IMG_2843ずっと、仲良くさせていただいている素敵な方と、公園で待ち合わせをし、食事をし、雨の中を楽しく歩き、本屋を散策してきた。

こう書くとデート以外の何物でもないが、その通りなので許してほしい。

僕らは幸せに生きることを、許されて生きているのだ。

いつも、感謝の気持ちを忘れない。

東海道、細雪、Prince、お祭り(これは僕の一方的な話題)、経理や財務話題に尽きることはない。素敵とは、教養溢れて洒脱に生きることを含有している。

その中で、ふと手紙についての話題があった。

これまでにもらった手紙、送った手紙、その機微、感情について。

もともとは、谷崎潤一郎の往復書簡の話題から広がったものだった。でも、自分自身を振り返ってみて、書簡遍歴を見直してみたくなった。帰宅してから、僕は本棚の奥から書簡箱を一つ、取り出した。

僕が二十代の頃は、まだデジタルもそんなに発達しておらず、コミュニケーションは主に電話や手紙だった。そして、僕は(今もそうだが)人の縁に恵まれていた。結果、僕は多くの方と書簡を交わしてきた。

今、改めて思う。もっともっと、向き合ってこれば良かった。こんなにも手紙を交わしてくれる方々がいたのだから、もっともっと僕も書いてくれば良かった。

何より、僕は自分の筆跡が嫌いで、手紙を書くことが憂鬱だった。自分の字が嫌い、ただその一点において。僕自身が「男が手紙を書くなんて」「他者に読まれたら恥ずかしいじゃないか」という棒にも箸にもかからない自縄自縛な古い価値観に囚われていて、目の前の大事な人たちとの言葉の交わし合いを避けてきたのだ。ああなんという大バカもの。字くらい練習したらいくらでも綺麗になるやんか。たくさん書けばいいやんか。今、若い頃の自分にあったら「ぼくのかんがえたさいきょうのひっさつわざ」を自分自身にかけまくりたい。どんなものか知らんけど。

僕が頂いた手紙を数年ぶりに箱から出してみて、改めてその価値に気がついた。僕がもらったこの手紙たちには、筆跡や便箋、封筒に至るまで、その全て、細部に至るまで、愛情や思いやりに溢れている。便箋を選ぶところから、ペンを紙に触れる瞬間、投函する瞬間、みんなは何を思ってくれていたのだろう。それを考えると熱いものがこみ上げてくる。僕はそれほどまでに素晴らしいものを頂いていたのだ、こんなにも素晴らしい往復が自然と交わせる文化の中に生きていたのだ、と。デジタル埋没の毎日を送っている自分自身、これほどまでにメールやLiNEのやり取りで心を動かすことがあっただろうか。

(いや、逆にデジタルでも感動するやり取りを追求することも、僕らの使命だと感じながらも)

いや、過去ばっかり見ていても仕方ない。これからでも書けるじゃないか。書こう。恥ずかしがらずに、きちんとコミュニケーションを取っていこう。メールやメッセージに限らず、僕らはこんなに素敵なコミュニケーションツールを100年以上前から手に入れていたのだから。そして、この手紙たち、20年以上前のものでも、しっかりと僕の手元に残っている。サーバが飛んだとか、そんなチャチなものでは消えていかない。少しづつ滲んでいくボールペンの筆跡さえも、感情を震わせるのだ。

この歳になると、僕も自分がこの世を退場する時のことを(ほんのわずかだが)考える。

その時は、この手紙たちも一緒に焼かれたい、と願っている。

ありがたくも、僕はいろんな宝物に恵まれているけど、その中でも書簡集は特別なものだ。

どこにも印刷されていない、誰も持っていない、どこにも公開、リリースされない、僕だけのコンテンツ。

まるで、幼稚園児が自分で作り上げた、自分だけの飛行船のような。