仕事における二つの出来事

 
昨日は講師業〜ラジオパーソナリティと喋りまくる1日でした。
が、思うことは映像屋として。作り手として。二つのこと。
 
一つは、全く論理性のない話。
突然の話があったのです。2月末までに僕に映像を作って欲しいという案件が。
予算無し。2分半ほどの、言わば小さな協力話です。
そして、ありがたいことに、今僕は自分の力量最大限近くお引受させていただいている状態。
どう考えても、このタイミングではご協力が難しい状態。
 
もちろんお断りすることで、その方との信頼が揺らぐことはありません。
ですが、今回、長くお付き合いさせていただいている中で「どうしても、彼は今、『(様々訳あって)僕でなければ作れない』この映像を、必要としているし、それを知っているからこそ僕は今応えなければ男じゃない」と思うものを感じました。
お金でもなく。付き合いでもなく。
(もちろん、いい意味で今後のビジネスにつながる、という確信もありましたが。そして、「僕が慌ただしい」という以外には阻害要因が何もないという状況で。)
 
そして、慌ただしい時期だからこそ、絵コンテを書いてインタビュー内容をまとめ、撮影を自分自身で行い、自分の編集とグラフィックで、精一杯渾身こめて仕上げました。
結果、喜んでいただけた上に、僕も美味しいビールが飲めました。
 
その瞬間、思ったのです。
「ああ、この案件がしっかり渾身こめられたのだから、他の案件もきっと良いものができるに違いない」
 
全然論理的ではないです。この案件が出来たから他もうまくいく、と言う保障はありません。
でも、そう感じたのです。
いわば、僕の敬愛する「米長哲学」と、大局観です。そんなおおげさなもんじゃないけど。
 
そして、もう一つは、悔しくも気付かされた話。
全く別の案件で、映像編集の初校を提出し、クライアントからもらった言葉
「たすくはもっともっと『遊んでくれる』と思ってるんだが」
「撮影終了後にあんなに楽しそうだったのに、置きに来たと言うか、まとめてきたような…」
 
そう、これを聞いて、またハッとしたのです。
薄々と勘付いてはいたが、きちんと要件定義に落とし込み、仕組みを作った上で、その通りのものを納品するのが仕事のはずが…僕に望まれていることはどうもそうじゃないらしい。
 
そう、僕らの仕事ではよく言うのだが「要件通りのものを納品したらそれは失敗」という難儀な商売なのだ。
要件を決めながらも、それをひっくり返して「定義の時は想像できませんでしたが、こっちの方がずっと良いです」と言わせなければいけないのだ。いや、言い方が違う。感動を提供する仕事と考えた時、要件定義の時点でイメージさせたらサプライズを失うのだ。故に矛盾のようだが「要件定義の時点でイメージを想像させ共有して対価と責任を決めてはならない」のだ。どうやってビジネスにせえっちゅうねん。
 
話を戻そう。
いやもちろん、お客様の希望はきちんと汲み取るよ。
(むしろ今回は、要件どおりのものと僕のオリジナルを2つ提案してみたのだが、そういう意味とは別軸の話で。オリジナルがまだまだ「魅力的でなかった」ということだ)
 
別に僕は作家ではないし、僕のクリエイティビティなんて小さなものだ。
でも、僕が落書きをするように、遊びを取り入れて作ることを求めてくれる人が間違いなく存在する。
 
僕の仕事は、僕が子供のように、無邪気に、伸び伸びと作ることを期待されている。
もちろんこの社会に言わせれば「バカ言うなきちんと社会人みんなができる『やるべきこと』をちゃんとやるのが仕事じゃボケ」「勝手に勘違いした振りして自分のやってることを自己正当化するなアホ」と言われるでしょう。
はっきり言おう。違う。そうじゃなかったのだ。望まれていることはそうじゃないのだ。
 
お仕事をくれる方がそれを望み、そこに対価を発生させている限り、僕は自由に遊ぶことが責務なのだ。
 
それは今年の目標「常に笑顔で居る」ことにも繋がってくる。
僕は、僕という個人に期待してくれる人の為に、伸び伸びと、その結果としての良いものを作り続けて行かなければならない。
 
そして、全く別の目線として、映像を作るのと同じように、僕はワークフローや仕組みを作るのが好きだ。ひょっとすると、僕自身が「遊び心満載の」無邪気なシステムワークフローを生み出すことが新たな価値になるのかもしれない。
 
どちらにしろ、何を作るにしろ…「僕らしいもの」を作っていかなければならないのだ。
そう、確定申告の書類以外は。
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