そりゃもう変わったさ。明らかに。そして劇的に。
僕の人生はDH退職を境に、とてつもなく鮮やかになった。
デジタルハリウッドを追い出されてから1年後、僕はフリーランスの映像作家・モーションデザイナーになった。
先生業を営み、数多の方々に慕われ、ラジオDJになり、執筆業を行い、VJになり、オペラの舞台にも立った。昨年は法人化した。
DHにいた8年。僕は膨大な映像知識、CG知識、Web知識、更には「これからやってくるであろう近未来の見据え方」を手に入れた。それは業界人との関係性や、そこにある書籍、様々な授業のカリキュラム作り、聴講生としての学びを通じて…。
これが現状、僕にとって「本業の柱」になっている。
僕にその道をマンツーマンで教えてくれた師匠も、最初のクライアントも、今お世話になっている10年頼のプロジェクト仲間も、全てDHの同期や先輩。
DHがあったからこそ、僕は「今、生きている」「みんなを生きずに自分を明確に生きている」しかも「バカにされて、世界を変える仕事」を真正面から行っている。
愛憎は共に心に渦巻いている。もちろん、感謝の気持ちは計り知れない。
退職から10年経った今、振り返ると、様々な組織の軋轢、組織でしか経験できないこと、その醜さ、政治的行動…「おお、会社ってこうなんだ」という発見に満ち溢れていた。まるで島耕作のような、放擲、権力闘争、上場に向けての強烈な組織改編、三国志の様な権謀術数、金銭絡みの不祥事、権力が絡む男女の有象無象…それらを見ることができたのは大きな学びでした(もう20年前のことなので今はクリーンなのかもしれませんが)。
「うつ病になったあなたを置いておく場所はない。自主退職してほしい」とも言われた。復職して半年後、一方的に基本給を下げる印にサインをさせられた。その一年後、転籍という形で事業部ごと売り飛ばされるときに、僕の意向は無視されて(僕を次の会社に渡すことが前提で話が進んでいた。これは僕の尊厳を大きく傷つけて、今なお燻っている)追い出される際には「退職届を書いてください」と明確に言われた。もうその時の戦いは弁護士も付けて言質の記録も扱って身を守ろうと徹底抗戦した。もし僕が不幸になれば、あの音声ファイルはいつかどこかで刺し違えることになるだろう。パワハラが過去遡及可能になり、ニュースになる時代があればね。(こちらも10年以上前の話です)
今でも、自問自答する。
どうして、追い出されちゃったのかな。
あれは、僕が悪かったのかな。僕がそんなに何もできない社員だったのかな。何もできないという理由だけで、追い出されちゃうのかな。転籍だったら法的にもクリアなのかな。そこまでして、追い出したかったのかな。僕は…何に弾かれてしまったのだろう。
しかし、僕は結論、今は幸せに生きている。さらには、明確に「ハリウッドスタイル」で、学長が開校当時に目指した姿に近い形で「社会貢献」「近未来の技術」を取り入れながら映像、CG、AIを取り入れたコンテンツメイキング、お金に囚われない貨幣経済の構築、先を見据えた若手の教育、等々に携わりながら「受注産業でなく、自らが世界を発信する」活動をして、黒字を出している。
こんな40代に誰がした。というか気がつけば50代だぞ。
うだつのあがらない、何もできない、書類もかけない30代を、どうしてこんな形で羽ばたかせてしまったのか。
これは、感謝するべきことなのか、何を思うべきなのか。
うん…基本的には感謝をしている。そこに居た人たちやスタッフOB、先生方に今も守られて僕は生きている。どう考えても僕自身が「DHネットワーク」の中に存在し、学長のマインドをベースに持っているからこそ、僕は生きていられるのだ。
そして「僕は幸せにならなければならない。僕が未来を指し示さねばならない」と意地を張って、今は後進の育成にも携わっている。
…結局、僕はDHとの関係性の中で今も生きている。
かみさんは言う。「もういいじゃないですか。赦すもなにも、もう違う地平に立ってるじゃありませんか」と。
確かに、収入も、社会的信頼も、あの頃とは比較にならない。
が、同時にその根っこは、やっぱり「DHから頂いたもの」だ。
今年はDH創立30周年。
僕は創立11年目に入社し、19年目に退職している。記念式典には参加していない。
きっと僕は30周年にも40周年にも参加することはないだろう。声も掛からないだろう。
でも、校友会長や校友会事務局の方など、僕が(それぞれ個人としては)大好きな方々が頑張って「素晴らしい環境」を作ろうとしていること自体は、遠くから応援したい。
潰れて欲しいとは微塵も思わない。DHのマインド、先見性は唯一無二のものだ。永続して欲しいと、心から思う。
そう、結論。
僕は感謝している。
そこにいる人たち、居た人たちに今も助けられて生きている。
転籍当初は一瞬、負の感情を持ったが、それも時間が昇華してくれている。なんだかんだ言いつつも、創業一年目、DHは僕の独立を応援してくれて、お仕事くれたしね。
まだひよっこの頃、ポンと任せてくれたスマートワーク50万の案件、嬉しかったなぁ…。
あと…もう一つ。
今は完全にフリーランスとして、制作会社の社長として、クリエイティビティに携わっているし、明らかに「サラリーマン」よりフリーが水に合っていると自覚している。映像作家は「なるべくしてなった」職業だと思っている。
でも…
誰も信じないかもしれないけど
僕は、サラリーマンで居たかったんだ。
最後まで、デジタルハリウッドを愛していたんだ。
会社を離れたくなかったんだ。1999年から2005年まで、6年かけて3度も入社試験を受けて、どうしても入りたかった会社だったんだ。出会った人も、先生も、卒業生も皆素晴らしかったんだ。杉山学長の語る「Re:Designing the Future」を僕は真剣に信じていたんだ。この世界を作るお手伝いをしたかったし、それはそれは本当に楽しく働かせてくれたと思っている。
今でもなお、CGや映像の世界に飛び込みたい方にはデジハリ大を勧めている。
でも…仕方ない。僕は去らなきゃいけない運命だったのだろう。
去り際が、僕の人生観を大きく変えた。
・僕は、会社組織には馴染めず追い出される存在だ。
・会社に依存しちゃいけない。
・人の役に立っていれば、ご飯は食べられる。
・自分の発言を防がれる場所にいちゃいけない。
・言いたいことを言う。
・言いたくないことを言わない。
・僕は僕を最大限に活かす場所で、自分を発信して生きていく。
・自分の苦手な場所を矯正しようとしてくる人は、ありがたいが、距離を置く。僕はストレスなく笑顔でいる時が、人の役に立つ様なんだ。僕をコントロールしないで欲しい。
このような教訓を与えてもらった。
僕自身は、とても幸せだ。
結果論、僕は僕を生きている。
去った結果、DHマインドを(多少は)体現しているんじゃないかな、と思っている。
みんな、ありがとう。
—–
でも…「今が幸せなら、過去のことはもういいじゃないか。語らずに黙すのが大人だ」と言うのは結果論だ。その言葉は聞きたくない。
あの時無理やり辞めさせた(転籍)こと。事業部長から社長まで出てきて、あたかも「僕の本意で転籍します」というサインを強制的に書かせようと何日間も監禁したこと。
「社長を出してこないとサインしません」と言った次の日、本当に社長が僕を説得に来た時、僕は本当に寂しかったね…「そこまでして辞めさせたいのか」と。
会社として「どうしてもスタッフごと事業売却をしなければならない」のっぴきならない事情があったのかもしれないが、それで僕の人生を勝手に(良かろうと悪かろうと)勝手に変えられるのは許せない。僕の人生は僕が決める。会社の都合で僕の人生を変えるにも関わらず、頭を下げるでもなく「副業してるの知ってるんだぞ」「このままじゃお前の居場所は無いぞ」様々な言葉で僕を疲弊させ強引にコトを進めようとしたこと。二度と忘れない。
最後まで戦ったし、結果タイムリミットまでにサインは書かなかった。その理由は単に「僕の尊厳を傷つけた人は許さない。たとえ不利益を被ってでも」という僕のポリシーのためだ。
でも、そうなのよね。会社員なんて、他人の都合であっちこっちに飛ばされたり、法の穴すり抜けていくらでも辞めさせられたりするのよね。うん、僕が馬鹿だった。若かった。
もう、自分の尊厳を傷つけられる仕事はしない、と、心に決めて、独立10年目になる。
でも、あの時のことは、今でも、僕の尊厳に対して、ただ一言、詫びて頂きたい気持ちはずっと残っている。
それでも人として侮辱・侮蔑をした人間だけは、今後も赦すつもりは無い。
——–
僕にとっては、デジタルハリウッドに関わった方々との人生は「壮大なオペラ」だと思って、楽しんでいます。僕はオルロフスキーか、ドンジョバンニか。いつか石像に刺されて倒れるのか。最後にシャンパンを浴びせられるのか。
「自分の言葉に酔いしれているんですか」
その通り!端くれとはいえ10年近く作家を名乗り飯を食べている身だ。「僕が陶酔して見えている世の中」を映像表現にし、それを喜んで依頼してくださる方々によって僕は生きているのだ。
DHを去って10年、まだまだ、僕はみんなに助けられて生きています。愛憎渦巻く人間関係、人生のオペラは続いていくのです。
「さあ、宴を始めよう!」
(歌劇:Die Fledermaus-こうもり-より)
※ちなみに、こんなことを書くな!と言われたとて、僕は「言いたいことを言う」ためならダメージを受けても惜しくない、自分の言葉に嘘をつかない覚悟で生きているので、削除することはありません。