Snowbound

 以前、ふとtwitter上で、あるお方と、Donald Fagenのソロアルバムの会話を交わしまして。
 アルバム「Kamakiriad」にある「Snowboud」という曲のよさを改めて再確認。思い出して今週のヘビーローテーションになっています。
 僕自身も忘れておりましたが、このサイトの主旨は「スティーリーダンのファンサイト」です。
 決して山本輔の個人露悪趣味ブログではございません。
 下のYoutube動画はオリジナルではなく、FourPlay演奏のもの。
 Guitarはラリーカールトン御大。軽やかで歯切れ良い音色。

 本当はこういう曲が似合う30代になりたかったんだよね。
 今はマキシマムザホルモン的30代になってしまってます。
 それはそれで好きなのだけど。ノーメイク風呂へ 気分はスター・ラメ 。
 かみさん曰く「似合いたいのであればスマートさが1500%足りない。とにかく痩せろ。12kgほど」。

 今日は以前から懇意にしていただいている方と3年ぶりに再会。大手町でランチ。
 3年ぶりの再会のどこが懇意なのかと言われそうだけれど、今はこのブログ含めコミュニケーション手段がたくさんあるからね。本当にいつもお世話になってる方なのです。
 この方は、ずっとこのブログも読んでくださっていました。そして僕も、この方のブログなり日記を読んでいて、常に共感をもって日々を過ごしていました。
 この方のブログも「自分の言葉で語っている」事がよくわかる文章が連なっていて、本当に楽しく読ませていただいていました。(僕のは言わずもがなの駄文ですが)
 この「自分の言葉を語る」文章をお互いに読んでいると、旧知のように思えてきて、ほんの2時間ほどの語り合いでしたが、とても優しい時間を過ごせました。久々にお会いしたとはいえ、そこまでに積み重ねてきたこの言葉群が、お互いの心象を近づけてくれるものだと、改めて実感しました。
 佐々木俊尚というジャーナリストが、新書で「キュレーションの時代」を謳ってましたが、お互いに「自分」というコンテンツをもって共感で繋がる、この小さくも固いつながりの連続性と重要性を感じます。
 そう、僕がブログを続けている一つの理由は、これなんです。
 デンマークの友人こますけのときにも書いたけど、長年の物理的空白を、ブログが埋めてくれているのです。(ただこの話は今日の本題で無いので割愛。)
 久々にお会いしましたが、素敵な女性です。
 気風がよく、感情を受け入れて、これまでのヨシナゴトを含めた自分を愛情で満たしている方との会話、本当に楽しかったです。
 人見さん、本当にありがとうございます。

 大人になって、ヨシナゴトを受け入れていくと言うことの重さを、時にふっと考えます。
 大人になると言うことは背負うものが増えてくると言うこと。自分自身、気がつけば不思議と背負ってるものが増えている感があります。へらへらしてたのに。(へらへらしてたから増えたともいえる)。
 Snowboundは、「大雪に閉じ込められた」と言う意味。
 Snowboundの心持さえも、上記の曲のように、軽やかに美しく表現していきたいです。
背負うものと面と向かうと、閉じ込められたような心持になるときもありますが、そういうときこそ、歩んできた道を笑い飛ばせる強くて優しい仲間達とともに、軽やかに飛びぬけていきたいです。
 
 やっぱりこの曲がBGMに映えるオトコになりたいです。
 なぜ皆さん首を横に振ってるんですか。

酷い会

先日、「あまりにも酷い大人たちの会(通称:酷い会)」というアラレもない名称の会に参加してまいりました。
 参加してきた、というか、いつの間にかメインメンバーに入れられていた、と言うべきか。
 昨年末に、僕の知るお仲間方が5名ほど集まって忘年会を開いたところ、あまりに一般社会人らしからぬはっちゃけぶりをしたらしく、非常に皆様満足されたそうなのです。
 で、その会を再度開催するにあたって、一般社会人らしからぬ人ということで僕がその場にいることになりました。何故。平均的サラリーマンのはずなのに。
 ええ、朝まで飲んで非常に楽しい時間を過ごさせていただきました。
 暗くならず、深刻にならず、良識を蹴っ飛ばせる無頼の気持ちをフトコロに持ちながら、大人としてのヨシナゴトをつらつらと、腹を割ってお互いに身の上を語り合えたと思っています。
 ただ、酷い酷いと言いながら語りましたが、その実そんなに酷くないというのが実感です。
 ここに集まっていたのは様々な業界でのフリーランサーやクリエイター、制作会社勤務の方々。
 こういった方々って、本当に根が真面目で、良識的な方々が集まってると心底思います。
 まあ、僕自身がこのような業界(制作人)の方々と、反り具合が似てるという心情もありますが。
 ある意味、自分で自分を律してないと、とたんに足元が揺らぐバランス感覚の中で生活をしている方々だと感じています。
 その方々のバランス感覚の中で、非常に研ぎ澄まされたコミュニケーション、会話をすると、酷いといっていてもその実必ず振れ幅が自分の中でコントロールできている状態内での酷さなんですね。それがまた洒脱で、軽妙で、すばらしい。
 多分、一番バランス感なく、酷いところに突っ込んでいったのは、僕だったと思います。
 僕自身はバランスをとって軽妙に渡り歩いてるつもりなのですが、バランスの中央が人とどうにもずれているらしく、酷い話でいつもながらに周りをひかせてしまいました。ごめんなさい。
 「父さんだってな、若い頃は無茶を・・・」なんて台詞、吐きたくないのですが、皆さんの話をまとめると僕の若い頃は少しだけハッチャけ過ぎていたのかもしれません。
 僕は唯好奇心が旺盛だっただけです。今でもですが。
 

無題放言

・入社6年目にして初めて社内の重要行事(年4回施行)に参加した。
・今年はフトコロ具合も安定していると思ってたら、家庭内のインフラ(暖房や水道)に思いのほかお金が掛かってて、気がつけば「うっへぇ」と叫ぶことになった。今年寒すぎ。つか電気使いすぎ。
・最近、職場以外でも様々なところに顔を出させていただいている。創現さん、横浜映像定例会(定例と言いながらまだ一回)、30代歩くおっさんの会、マジで語る会(これも開催一回きりになっちょる)、最近全く顔を出せてない四十期飲み会。
 そして「あまりにも酷い大人の会」通称酷い会。詳細は後日。
・そして上記に3つで被ってるM田さん。この変態。
・2月は作り物が大忙しになりそうだ。がんばれ僕。
・40代まで、今日で残り1000日をきりました。
 そんな計算するんじゃない。このiPhoneが。

結婚

 「なんで結婚したんですか?」
 と言う質問を受けました。
 その方のニュアンスには、どちらかというと「どうして貴様のような顔面偏差値も髪の毛偏差値もFランクで精神的にも破綻しており生活力も壊滅的で体脂肪の塊の様な、そんな貴様が女性を娶っていらっしゃるんですか」と言う雰囲気がこめられており、僕も、うーむ、そういえばその通りだ、何故なんだろうなぁ、と考えてしまいました。
 いやね、結婚する事がいいことだ、とか、モテのステータスだ、とか思わないんですよ。むしろ現在の社会状況から言うと結婚する際、男性にはメリットは(放送禁止)と思います。ええ、はい。
 ただ、まあそんな中「結婚したくないのにしてしまう」人も居り、その状況については社会学的にもいろいろ考えていかなければならないと思います。
 え、僕は結婚したかったのか…ですか?僕については個人情報保護的観点且つ人権第一条身心の保護のためと言う観点から回答を控えさせていただきます。
 一人で生きていくことに不都合が無ければ、結婚する必要って無いと思います。
 愛する人が居たとしても、結婚とは別に愛情をかけ続けることは(生物としては)可能だし。
 社会制度の中に結婚したほうがメリットありますよー、という制度があるからこそ、結婚するわけでさ。それが破綻したら、別に結婚する必要性ってなかったりするわけです。
 まあそんななか、何故僕が結婚したのかと言うと、ひとえに「寂しいのが嫌だ」「生活力がまるでない」と言うところに尽きるのではないかと、まあ、そう思うわけであります。
 一人暮らしをはじめてからと言うもの、炊事はおろか洗濯も掃除もしたことの無い、女性の家に転がり込むか友人と同居して全て任せるかしかやってこなかったため、「一人暮らし=生活力がある」という一版通念から逸脱し、「一人暮らし=いかにヒモになるか」ということだけを追求した人生となっています。
 その中で感じたこと。
 
 女性を娶る、と言うニュアンスに、とりあえずは狩猟民族的な、男同士が戦って、優位に立って、相手の男性に競争に打ち勝つことで手に入るステータス、という側面がまだ残ってると思うのです。思うのですが、
 
 なんというか、成長して努力して、より良い男になることで女性が手に入る、と思ったためしがありません。
 この、意図的に男尊的な「女性が手に入る」と言う言葉を使いましたが、ここ大事なポイントなのです。
 このニュアンスに含まれた、「もてる」「娶る」「女性と一緒に生活する」って全然違うものだと言う前提があると思うのです。
 もちろんもてたことなど生まれてこの方一切合財ないので、「もてる」については言葉は差し控えさせてもらいますが。僕自身の語る言葉には上っ面。表層の軽さしかないのですけどね。それを踏まえて語らせてもらいます。
 少なくとも、もてないまま、女性と一緒に生活する、or娶る、と言うことに関して。
 そこには男性的努力ってあんまり関係ないように思います。
 
 
 もっと言ってしまうと、「駄目になるほど女性には優しく(=生活保護)してもらえる」という側面があると感じてます。それはもててるのとは全く違う、何か人生の反則技を使っているような後ろめたさがあるのは承知しながら。それでもそこでしか生きていけない男性(主に僕)の最後の生存手段を使っていることを自覚しながら。
 周りの男性は努力して身奇麗にし、収入を増やし、ステータスを手に入れることでよりすばらしい女性を手に入れる。それに対して、僕はいわば国家から生活保護金を貰っているような。努力する気が無く、ひきこもっていると仕方なく保護されてしまったような。
 若い頃は「20代しかこんな放蕩はできないから。大人になったら社会がちゃんとしなければならないように環境が自分を律させてくれるから」なんて思ってましたけど、とんでもない。30代になろうが40代になろうが、なにもかわりゃしないのです。これはもう50・80喜んで。生涯この環境は変わらないと云うことを自覚してしまいました。
変わるのは多分、「駄目人間だと誰も養ってくれない」という環境に陥ったときです。
養っていただけてるうちが華です。愛されて37年。
 全く自慢にもならず、気がつけばなんとか生活させてもらってるような状態ですが、本当に僕を保護&飼育してくれるかみさんには感謝しても仕切れません。
 結論としては、「駄目な人間だから僕は結婚した」と云うことです。
 なんだか、もてるもてない、人としての成長、男としての魅力、とは全然別のところにある人生の深い闇に触れた気がします。多分今後も僕は駄目を売り口上にして世を渡り歩いていくのでしょう。