「人前に立つ」という役割がある。
書くとそのままだが、非常に深い意味がある。
僕は田舎の長男坊だ。
別に本家とか分家とか関係なく、田舎の長男はそれなりに古いしきたりの中で生きる。
祖父の時代から、家長が箸を持つまで家族は手をつけないとか、父が席に座る際は全員姿勢を正すとか、そういう教育を受けてきた。多動な僕はできてなかったけど。
長男は「その次の家長になるべく」して、それなりの教育を受けてきた。いわゆる「長男教育」。田舎の長男は案外多いんじゃないかな、と思ってるんだけど。

僕が教育されてきた部分はこうだ。
間違っていたらすまぬ。
「冠婚葬祭含め、家を代表して挨拶する日が必ず来る。そのときに堂々と振舞え。お前の役割はそれだけだ。だから、生きていろ。健康でいろ。生活や経済観念など、他はどうでもいい。生活感あふれる汲々した男になるな。堂々としていろ。堂々と遊んで、酒を飲んでいろ」
僕の理解としては
「普段は平々凡々、昼行灯で構わない。女中(時代錯誤なお言葉失礼)妾(時代錯誤な以下略失礼)丁稚(時代錯誤)に助けられつつ、皆に頭を下げてできないところを守ってもらいつつ、そして愛されつつ、普段を和やかに過ごすのが務め。基本「何もできない自分で良い。ただ、不機嫌にはならない。こうべを垂れて、皆に愛されていじられて『うちの大将はなにもできないんだから』と陰口叩かれて笑ってるくらいがちょうど良い」
「ただ、冠婚葬祭、喪主や総代など、いざ自分がその場の顔看板として立った際だけは、誰よりも堂々と。葬式であれお祝いごとであれ、最後の締め言祝でも乾杯の挨拶でも、答辞であれ送辞であれ、しっかりと堂々と「引き締まった会だった」と思ってもらえるように、座長の振る舞いがきちんとできること。
「田舎の長男」の仕事はこの一点に尽きると思っている。
僕が人前に立つ時は、この思想を根元に持っている。
その結果か知らぬが、僕は最近「人前に立つ」仕事が多くなった。それもただの先生業や登壇者じゃない。
「締めのご挨拶」だったり「卒業式の送辞」だったり「乾杯の発声」だったりと。
なんだこれは完全に「顔の人」ではないか。
まあでもいい歳だからな、そういう役割が来るのならば受けて立たないといけない。
話長くなった。
で、ハッピープレビュー(BYND卒業生主体運営の映像作品発表会)。こちらが2/29に銀座で開催されました。

参加映像作品は14作品。観客は70名いるかいないか…くらいでしょうか。
その中、今回もコメンテーターとして喋り倒してまいりました。
確かにこれは冠婚葬祭ではない(若干「祭」ではあるかな。)そして僕は主催者でもない。
だが、これで初回からずっと「前で喋る役割」を続けている僕自身、「顔役」を任されているという自覚があった。(それが不遜な勘違いであれば次回から辞退する。)
だからこそ僕は、堂々と振る舞い、堂々と語り、堂々と祝う。それで喜んでくれる方がいるならば、僕はいくらでもこの役割を続けよう。しっかりとその訓練、心意気をもって生きてきたのだからな。
「この人が『顔』を張ってるイベント」は間違いない(誠実だ/楽しい/ちゃんと締めるところ締まってる)と思っていただければ、僕はここにいる意味がある。
僕の仕事は、意外と「顔」になりつつある。
だからと言って昼行灯が許されるわけではないのだが、普段のんべんだらりとしていても「決めるときに決める」男でありたいものだ。
いや、基本がだらしない性分。
のんべんだらりと生きていきたいものだ。
浦霞の熱燗もう一杯頂戴。
…この「のんべんだらり」にも品格が求められると思ってるのだが、その辺りはまた今度。
綺麗に蕎麦が食べられる、とかね。
