おっさんが通用しない世の中に…なってほしい。

若者。頑張れ。社会からも逸脱したおっさんは若い人たちがバッサバッサと中年を軽やかに飛び越えていく姿をとても期待して居るぞ。

(以下引用)
2万年くらいずっと、人類というのは会社に勤めることなく、生きてきたわけですよ。100年って、2万年のうちでは0.5パーセントぐらいでしかないですよね。短いものってやっぱりこの先も短いので、たぶん会社もすぐなくなっちゃうんだろうなって思っているんです。
(略)
端的に言うと、この国で今、経営陣の人たちというのは、会社を成長させられなかった人たち。経営者失格です。
そういうまったくパフォーマンスをあげられなかった人たちが、大きな会社の役員とか本部長とかの席に座っているんです。今の世の中で、存在感を表わす会社を見てください。ほとんどみんな、20代の人たちが作っている会社ですよ。ですから、これはもう、諦めたほうが良いんです。
(略)
日本では20代はひよっ子、30代で一人立ち、40代で中堅のリーダー、50代で会社を代表するリーダーということなんですけど、この構図はもう完全に崩れ去っています。
価値はもう、年齢フリーです。世代フリーの時代が来たということなんですね。価値を出したほうが偉いということなんです。そういう世の中になっているにも関わらず、「基本的に若い人の価値は低い」という前提の中で構造が出来上がっている環境に、価値を生み出せる若い人たちがいるのであれば、僕は「即座そんなところは出ろ」と言っていますね。
(引用終)

https://logmi.jp/business/articles/322545?fbclid=IwAR3BINNn-CD4GXsiSpwUdPbGwE-NvGgnjfdc4xpp7b4iEaheWCzCpN7GnSg

やりたいことをやるためにフリーになったんだ

人が求めるものを探して、ニーズに合わせて行動を変化させるのが市場主義だというならば、僕はそんな主義には賛同、同調しない。
自分のやりたいことをやる。

その上で、こんな我儘な僕を、それでも求めてくれる人がいるならば、その人のために全力を尽くす。精一杯心を込めて、僕のできることをやる。

僕を「収益を上げるツール」「労働力」「コスパの良い作り手」としてではなく、一人の人間として扱ってくれているのだから、そりゃもう当然の礼儀だろう。

昨日は編集ルームに籠り、今日は一眼レフを構え、明日は教卓に立ち、明後日はラジオマイクの前に居る。

僕は何屋でもありません。神出鬼没の変態紳士です。

僕を必要としてくれる方と、僕の思いの衝突が。

悩み事、というほどじゃないのだけど。

ありがたくも最近はお仕事、というか、人様のお役に立てることが少しづつ増えてきたのかな、と思う。皆様からお依頼され、お引き受けし、喜んでいただくことも増えてきた。ありがたいことです。

そうすると、自分一人の手では回らなくなってくる。さすがに自分自身の身ひとつでできることにも、物理的に限界が出てくる。僕に限らず、割とよくあるお話だと思う。
このステップを経て、誰か人を雇い、チームを作り、自分が大事な方々を幸せにできる範囲を拡大し、起業、法人成り、というものを考え、またそれをよしとする発想もあるだろう。

しかし、やはり僕はそれを「是」としないのだ。
何故ならば、僕自身が「雇われる」ということを唾棄してしまったのだから。

自分が唾棄するだけならいいじゃないか。他者は他者、自分は自分で、他者の考え方も尊重して受け入れればいいじゃないか、と思うかもしれない。

でも、それじゃダメなんだ。
自分自身がそれでも苦しむのです。

雇うよりも、手前の段階で、僕自身が煩悶するのです。
今僕は、様々な方に仕事をお願いして、手助けしてもらって、なんとか僕自身を盛り立ててくれている。本当に感謝している。それ自体はいい。それ自体はとてもありがたいことです。

ただ、自分がどなたか信頼置ける方に仕事をお願いする時に、やはり「お願いできるな」「ありがたいな」と思うのは「素直で」「従順な」方になっていることに、僕は自分自身身震いしているのです。
いや、素直で従順なのはいい、それは人として素晴らしい資質だ。
でも、一歩踏み間違えると、求めている人材が「自分で考えずに唯々諾々と従って行動してくれる『考えない、意見しない人間』」になりそうなのが怖いのです。

あれ、僕が仕事で「助けてもらえた」と思える人って「自分で考えることを忘れた人種」な人だったの!?
僕が「そんなもの捨てちまえ」「やめちまえ」と叫んでいた側の気質に、助けられているの!?
ここが、僕にとって、とてつもなく、コンフリクトするのです。

嫌なのです。「自分で考えることをしない人種」なんて、人としてあってはならないスタンスだったのです僕としては。権力に嚙みつけ!権威を潰せ!自分の意見を持て!「個」として生きろ!と叫んでいるのに、自分が仕事をお願いする相手が「自分でものを考えない」人だとしたら、それは自分が許せなくなるのです。
それは、世間で「サラリーマン気質」と言われる。雇う側からすると、とても便利な人材だろう。

「やっぱりサラリーマン気質の人間に依頼するのが楽なんじゃないか」「サラリーマン気質を是として仕事進めるんじゃないか」「お前も自分が忙しくなってきたら、手のひら返して歯車を欲しくなるんじゃないか」「ものづくりなんて偉そうな仕事しながら、どうせお前もチャリンチャリンシステムを作りたくなったんだろ」と自分自身に対して思うことにとてつもなく苦しみを感じるのです。

嫌なんだよ。嫌いなんだよ。むしろ滅びてほしいと思うくらいに大嫌いなんだよ勤めるというスタイルが。
そしてこの従順さを求めて仕事を依頼する感情を突き詰めていくと、結局「保証を与えて」「一生雇い続けて社会の素晴らしい歯車として活躍して頂こうそれが社会貢献だえっへん」というスタイルに行き着く自分が見えるんだよ。そんな人生、誰にも勧めたくないんだよ。それは僕自身が苦しみ、そして自分が逃げただけじゃなく、立ち向かってぶっ壊そうとしている姿じゃないか!

そしてそのために、東インド会社の設立から暴力論から組織論から哲学実存主義経済学様々調べて「なんでこういう社会になったんだ」「もっといい社会があるはずだ」と信じ抜いてその生き方を貫こうとしていた僕が「やっぱり雇わないと社会回せないじゃないかお前も所詮この資本主義における一匹の犬なんだよ」と神々に嘲笑われることがとてつもなく苦痛なのです。

「あなたが間違っている。やはり社会をより良くするには、素直で従順な組織の歯車になるべき生き方を尊重し、その方々をうまく活かす社会を作りあげるのが良いのです。大事な人たちを幸せにするためにも、組織の長として大きな経済を回しなさい」と神々が、昔からの知見深い方々が、人生の先輩方が嗤おうとも。

僕は絶対にこの生き方をやめない、と思いたい。
僕は自分の過去を否定したくない。
法人化なんてしたくない。したくないのだけれども。

同時に、自分を必要としてくれている方々を、悲しませたくもない。
本気で、分身したい。僕と僕と僕だけで、僕を必要としてくれる方々を幸せにしたい。
自分が倒れても、もう一人「コピーですら無い、明確な『個』として同じ存在である『僕』」がもう一人リカバーできるようにしておきたい。
それは、他者じゃ、ダメなんだ。他者には、その人の人生があって、それを尊重してあげたいんだ。

そしてもう一つ。
稼ぐことは、僕にはそこまで重要じゃないんだ。
稼ぐこと、収益を上げることよりも、僕にとっては「自分の意見を世間に叩きつける」ことの方が圧倒的に重要なのだから。
収益が自動的に上がり続けるシステムを考える暇があったら、拡声器を持って叫んでいたいんだ。
だからこそ、人を雇い、その人の雇用を守り続ける責任も背負えない、やっかいな一匹ものなんだ。

オーウェルの1984が、時計じかけのオレンジが、蝿の王が、頭から離れない。

このブログも20年続けています。

今になって気がついた。
僕のブログ「RoyalScam」は、去年の12月26日を超えて、
丸20年続くブログとなりました。皆さまありがとう。おめでとう。ありがとう。

たかがブログ。されどブログ。一度も名称変更せぬまま、テキストサイトと呼ばれている時代から、ずっとずっとずっと書き溜め続けた僕の言葉群が最も多い場所は確実にここになります。
ソーシャルメディアは各あれど、僕はこのブログの場所を決して手放さずにずっと進んでまいりました。これからもずっとこのまま進んでまいります。

というわけで、ブログ「www.royalscam.jp」これからも宜しくお願い致します。
基本は僕語りです。

にしても
学校>僕語り
ポッドキャスト>僕語り
FM市川>僕語り
オペラ>配役内で僕語り
記事執筆>僕語り

と、そんじょそこらどこでも自分のことばかり語って生きてます。いつ枯渇するんだろうこの妄想人格肥大は。

僕の会社組織に対するルサンチマンは深い。会社組織よ震えて眠れ。

(引用)
その際、未だ多くの教育者はこのような判断をするのです。「高速道路をこれだけ速く走れるなら、道路渋滞や砂利道だって努力すれば必ず走れるようになる」と。
(引用終わり)

ああそうだよ。ずっと言われ続けてきたさ。
「あれができるのにどうしてこれができないんだ」
「あれだけ映像が作れるのに、みんなができる事務がどうしてできないんだ」
「サボってるだけに過ぎない」
「甘えてるんだ」
「他の人にできることができないなんて言い訳に過ぎない」

小学生の頃からサラリーマンのラストまで40年近く、それこそ地層のように深く深く深く僕の中でルサンチマンとして積み重なっている。社会に対する相当な「恨み」として蓄積されている。この怨念が、今の僕にものづくり&社会へのアウトプットパワーを与える源泉の一つだ。

自分自身はいい。もう自分だけの舗道を手に入れたし「目線を合わせて」「他の人と足並みを揃えろ」「ちゃんとしなさい」「真面目にやりなさい」と指摘する人間の声はもう聞こえないことにしている。
聞こえたところで、お互い傷つくだけで何も事態は好転しないからだ。

次は、同様に困っている方々をちゃんと救っていきたい。

——
僕は、友人のこの言葉に、相当救われたのです。
「山本さんを常識人として扱う方がおかしいなんて、最初からわかってるじゃないですか」

特別扱いしろと言ってるわけじゃない。自分の常識範囲内だけで人のことを判断しないでほしい、尊厳ある対応をしてほしい、と、ただそれだけなんだ。

https://jp.quora.com/nippon-kokunai-niokeru-seishin-shikkan-no-saidai-no-genin-ha-nande-suka/answers/195682850?ch=1&share=87113b00&srid=joT6I&fbclid=IwAR1LgE43Ppj1DY60qUin21zqLzXJCJ5NkVZwOmQksRaebrQbRhTPWbCdce8

今日も卒業式

昨日は監督。今日は先生。一昨日は審査員。
肩書きだけ並べると、お偉方、権威のようである。

違う。全く違う。僕はそういうものからなるべく距離を置いて生きてきたのだ。

なりたかったものは「作家」だ。そしてそこに読者は要らない。僕が書いてさえいれば成り立つ業に就きたかったのだ。取引なんてしたくなかったのだ。もっというと「生業(なにわい)」には就けども、職業になんて就きたくなかったのだ。

ところがこのお偉御託な職業どもは、どれ一つとして自分一つで完結しない。それでいて権威をかさにきてしまうような臭みを持つ。僕のやりたかったことは、これらの臭みに唾を吐きかけることじゃなかったのか。

どうしてこうなった。なぜこうなった。

そんな中、今日は総勢50人を超える卒業式。過去最大。1年で8回の卒業式があるので、このまま行けば年間のべ400人以上を輩出する学校となった。
みんなに愛されて、可愛がってもらって、最後に式辞を読ませてもらって。
これでいいのか。こんなのでいいのか。本当に「僕は生きててすみません」な、真っ当じゃないゴロツキだぞ。人として。

それをわかってなお、5年以上続く学校BYNDが拡大を続けていることに、僕は喜びを禁じ得ません。
まだまだ、僕は頑張ります。背中を晒します。倒れたら踏んづけて行ってくださいませ。

ビデオサロン続々連載中

今日はモノ書きの話。

僕は最近「ビデオサロン」なる雑誌に連載を担当させて頂いており、その中で「映像のお仕事が専門でない方が、お仕事をする時のポイント」を色々とお話しさせていただいております。

今回のテーマは「ふわっとした依頼が来た時にどう受注するか」です。敏腕編集者のお力でとてもわかりやすく仕上がりました。矢野裕彦さん本当にありがとうございます!

映像系案件受発注でお悩みの方、ご笑覧くださいませ!

インハウス動画制作の現場から〜社内ビデオプロダクションのススメ〜第10回 動画プランニングで考える 動画制作の依頼をうまく受ける方法

今日の僕は審査員

有難いにもほどがあるというか、どうしてこうなってしまったのか(いい意味で)

僕が講師を務める学校「BYND」の卒業生たちが、公式な運営母体とは関係なく、有志において様々な方、企業を巻き込んで「制作発表会」を開催されました。

僕は恐れ多くも「審査員」なるポジションにて、全13作品を全て「即興で講評」するという無茶…じゃない有難いお役を頂き、最後には「神出鬼没の変態紳士賞」という賞まで設けさせていただいて、僕から気に入った作品に賞をお渡しさせて頂きました。

自らも受賞歴があるわけじゃないのに、賞を渡す立場になるだなんて…本当に人生には何があるかわからない。
久々にお会いする卒業生の方もおり、本当に幸せな時間を過ごしました。

まだまだ、僕も頑張らないといけないな。
愛されて46年、山本輔でございます。

完徹作業

久々に完徹してしまった…まだまだ、お仕事、ご依頼があるというのは本当にありがたいことです。
と言っても、もう年齢も年齢、これでいいのかどうなのか。
生涯プレイヤーでいいのか。と言ってもマネージャーなんて適正ゼロだし、経営者なんて柄じゃない。
生涯放蕩人として生きていきたい。

とりあえず、寝れば良いのだけど、仕事で火照ったテンションをお祭り動画でさらに火照らせます。
この時間がないと僕は死ぬのです。
そして眠りに落ちます。彌榮。彌榮。

言語とは何か

(クライアント許可の上掲載)

モーショングラフィックスにおいて擬音を使うことを良しとしない僕の制作フローにおいて、それでも10年以上一緒に作業をやっている相手とだけは、むしろ擬音で対応してもニュアンスは伝わる。
決して真似をしてはいけない。これは長年、何十回と酒を酌み交わして、何度も制作を共にしてきた方だからこそ対応可能なフローなのだ。

一般業務ではなるべく言語化して指示を出していきましょう。