自分できめるっちゅー事

 いやね、突然なんだけど、自分で「決断する」なんてことを考えてしまいまして。
 なんかこういう話をすると「自分で決断する事は大事な事だ」と言う結論に落ち着くのが最も美しい着地点なんでしょうが、相変わらずひねくれものの僕はそういう着地予定での話はしないのです。
 逆に「自分で決定できないもの」について考えてしまったわけですよ、ええ、奥さん。
 例えばね、自分の名前。自分の名前なんて、まさに自分のアイデンティティであり、自分そのものに他ならないものなんですが、ぶっちゃけ自分の名前こそ自分では決められないというこのジレンマ。結構、すごいことだと思うんですよね。
 更に言うと、自分の親、生まれる環境、生まれる年、日本ではあまり意識しないけど、身分とか…。案外、自分自身のことで自分で選べる事って、ほとんど無いのよねー、なんて事を考えてしまったのですよ。
 これが今まさに、セカンドライフとかテレビゲーム、ハンドルネーム含めたネット世界での仮想現実の繁栄と繋がってくると思うんです。おお、なんだか文体が宇能皓一郎っぽくなってきたぞ。
 結局、こういう仮想現実モノの何が一番ポイントかって、自分のプロパティを自分で設定できるってことなんだと思います。それこそ名前や外見に限らず、生物学的な部分まで落とし込んで。やー、やっぱり自分のアイデンティティは自分で決めないとね。自分で責任を背負えるようになるためには、自分自身のことは自分で確定させたいよね。
 で
 そこまで思ってハタと気がついたのですよ。この世の中に生きることって、「自分の決めたこと、自分で決断した事じゃない事に責任を持つ」必要が有るのだなぁ。もっと言うと、「環境の流れで決まってきたことに自分で責任を背負えるのが大人」なんじゃないかなぁって。
 えらく話が飛躍したみたいですが、簡単に言うとね
 例えば、どんな親から僕達が生まれてくるか、自分の名前がどんな名前かは決められないけど、その環境で生まれ育つ責任は間違いなく僕ら自身に降りかかってくるんですよ。そりゃさすがに、虐待とかの話になればまた違うけどね。バランス範囲の中においては。
 それに対して「こんな親じゃなかったら僕はもっといい人生を送ってた」「こんな名前じゃなかったら(略」「こんなかみさんじゃなければ(略)」なんて言ってもしょうがないと思うわけです。すみません一つだけ私観が入りました。
 
 自分が決めたことには自分で責任持ちましょう、とは言うけれど、
 勝手に決められちゃったことにも、自分で責任持ちましょう。
 という辛い十字架をひょいと持ち運べる人が、大人なのかなぁ、
 そんな風に思いながら、現実世界をヤマモトタスクと言う人格で今日も一日過ごしております。
 …もし自分が自分の環境を自分で選べたら…
 多分、今の人生を選ぶかもね。今で結構満足してるんです。名前も親も環境もかみさんも。十字架は決して軽くないけどね。筋トレしなければ。

「自分できめるっちゅー事」への4件のフィードバック

  1. 確かに。
    でも、いろいろなことが決められちゃってますよね。
    いい歳こいても持ち運べないボクですが、つぶされないように頑張ってます。

  2. 言われてみると、たしかにそのとおりですね。。
    十字架を持ち運びする以前に、時々運ばれていそうです。
    自分でたくさん運べるようになった時って、景色が違うんでしょうね。僕には遠すぎますけど(苦笑

  3. >東京犬さん
     自分で運べたときの景色を見る日は、本当に死ぬ間際なんじゃないかと思います。自分の孫達を見て、その上で罪深さなんてものを感じたときに、逆に救われるのかな…なんて、言えば言うほどなんか宗教っぽいですね。そんな僕は無神論者です。
     いや違った八百万神論者です。

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