さあ、やらかそう

“情報と答えを混同してはならない。情報を得ることはいとも簡単だが、答えを得ることは簡単ではない。”

その通り。
今の彼女と別れないほうがいいのか、
今の会社を辞めた方が良いのか、
あいつに一言言った方が良いのか
今晩は気晴らしに飲みに行った方が良いのか、
次の見積もりはいくらで出すのか、
銀行から金を借りた方が良いのか、
このシーンにはディゾルブを掛けた方が良いのか、
タイトルのフォントはこれで良いのか、

自分のための答えはWikipediaにもビジネス書にも源氏物語にもおばあちゃんの金言にも教祖の教えにも書いてない。

正しい答えを選び続けようなんて思わなければ良いのよ。
楽しんで、失敗して、笑って、また選んで、またやらかして。それで良いじゃない。

さあ、やらかすぞ!
(誰か僕を止めなさい)

サバイブするということ

独立してからというもの、可愛がって頂いているクライアントにあたる先輩方が様々なところに居てくださって。
その方々から「サバイブしていることが素晴らしい」「生き抜こうとする人が好きなんだ」というお言葉を頂くことがあって。
僕自身はサラリーマン時代から何も変わってないつもりなんだけど、実際には違う、みたいだ。わからないけど。

はて、サバイブとはなんだろう。生き抜く力とはなんだろう。
思い当たるのは、インプットとアウトプットの両方を研ぎ澄ますことだ。
アウトプットする量、情報を伝達する量を増やせば、必然的に(無理やりでも)インプットする量を増やし、質を高めていかないといけない。僕の場合はありがたくも講演や学校やラジオやWebなど様々な場所でアウトプットさせてもらっている。もちろん、自分が作り上げる商品・作品、もアウトプットの原点だ。本当に、ものすごい量に参加させてもらっている。これは何より、有難いこと。
インプットの量にも敏感になった。全然足りてないという自覚もある。本を読む量もまだまだ足りない。映画もむりやり時間を作って見に行っているが、もっともっと、浴びるように見たい。

アウトプット、インプットとは、畢竟、商業そのものなのだ。
知を右から左に受け渡すこと、そこに自分の知見を増していくこと。
右から左と言うと嫌がる人もいるかもしれないが、シルクロードの時代から知の贈与こそが商業だ。
映像を作ったりだとか、何かを生み出している様で、それは知の移行を行っていたに過ぎない。
クリエイティブとは何か、を考えているようで、実は、商業とは何か、を再発見する日々を送っているのだ。

こっちの世界は楽しいよ。

僕は「普通は…」「常識的に…」という言葉が嫌いだ。
マジョリティという言葉も大嫌いだ。
「普通に高校を卒業した人間なら事務書類くらい書けるだろう」と言う人には「普通に高校を卒業した人間ならAfterEffectsくらい扱えるだろう」と言ってやりたい。
そうじゃない?それはなぜ?なぜ?なぜ?僕の常識は受け入れられず、何故他者の常識を僕が無条件に受け入れなければならないのだ。

普通の人間ならロランバルトやドゥルーズくらい読んでるだろう?
常識的な人間なら中国語くらい簡単に話せるだろう?
それは常識ではない?誰が決めたんだ。僕の常識なら、この通りだよ。

そう「普通」なんて無いのだ。
このブログにあるとおり
「ちゃんとした人はふつうよりもケースバイケースの話ができる」だけだ。

お前は自分のことを特別扱いして甘えているだけだって?
ああ、そうだよ。君も特別になりなよ。甘やかしてくれる愛しい人を見つけなよ。こっちの世界は楽しいよ。
http://sakamotodappantyu.com/archives/59105572.html