自分の発言こそが自己存在

まあ、いいから聞いて。

僕は、いつも自分が感じたことを無邪気に「聞いて聞いて」と発言するようにしている。むしろそれは意図的に、恣意的に、心がけとして、やり続けている。感動したものは感動のままに。そこに政治的な意図やビジネス的なメリットデメリットは極力排除して。
要するに自分の損得を計算した発言じゃなく、言いたいことを言うようにしてるのです。子供っていうな。自覚はしてる。

年を重ねるとね、この社会でこれを行うのは結構しんどいことなのですよ。嫌でも、自分自身が何かを代表・代弁しなければならないことが増えてくるのです。僕はこれを極力拒否している。

例えば、会社に属したとして。
その会社に属している限り、会社にメリットのある発言しか許されないわけですよね。でも、人間も会社も変わるし、100%会社のポリシーに納得してるとも限らない。それでも、外部の人々にはそこで「ビジネスマインドを持って」会社の代弁をする発言しか許されないわけですよね。ほんの少し、許されるとしても、居酒屋やバーでの同僚語りにおける愚痴の吐き出し合いだけで。

これが、ほんっとうにストレスなのでした。
僕は僕だ。僕の発言は僕に帰属するものだ。僕は僕が感じたことを語るし、僕が書くのだ。サラリーで、それを売り渡すことはできなかったのだ。
自分で感じたことを語ることで精一杯だし、組織の代弁をしている暇なんてないのだ。
万一にも自分が感じていることと組織のメリットがコンフリクトした時なんて、とても耐えられないのだ。
組織のために自分の意見を曲げた発言なんてしたくないのだ。
こんな40代に誰がした。

でも、だからこそ自分が心から愛せる会社にだけ属するように努めてきたし、今は自分の屋号で食べているので、そこにコンフリクトは起きないのです。(あ、ただ一つ、祭りに関してだけは、存続するために「無私」になることができるよ。それもまた、僕の愛によるチョイスなのです。)今は学校でもその他の活動でも、自分自身の発言、活動をすることを本当に尊重してくれる方々が居ます。だからこそ、僕は自分自身の本当の意見と感情で、発展・永続できるように尽力できるのです。
この働き方は、100%ポテンシャルを出せると思っているし、ストレスも少ない。

逆に、仮に自分が組織の代表になったとしても、このストレスからは逃れられないと思っています。それは会社の代表だけでなく、政治家でもね。民意を代表した発言とかできないんですよ。あくまで山本 輔発言しかしたくないんですよ。仮面かぶることも演ずることもできないんですよ。

例えば、僕が函館市長だったとして。
函館の新幹線駅「函館北斗駅」は、北斗市内にあるんですよね。現実に。そこはもともと「新函館駅」という名前になる予定でした。いや、本当に。

北海道新幹線が開通することになり、新幹線の「新函館駅」ができるとなった時に。
隣の北斗市から「いや、その駅の場所は北斗市内だから北斗駅にするべきだ」と言われた時に。
やっぱり函館市長としては異議を唱えないといけないわけですよね。民意の代表として。
僕だったら「おう、そうやな。北斗市の中にある駅やから北斗駅の方がスジ通ってるな。そうしよう」なんて言ってしまうわけですよね。
ただ、民意の代表としては「日本国内において函館の認知度と新幹線による経済効果を鑑みて」なんて言わなければいけないわけですよね。
(上記は事実で「新函館北斗駅」になった経緯があるようです)

誰かに言われて納得した内容を変えるなんてことも極端に少ないのです。
その上に、自分の納得したことを言えないってすっごいストレスなのですよ。
政治家にはなれそうもありません。
まあ、出馬する予定もなければ、投票されることもなさそうですが。

政治家から話を戻して。
昔いた会社の社長には「サラリーマンとして出世したければ演じろ」と言われたことがあります。
僕にとって、それは非常に腑に落ちない発言でした。

いろいろ自分の人生を考え抜いた結論は
「意に反することを、さぞ自分の意の様に演じなきゃいけないのなら、そんな仕事やりたくないわ。出世なんか要らん。組織なんか要らん。サラリーマン辞めるわ」であり
「演じなきゃいけないのなら組織なんてものを作りたくないし、経営者にも上司にもなりたくないわ」であり
「フリーになったからには、矜恃として心と自分の意見と発言の自由は売り飛ばさないぞ」なのです。

例えそれが、この良い治安と社会保障が守られている日本社会の中でデメリットだらけであろうが、嫌だったんです。嫌と思える自由は失っていないのです。ストレスまみれで生きることは僕にはできなかったのです。
「言わなくていいことを言わない」とか「大人なんだから」というのも大の苦手だ。
言わなくていいかどうかなんて関係ない。利害関係とか関係ない。
僕が頭に思い浮かんじゃったのだからそれは「言う」のだ。

「言いたいことを言う」「やりたいことをやる」「言いたくないことを絶対に言わない」「やりたくないことを絶対にやらない」
僕が生きる4大ポリシーだ。

ごめん。もう「大人になる」ことは、とうの昔に諦めたんだ。
具体的には2012年あたりにね。

意外と、「大人じゃない僕」のニーズは、「大人を演じる僕」よりもニーズが高いみたいだ。
そして、社会に対してきちんと貢献できている、ようだよ。
だからこそなんとか、僕は生き続けていられるし、楽しんでいられる。

Run and Run and Run and Gun

昨日は卒業式!そして今日は次クラスのラスト授業!そして土曜日は春クラスのスタート!もちろん講師だけでなく、映像制作もあればステージの準備はあればオペラも楽器もVJもラジオも楽しい趣味のクリエイティブもWeb製作も祭りもある!どこまでも突っ走るよ!僕はしぶとく生き続けるよ!それはもう、目障りなほどに。

 

本当はね、全く孤独じゃないんだ。

今日は年度始めの入社式。部下や上司の居ないフリーランスではあるが新卒二人をお迎えする立場でもあるのです。ああややこしい。

 

 

 

フリーランスは孤独なものです。

という訳で新入社員の方々交えてお花見でございます。
会社文化の美味しいところだけ頂きます。ご馳走様でした。ありがとう。

 

フリーランスは360度どころか多次元評価をされている。

サラリーマン/雇われ人を辞めると、当たり前だけど上司や経営者というものが存在しなくなるわけで、それは社内評価というものがなくなるわけです。

だからと言って自分自身が世間から全く評価の目を向けられないかといえば、逆にありとあらゆる面で評価されてしまうわけです。それこそよく聞く企業の「360度評価基準」が矮小に見えてしまうレベルで(それはそれで仕方ないとも思うのです)。一挙手一投足一発言全部が評価対象になるわけです。サラリーマンもそうなのかもしれませんが、どちらかというと「ミスしたら出世に響く」というスタイルではなく「失敗したら次行けば良いので次々と手出せ足出せ。出さないのが一番の失敗だ」という視点で。むしろここまで幅広く評価目線に晒されると清々しい限りで、全く気にならなくなり「好きに生きて評価してくれない人がいればそれはそれでいいわ。評価してくれる人のところに行くわ。わはは」と開き直ることもできるわけですが。

そうそう、評価の重み付けを自分で設定することができたり、評価相手を自分でチョイスできるのも大きなポイントですね。

とは言うものの、それでも明確に評価が現れてしまうものも存在するわけでして。
その具体的な例が

1・毎月末の預金残高
通帳の収入みたら、自分がどれだけ評価されたかよく分かるわけです。世から声をかけてもらえなければゼロ。失敗してもゼロ。とてもわかりやすい。
あえて評価面談なんて設定する必要がないくらいシビアなわけです。

2・確定申告書類と税金
これも上記預金残高の一年バージョンですね。これを3年4年と積み重ねたらそれだけで銀行や公共からの信頼も増すわけで、はっきりと「社会の評価」に反映されちゃうわけです。

そして、僕のやっていることはその他にもたくさんの評価視点があり、そこに僕はゾクゾクするわけです。

3・完成した映像の自己評価
これは他者は関係ない部分なのですが、自分自身が作った映像に対して、自分で満足いくかどうか。これはもう、本当に自己満足の世界なのですが、それだって評価のうちです。どんなに金になっても人から賞賛されても自分で納得いかないものはやっぱり嫌なわけです。作りたくないわけです。なんだか今はツボを叩き壊す陶芸家の気持ちがわかります。

4・完成した映像の他者評価
これ、金額と違う部分で評価・賞賛・罵倒されるのですよね。それがまたひとつの軸として明確に存在するわけで。やっぱりいいもの作って賞賛されたいじゃない。金額は関係なく。でも、いいものを作り続けると、それは確実に経済にも反映されていくのです。作品が良い評価を頂けたら、半年後にお金になります。これ、実体験。

5・イベントの盛り上がり
VJだのラジオだのやってると、作品とはまた別に当意即妙の表現で目の前のお客さんが満足するかどうかも、また「作品の質とは関係ない」部分で大きく動いたりもするのです。これもまた評価の一軸だし、大事にしなければならないものだと思っています。

6・一緒に作っていた制作仲間、クライアントの満足
これもまた一緒。お金とも作品の質とも盛り上がりともまた違う、一緒に納品を迎えた仲間たちと「またこのメンバーでやりたいね」と言える関係になれたかどうか。これもまた評価の一つなのです。そして結構大事なポイントです。むっつり気難しい顔して高尚な作品作るより、仲間と楽しく良い作品を、僕は作りたい。
そして、「作品」という非人格な存在もまた、仲間の一つだと思っています。たまに「制作者は作品の奴隷」という言葉を聞きますが、僕はこれが苦手でして。作品もまた、僕らに敬意を払ってくれる存在の一つなのです。

そして、僕にはもう一つ、大事な評価基準があるのです。

7・僕の受け持ったクラスの受講生がどれだけ満足して、素晴らしい作品を提出してくれるか。

僕の実家は学習塾。そこでは明らかに「受験結果」というものが毎年出るわけです。そして僕が10年スタッフをしていた某スクールでも「就職実績」や「卒業作品」というものが毎年出るわけです。楽しさを伝えて、その楽しさを受け止めてくれて、成果が生み出される、という仕事。この醍醐味。

今、僕は、映像やモーショングラフィックスの学校で講師をさせてもらっています。
そこでは、受講生の皆さんが一生懸命身につけた知見をもとに、作品を作り出してくれているわけです。その、作品にこそ、僕が「この世に何を伝えられたか」の評価が僕自身に下されるのです。
今日は、モーショングラフィックスの学校「BYND」のAfterEffectsクラス「モーショングラフィッカーコース」の修了作品発表会です。
僕は何を伝えられたのだろうか。

でも、そんなことはまたどうでも良いのです。ここまで書いておいてちゃぶ台ひっくり返しますが、自分の評価なんざどうでも良い。
素晴らしい作品を見て喜ぶだけなのです。
きっと、今日もまた素敵な1日に違いない。

BYND MotionGraphicer Works Preview

季節ちょっと外れの卒業式。
”BYND”モーショングラフィッカーコースの修了課題発表会「WorksPreview」。
これだけの受講生の作品を拝見できて、送り出せるのは講師冥利につきる。
みんな、もっともっと創ろう。遊ぼう。僕も一緒に創る。遊ぶ。