So won’t you smile for the camera…I know I’ll love you better

 何度も書いていることですが、ここは僕の個人的露悪趣味ブログではなく、あくまでもアメリカのバンド「Steely Dan」のファンサイトです。10年前からそう言い続けています。皆さん聞いてますか。
 そう受け取ってくれている人は閲覧者の一割も居ないでしょうが。
 いいんです。先進めます。
 今日はちょっとポエミィなRoyalScamです。
 
 僕の大好きな名曲 「Peg」。
 アダルトでジャジーで、良質なコラボレーション。
 SteelyDanの楽曲は、基本的にあまり遭遇することの少ないシチュエーションの歌詞や、あり得ない様なラブソングが多いです。「ハイチ式離婚」だの世界チャンピオンの精神世界が崩壊するだの、大人の小道具を使った中二的世界。
「Peg」も同様。歌詞はいつもながらにシニカル。
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【原詩】
I’ve seen your picture
Your name in lights above it
This is your big debut
It’s like a dream come true
And when you smile for the camera
I know they’re gonna love it
I like your pin shot
I keep it with your letter
Done up in blueprint blue
It sure looks good on you
So won’t you smile for the camera
I know I’ll love you better
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和訳
君の写真を見たよ、
写真の上に、君の名前が光ってたね。
君もついにデビューしたんだね。
夢がかなった、と言っていいかな。
カメラに向かって微笑む姿、
みんな君のこと好きになると思うよ。
君のピンナップも気に入ったよ。
君の手紙と一緒に取っておくよ。
blueprint blueだね。
君、良い表情しているよ。
カメラに向かって微笑んでごらんよ。
君のこともっと好きになりそうだよ。
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 一見、何ということは無い歌詞。
 いろんな解釈があります。昔の知り合い、別れた彼女、恋焦がれた人、が、夢をかなえて銀幕デビューした、それをポスターや映画で見て追想している男、という歌です。うん、いいねぇ。大人になるとはこういうノスタルジーを感じることです。
 が、この歌詞にはトリックがありまして。
 ポイントになるのはblurprint blue、の部分。
 blueprintの意味は・・・「人生の青写真」あるいは「ポルノ映画」
 このどちらをとるかで、この歌詞の解釈が大きく変わります。
 1・古い恋人の君が、人生設計どおり、銀幕デビューしたのを見たよ。
 2・可愛い君が、ポルノ映画で活躍しているのを見たよ。
 このダブルミーニングを同時に軽やかに歌い上げるのがこの曲です。
 どちらの解釈かで、歌詞の中の「It sure looks good on you 」の味も全然変わります。
 そう、このシニカルな変調加減こそがSteelyDanの魅力。
 Blog始まって以来初めて正しいSteelyDan論を語ってる気がする。
 で、一般的な分析はそこまでとして。
 最近、ヨシナゴトの中で、この歌詞を深く堪能できる事がありました。
 そう、知る姿を画面に見ながら、物思いと、倒錯した恋慕に耽るような出来事が。
 ・・・あ、だからって、さすがに昔の恋人がポルノスターになるような出来事は起こり得ません。そっちじゃない方の解釈です。残念ながら。
 彼女の姿を見てて、応援すると共に、切ない感情も僕に渦巻きました。
 自分の矮小さや、小さな独占欲や、平静を保とうとする理性。
 大人になるって、こういうことなのね。
 新しく味わえる感情。楽しい欲求と激しい理性。それを客観的に堪能する自分。
 大人になってたつもりでも、バランスを崩しそうになりました。自分らしくも無い。秋だから感傷的になってるのかもね。
 生きてるのは、甘酸っぱくて、楽しいものです。

リピートに耐えられること

Japanese Princess
 一度会ったら良い人だけど、二度目は酷い人。
 一度見たときには面白い映画だけど、二度見たらつまらない映画。
 一度目は素敵だったけど、二度目見てみたらそうでもなかったライブ。
 再読に耐えられるもの。これは、僕がモノを作るときにいつも意識をしていることです。出来てないけど。全然出来てないけれど。そもそも人としては初回から酷い。そこからして駄目だ。
 いや、本当にコレは難しい。僕の作り物に限りませんが、再読、再々読に耐えられる作品というのはとてもクオリティが高いと思います。クオリティとは、大幹の頑丈さ、そして細部にわたる精緻。破綻がないというレベルではなく、トリックやギミックと関係のないところで別の味わいが見えてくる作品。ビリビリっとした刺激を求めて、再読に耐えうる作品に出会う為に僕は乱読をしています。
 人と同じ、読書や映画は全て出会いです。ご縁は大事。ご縁は大事。
 それゆえに、僕が作品を判断する一つの基準として「時間の試練を耐えていること」をいつも考えてます。伝統や歴史、が好きだという僕の嗜好もありますが、数多くの人の再読を経て、それでもなお面白く、その次から出てくる新鋭の作品達の中でも埋もれずに生き残ってきたもの。これを僕は上質と考えています。
 なので、読む本がどうしても旧作に傾いてしまうのですよね。過去の名作は大好きです。
 特に、その世代の若者が支持して、でも当時の権力世代が顔をしかめたもの。今になっては評価されている作品でも、その当時に抑圧、あるいは捨て置かれた作品って、また輝きが違います。時間の試練により浮かび上がってきた、ということですからね。
 自分の視点や感情は、ほとんどあてになりません。また、「今の僕の感情にぴったり!」なんて思える作品は、たまたまそのタイミングに出会ったからこその感想であり、その作品本来の魅力ではありません。
 で。
 結構前に読み終わった作品ですが、「深夜プラス1」。
 今のところ、今年読んだ本の中で最も再読に耐えられるミステリーでした。

 そう、ミステリー。
 再読に耐えられるという試練において、もっとも不利なポジションです。
 だって、ネタバレしたらあかんやん、魅力ないやん。最後どうなるかわかるやん。という状況で、それでも作品そのものを楽しめるか否か、これはミステリーの組み立てのみならず、筆力が一番問われる状況だと思います。
 「深夜プラスワン」でGoogle検索してみると、その賞賛はいくらでも出てくるのでここでは割愛しますが、80年代90年代のミステリーは、ああ、全部この種牡馬から生まれてるのね、と思えます。いや、真実なんだけどね。次元大介(ルパン三世)も、この作品からスピンアウトして生まれたキャラクターです。いや、本当に。ウソや思たら、ちょっと読んでみ。
 でも、翻訳は、僕の苦手な菊池光。
 ですが、この作品に関しては、苦手な菊池節をものともせず、ぐいぐいと引っ張っていきました。
 ディックフランシスの菊池訳はどうにも甘ったるく、論理的なのか情緒的なのか微妙に尻の座りが悪く感じてましたが、これだけスピーディに引っ張られるととても心地よい。
 とはいえ、60年代の作品なので、今の作品に比べたらゆったりしてますが、これがまた心地良い。
 この作品では、圧倒的に登場人物がお互いの信念をぶつけ合って、その上にトラブルがどんどん舞い込んできて、それでもなお成功に向けて話が進んでいく。その進行はリアリティある小道具やシニカルな会話によってのみ表現される。
 そうそう、この表現手法。「~と思った」「~と考えた」という文章や、説明口調の会話は無く、その上で、解り易いストーリー展開。小道具の見せ方は精緻を極めているのに、その小道具を知らない人でも気にせず読める。知ってる人だとなおさら唸る。
 文章学校では一番初めに学ぶことなんだけど、これが高度に出来ている小説って、実はあまりない。
 というわけで、今年の中で一番感動した本。もう一回読もう。
 今年は本の感動目標を達成したので、その他のフィールドでも感動していきます。
 (もちろん、小説も読むけどね)
 最近この本読んだ人、是非語りましょう。
 僕はロヴェルよりカントン派です。弱点がありながら、男義で弱点を克服するやさ男より、はじめから一貫した逞しいマッチョリーダー(マッチョすぎるところにトラウマ有)が、大好きです。
・・・正直、大学時代に英米文学専修にして、ヘミングウェイを卒論にしていた者としては「今更この作品かよ!」と言われる恥ずかしさはあるのですけどね。うん、日本文学を学んできた人間が今更三島由紀夫を絶賛するような。

手と足と頭

Fly
 手を動かして何かをクリエイト・開発・生産することは、これからの時代大きな武器になる。
 いや、武器になる以前に「作れないと駄目」な時代になると思う。
 同時に足を使ってさまざまな人と会う事が更に大事になってくる。
 ソーシャルメディアが発達すればするほど、実際に会うこと、その場所に行くことの重要性は高くなる。
 その上で「頭」。企画力、提案力。能率化や組織化。
 さまざまな発想が、手と足の効果を掛け算で増していく。
 今までは手が使えれば、足が使えれば、頭が使えれば・・・どれかひとつに徹底的に秀でた人であれば、十分に食べていくことができたし、むしろ一点に秀でることを求められていたと思う。
 でも、今、周りを見渡してみると、手が動き、フットワークが軽く、その上でヘッドワークに長けている人でないと、世の中は渡りにくい。
 ただ、求められるレベルは、(食品や医療など人命に関するものを除いて)旧来ほど高くはなくなってきている気がする。
 職人レベルまで求められないにしても、ある程度その三つがバランスよく使える、いわば「ビジネスと営業と開発・生産がとりあえず全部できる人」が望まれていると感じる。
 そう思った理由、その根拠は改めて後ほど。とても長くなりそうだ。
 でも、肌で感じる状態、信頼できる人からの話、白書などから調べた数値、どれを見ても、そう感じるに足るべき時代だと思っている。
 時代はゼネラリスティック・スペシャリストを要求している。
 その時代に対峙して、僕は何をするべきなのだろうか。
 よくわからなくなるので、とりあえずコーヒーでも飲もう。うむ。
 個人的には一芸に秀でたスペシャリストが好きなんだけれどね。とりあえず僕の個人的志向では全くスペシャリストになれる気配はどこにも無いけれど。
 薄暗い廊下で思索する虫のように、静かに考えてしまう夜です。

反復

Futurithm
Q. 村上さんはマラソンにある創造性とは何だとお考えでしょうか?(20代・男性)
A. 創造性はないよね。ただの反復だから(笑)。
でも音楽だって楽器の練習は反復じゃないですか。反復しなければ何もできない。
反復自体には創造性はないけれど、反復によって創造性の土壌ができるんだと思います。
村上 春樹
『Number Do 100人が語るRUN!』 ランナーの悩み相談より
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反復が大の苦手だった。
例えば漢字の書き取り。小学校一年生の段階から「一度書ける様になった文字をなんで何度も書かないかんねん。」と真剣に疑問に思っていて、まともに宿題を出したことが無い。
例えば計算ドリル。「計算手法がわかったんだから、もういいじゃないか。なんで繰り返し同じ事するのか意味がわからない」。
 当時は「忘却」ということも「定着」ということも、身体理解も訓練の意味も全くわかってなかった。
 対してうちのかみさんは徹底的に反復訓練を得意としており、ピアノは何百回もハノンをひきたおす。日々寸分狂いなく同じ生活を続ける。そういったことが当たり前に出来る人だった。
 反復=同じ生活、では無いのだが、この「日々、変化の無い生活」というのも非常に苦手だった。故に「祭り」という非日常が好きだったりもするわけだが。
 繰り返す、ということが大嫌いだったのだ。
 行きに通った道を帰りに通るのが嫌い。
 昨日やったことを今日やるのが嫌い。
 一度見た作品をもう一度見るのが嫌い。
 ワンモアセッ!といわれるのが嫌い。
 と、不遜な若者時代を送ってきました。
・・・が。
 年をとってくると、性格が穏やかになったのか、はたまたほんの少し根気が出てきたのか。平和な日々に憧れるようになったのか。様々な事に関して、繰り返して同じ事をするのが好きになってきました。
 人間の身体って、本当に面白いです。
 筋トレなどの反復訓練を続けていると、本当にみるみる動きが変わってきます。ダイエット効果はもちろん、神経の動きやはじめはとても面倒だったことがとても簡単にできるようになったりと。それはもう、はたで見ていてもわかるくらいに。
 そして、若いころに反復訓練が嫌いだったことを非常に後悔してみたりもします。やっときゃよかった。
(真剣に後悔したりはしないのだけど。過去全肯定主義なもので)
 反復する日々、大事にしています。
 同じ事をきちんとできるように。

夏休みが終わるよ

Slough
こんなに間が空いたのは何年ぶりだろう。1ヶ月以上ブログを書かなかったのは最長記録じゃないだろうか。自慢にもならないけど。
 6月から7月に掛けて、本当に多数の人に会った。お世話になった。よく遊んだし、よく学んだし、いろんなことを考えることが出来た。それは仕事の上でも、プライベートでも。
(そもそも仕事とプライベートの区分けが全く無いが、それはまた別記載に)
 10年以上前にお世話になった会社の上司、新しく知り合った仲間、以前の拠点のメンバー、家族ぐるみのお付き合いの方・・・このブログで改めて皆さんにありがとうを伝えると、ものすごく遺書のようになる。
 僕は人付き合いが比較的、苦でなく(ひきこもりの癖に)、誘われたらどこでもついていく性格なので、結果このような夏を過ごさせていただいてる。
 でも、正直言うと、僕は大人ってもっともっとストイックに、家族と会社の往復しかしないものだと思ってた。
 自分の両親がそう頑張ってくれていたから、というわけではないが、家族のために必死に奔走し、社会のためにがんばって経済を回す、それ以外に余裕が無いほどにギリギリまで自分を追い込むのが日本人としての「大人道」だと思ってました。
 そう、なんというか、「柔道」「空手道」のような「大人道」。
 大人はぎりぎりまで追い込んで養う、戦う、守る。
 そして、それが自分自身もまわりも「かっこいい」ことだと信じる。
 ずっと僕もそう思ってました。
 でも、そればかりじゃないのですよね。
 追い込まれない戦い方、養い方も、実はとても難しくて、とても面白くて、やりがいがある。
 いろんな人と会って話をして、楽しませてもらって、やっぱりそれが間違いではないのだと、改めて感じました。うん、僕の理想は「求道者」の対極にあるのだな、と改めて実感。
 その具体的な意味は追々。
 僕が必死に頑張ると、家族は精神的に追い込まれ、疲弊した。
 僕が昼行灯を決め込むと、家族も仕事も、みんな笑顔でうまくいった。
 (この事実、気づいたときは、結構カルチャーショックだったのよ。)
 なるべく、追い込まれない。でも時々集中的に追い込んでがんばる。
 楽しいことは、なるべく追求する。不義理はしない。自分を守って、次に家族を守って、次に仲間を守って、会社、県、国・・・。守れる範囲をちゃんと守る。
 でもこうやって心が追い込まれないように生きてると、財布が追い込まれてきました(遊び過ぎです)。うむ。こっちはどうしよう。とりあえず昼寝でもしよう。
・・・
 僕があまり好きではない言葉。
「もう、大人なんだから」
「大人としての節度をもって」
 ・・・
 僕は、僕の知っている大人より、もっと大人になれていたのかもしれない、と不遜ながらちょっとだけ思いました。ええ、ちょっとだけ。
 それは、精神年齢が低いままに留まっていられている、という意味で。
 留めさせて頂いている事を自覚して感謝する、という意味で。
 ストレスを自分に与えず、周りの方々へ感謝する余裕を持って生活している、という意味で。
 食い扶持を稼ぐ、という意味以外での「仕事」ができる隙間を作っている、という意味で。
 そしてそれが最も、社会にも国にも貢献し、経済的に周りを潤わせる一端を担えて居る、という意味で。
 とはいえ、まだまだ若造。脱皮したての蝉のようにツルツルです。
 これからもご指導ご鞭撻よろしくお願いします。
・・・どうしても間が空いた後のブログ更新はご挨拶みたいになってしまうなぁ。