったクラスの同級生と一緒に僕の下宿で試験勉強をしていた。二人、一つのコタツ机に並んで勉強していたのは、いい思い出だ。勉強は所詮一人でやるモノ、二人でやって身につくものは何も無いと思うが、その時も僕はただどきどきしてるだけで勉強した内容を全く覚えていない。とりあえず二人でフランス語の辞書を引き合った事だけ覚えている。
 実家に戻って成人式に参加する事も無く、僕はただ青春の一日を過ごしていた。甘酸っぱくも、淡い時間。そうして僕は、成人になるけじめに参加することなく、未だに青春の日々を引きずったままの中年になってしまった。僕にとって成人の日は、その子との試験勉強の思い出だけだ。東京都保谷市にある下宿、コーポしらかば。気持ちのいい冬晴れの、昼下がりの事だった。
 そんな19年前を経験し、未だに僕は成人の日の報道を見ると、その時の事を思い出す。世間の式典に参加する事も無く、ただ個別に淡いストーリーを紡ぎ、二人だけの世界に埋没してた。僕の非社会性、閉鎖的自己性は、こんなところに端を発している。
 まあ、そんな話はいい。過去を振り返っていても仕方ない。
 今日は、僕の「今年の抱負」
 あまり抱負や目標、というものを立てること自体が得意じゃないし、また好きじゃない。それは、ある「目標」に向かって何か行動を起こす、ということに不向きな事を意味する。
 不思議に思われる方も居るかもしれないが、僕は「目標」という言葉が苦手だ。
 目標に向かって頑張る、達成するために尽力する、そういう生き方に、あまり興味が持てないのだ。
 じゃあ、一体どういう生き方をしているのだ?と言われるだろう。僕はいつも「ただ毎日、自分の価値観を外れないように、その日その日を生きる」ようにしてると答える事にしている。
 イメージとしてはこうだ。
 僕は、この世の中を広大な海のように捉えている。
 海には、もちろん波もあれば、潮もある。
 それなりにたゆたっていれば、どこか新天地にたどり着くかもしれない。着かないかもしれない。
 目標を立てる人、というのは「今年中にこの海を越えてあの島にたどり着く!」と決める人だ。そして、実行としてそのために泳いだり船を漕いだりと、行動を起こして達成に向かう。
 僕はそれ自体全然否定しない。大変素晴らしい事だと思う。
 誰も見つけたことの無い新大陸を見つけるぞ、と大海原を漕ぎ出す人も居れば、今年はこの湾を渡りきろう、と堅実な目標を見据える人も居る。
 その中で、僕はちょっと違う捉え方を、してしまうのだ。
 海は、広い。そして波と潮が有る。
 この中では、僕の泳ぐ力、僕の持つエンジン、風を読む力、なんてものは、本当に些細なものだ。いくら泳いだって、潮の流れが向く方向にしか、流されない。
 じゃあ、僕はどこにたどり着こうと言う目標は立てない。それは、潮と波が決めること。僕はあくまで、沈んでしまったり、死んでしまったりしないように、日々の身なりをしっかりする事。そして天気を読み、災難を回避する事。そして大事な事、誰かと一緒に出会ったときは、その人と共に漕ぎ出してみる事。
 その中で、僕は将来、新天地か、南国の島か、極北の地か、あるいは大海原のど真ん中か、どこか「ご縁」のあるところにたどり着いて、そこで暮らせればいいと思っている。行きたいところは、決めてない。目的地を決めることは、大海原に逆らうことを意味し、僕の中で「不遜」な事とさえ思っている。
 僕にとって大事なのは、日々を安息に生きること。そして義理とご縁を大事にする事。そしたら、世の中の流れ、潮流が、きっと僕をあるべき流れに乗せてくれると信じているのです。自分で流れに逆らって泳いだりする事はしないし、流れに逆流した目標を立てたりすることもしない。あくまで、どこに行くかはお天道様が決めることだと思っています。
 そんなことをベースにして。通底認識とした上で。
 そんな僕の、今年の抱負「チャレンジしない。飛躍しない。」です。
 「また山本は(以下略)」「もういい大人なんだからそういう捻くれた事は(以下略)」「そういう目立ち方を狙うのはあまり(以下略)」というお叱りの言葉を沢山頂きます。ええ、解ってます。解ってます。
 でも、僕は今年、そういう抱負を持ち、活動していく予定なのです。
 どうしても新年の抱負、というと「チャレンジ」「飛躍」という言葉が並びます。うん、みんな前向きで、とてもフレッシュな気持ちに溢れた大事な抱負だと思います。
 でも、僕はそこに疑問を感じてしまうのです。
 飛躍するためには、一度しっかり踏み込まないといけない。今年一年を掛けてしっかり踏み込む事で、次の1年に飛躍する距離を広げたい。3ヵ年計画くらいで、そういう考え方があってもいいじゃないか、と思っているのです。
 そして、去年僕は、踏み込みが充分だったとは思っていない。このまま飛躍しようとすれば、ちょっと脚力の足りない、弱い飛躍にしかならないだろう、という気がしています。
 そう、僕は3カ年計画で「チャレンジと飛躍」を考えています。その中での今年は1年目。そこでは、芋虫のように栄養を溜め込み、チャレンジの方向性、方針性を決める時期でもあるのです。
 チャレンジしない、と言っていても、今年も既に5つの試験を受ける事を決めていますし、友人と大きな挑戦を踏み出す可能性も持っています。一般的に見たら充分なチャレンジと受け取られるかもしれませんが、僕にとってこれらは「飛躍のための仮説と検証」を繰り返す期間だと考えています。
 受ける予定の試験は、今も学び続けている中国語についてのもの、そして、これから始めるある国家試験的なもの、です。
 中国語の試験は、受けること自体は決してチャレンジじゃありません。日々の生活を淡々と、そして耽々と過ごす中で、身についたものをチェックするだけの事です。むしろ、合格して認定されたら、その後こそが人のお役に立てるかどうか、チャレンジになると思います。それは、多分あと1年はかかるでしょう。
 もう一つの国家試験は、これもこれからの自分を見据えて身につけたいと思った方向性のものですが、こちらも今年中に合格しようという気はありません。今年中にベースを築き、次の年に合格を狙う予定で進めています。

 因みに、昨年末に受けた中国語の試験、なんと満点で合格しました。ちょっと嬉しい。皆様ありがとう。このペースで今年も着々と進めていきたいと思ってます。
 その意味では、どちらもチャレンジというよりは、日々の生活の延長上にある実験、という段取りです。
 もう一つの、友人との大きな挑戦も、どうなるかわかりません。これもご縁が決めてくれることです。海の潮流が僕を大きく流してくれて、羽ばたかせてくれるのなら、それは抱負とは関係なく、僕は飛翔するつもりでも居ます。こんな抱負でいいのかしら。
 今年は、しっかり根を掘る年。30代の最後にあせらない。40代をしっかり迎えるにあたって、僕は今年を落ち着いてすごそうと思っています。皆様、よろしくお願いいたします。
海のたとえが出てきたので。
今年の抱負の基となるのは「G.T=Grand tourismo 大航海」です。
坂本龍一から一曲。

新年と老いと

 今年も343/365即ち47/50ほどになってしまいました。早い早すぎる。明けましておめでとうございます。
 今年になってからもう様々な皆様と一緒にお寿司食べたり天ぷら食べたりカラオケBoxで延々と森ガールをdisったり大学同期の新年会で子供たちと戯れたり親類縁者の皆様と会食してちょっとネクタイ締めて長兄っぽいそぶりをしてみたりちょっと仕事してみたりといろんな事をさせていただきました。もう今年満足。一年分楽しんだ。2013年終わってもいい。
 今年になってから人に会う機会が増えました。そしていろいろ考えさせられる機会も増えました。ほんの12日ほどなのに、ここまで約束ゴトの入ってない日がゼロ。必ず誰かと会ってお話をさせてもらってます。いや、本当にここまでアクティブな正月ってこれまでなかなか無かったよ。この年齢になってもまだまだ人恋しいロンリーボーイな僕としては有難い限りです。
 そんな中、ずっと僕が通底して今思っている事があります。
 とてもシンプルな事ですが、「これから、あと何して生きていこうか」ということ。
 いや、ね、これを紐解くといろいろ自分の恥も晒さないといけないのですが、まあこのブログはこれまで14年間僕の恥を晒す為に作られてきたものなので、今更気にしないで書き続けます。
 この問題の根底を簡単に言うと「老化」。
 もう、ね、去年の年末、忘年会連続コンボあたりから自覚し始めたのですが「お腹いっぱい食べると下痢をする」
 そうなんですよ。これまでラーメンと言えば大盛り、丼モノは1.5杯、居酒屋に行けば最後の一つまで食べ尽くして大量消費、という飲食行動が好きで、常に大食漢を気取ってきました。沢山食べられることが人としてのパワーの源である。僕の超人強度は1000万パワー!強大なパワーで圧倒する!という事を基礎通念として考えてきた僕にとって、消化できる量、即ち食事できる量が減っていく、というのは僕自身の存在の否定なのです。僕の消化器たちも、ついに消費量を下げはじめ、身体としての成長ピークを越えて、下降線に入ってきました。沢山食べて、沢山寝て、沢山いたす、という脂ぎったパワフルな肉食エロ中年を突き進もうと思ってた僕にとって、人生プランを改めて考え直さないといけない大事件なのです。
 これ、実際に経験してみると、とても恐怖なんですよ。ああ、ついに僕の身体にも「老い」が忍び寄ってきた、ということを経験する初の事例です。頭がはげてるのは老化ではなく生まれつきです。
 いやもちろん、僕以上の年配の方はそれこそ、みんな経験している事だと思うのですが、まさか「万年子供・万年児童」を自称する僕もそうなるという日が来る事は全く想定してなかったのです。
 身体は、確実に、老いていく。
 これからはもっともっと食が細くなり、「あー、お腹一杯!」の、あの満足感を得る事が難しくなっていく。
 多分、これは睡眠や性欲に関してもそうなるだろうな、という事も想像がつく訳ですよ。若い頃のような充実した睡眠が取れなくなる、満足いくような性交渉ができなくなる、そういう事もリアルに直近の未来だと感じる訳ですよ。皇潤やバイアグラが一斉にFacebookの宣伝欄に並ぶ図が想像できるわけです。
 いや、ね。でもその反面、正直、プリミティブな意味では、やりたい事について、満足もしているんですよ。
 北陸生まれ北陸育ち、美味しいモノはこれまで十分食べさせてもらってきたと思うし、(昨年に関して言えば)もう眠りたいだけ眠って、満足するほどの休養も与えられました。性欲について言えば・・・うん、ここは両親も同僚も上司も友人も様々な人が見てるブログなのであまりリアルな言動は憚られるかもしれないけど、一番欲求の強かった年代に、結構満足する人生を歩ませてもらいました。現在については言及を避けさせていただきます。
 もちろんそういう根源的欲求はこれからも、恒常的に「食べたい寝たいしたい」という気持ちはエンドレスにさざ波の如く繰り返されるものだと思います。でも、一番身体的に鋭敏で気力が充実している間に、それなりに満足のいく事をさせてもらえた人生かな、と、未だ40前ではありますが、感じているわけなのです。このまま身体能力が下降線に入っても、まあそれなりに満足かな、と。
 そこで、初っ端のお話「これから、あと何して生きていこうか」に立ち戻ります。
 プリミティブな欲求はある程度満足する前半時代を送ってきた。そして、これからはどんどん肉体的にも頭脳的にも年老いていく。じゃあ、これから何を「してみたい」「成長したい」と考えながら生きるべきなのか。
 もちろん自分の欲求を果たす為だけに生きてるわけじゃない。ノブレスオブリージュ。この日本で生を受けてそれなりに生活させてもらっている身としては、何か社会に貢献せねば、何かを成し遂げねば、とは思うわけでありますよ。こんなしょぼい身なりではありますが。
 もちろん、仕事をする中でどのようなライフプランを描くのか、も、とても大事ではありますが、もっと根底的に。僕はプリミティブな欲求の上に、何をするために生きているのか。オトナとしてとっても当たり前の人生指標ですが、ココに来て改めて考え直してしまったのです。

 この前、一緒に天ぷらを食べたK間さん。
 僕らがこれまで培ってきた、重ねてきた経験値について考える事ができました。

 この前、一緒にお寿司を食べたT柴さん。
 これからの僕らのライフプランについてとてもじっくり話し合う事ができました。

 実家に戻って参加した新年会。
 僕が属してる環境、支えてくれている家族、一族について、演じなければいけない僕の役割について、その立場に立って身を正す事ができました。

 大学同期生たちと集まって開催した新年会。
 身寄りのないこの関東の地で、長年の信頼を築き上げてきて、今や友人としてだけでなく、ビジネス展開的な意味でも冠婚葬祭的な意味でも僕の人生に重要なポジションとなっている仲間たちが数多く居る事に勇気付けられました。
 そう、これからは自分の身体が下降線に入っていく事を計算に入れたまま、成長曲線を描いていかないといけない。そしてそのための環境を作り、戦っていかないといけない。 皆様といろいろお会いしてお話しする中で、そんなことを考えていたのです。
 老い、は、はっきり言って恐怖です。特に最近はじめて身近に感じたものとしては。
 でも、同時に、これまでの経験もあれば、これからを明るく照らしてくれる仲間もいる。彼ら彼女らと、僕は何をしていくべきなのか。少しながらも、この13日間、僕の未来は古びた肉体を抱えたままでも次に進めそうな気がしています。
 今年も、よろしくお願いいたします。