Theatrer

Theater

その昔、アーネスト・ヘミングウェイという人が
「六つの単語で物語を作れるかどうか」
という賭けで見事に勝利しました。
ヘミングウェイはのちのち、この物語を自分の最高傑作だと言っていたそうです。

For sale: baby shoes, never worn
売ります:赤ちゃんの靴、未使用

–Tumblrより–
 僕の文章は長い、と言われる。
 もっと僕に言葉の才覚があれば、的確な言葉を用いることで端的な文章を書くことができるのかもしれない。だが僕には才覚がない。ただ伝えたいことだけは絶大にある。故に長くなる。許してくれい。
 ただ読みやすさは考えている。
 長いこと自体は、本質的に良いことではないと思ってる。
 短いことも良いとは思ってないのだけどね。適した長さがある、と思うだけのことで。
 ただ、言葉は凶器だ。思想も凶器となり得る。信念をもって、反論を受け入れて言い返す覚悟がある文章であれば、なおさら凶器としてのエッジが強くなる。
 だからこそ、僕は言葉足らずにならないように気をつける。短さとライトさを犠牲にしてでも、僕の言葉が誤解を生まないように。僕の言葉で意図しない人が傷つかないように。そのための長さは、僕は必要だと思っている。
 先ほどのとおり、才覚があれば端的に書けるのかもしれない。でもその力がない。でも書きたい。ならば徹底して語る。徹底して書く。徹底して続ける。
 なんて、かっこいいこと言ってみたけど、要はコミュニケーションが上手くないんだよね。わはは。
 言葉のキャッチボールの中で僕を伝える術が苦手だから、こういう術を使ってるだけのことでさ。
 加えて、最近はカメラを使ったり、映像を用いたりとして、伝える術を少しづつ増やしてきた。
 でも、まだまだ凶器とならない、思いやりをもったコンテンツを生み出したり、誤解を与えないように適切に伝える方法論は身につけられていない。言葉だってまだまだなのだけれど。
 
 適切に伝える技法、この部分をきちんと正していけば、きちんとコンテンツが受け入れてもらえる。個人対個人で伝えられる世の中にもなってきたと思う。
 自分自身のコンテンツを受け入れてくれる人がどれだけいるかはわからないけれど、世間の目線で鍛えてもらえば、自分のコンテンツ発信だけでも食べていくことはできる世界になってきたのですよね。ああ自分劇場。

Roots

Roots
 いろいろと話すことで、自分の思うことや他者の思うことが交叉し、織り成し事を組み上げていく。
 本意を汲み取るのに時間が掛かってしまう自分がとてももどかしい。
 話の本意(らしきもの)に気がついたのは、夜も12時を超えた頃。
 するすると組みあがっていく、簡潔な完成図。僕はなんでこれがすぐにわからないのだろう。
 とにかく、感謝。
 器用な猫が、細い路地をすり抜ける途中、ふと見上げれば缶コーヒー。
 Rootsは源流。根。本道。

映画ログを取り続けて。

今年の6月頃から映画の閲覧記録をつけ始めました。
今日、ふとその記録を数えたら100本になっていた。
 本来、○本みる、と言う見方は好きではありません。
 数は何の意味もなさず、またそういった目標で作品に向き合うことは失礼極まりないものだと思っています。好きなら、どれだけでも見ていくものです。また、誰からも強要されるものでもないのですから、イヤなら見なければいいんです。数でノルマを作らなくてもね。
 ただ、ちゃんと映画を見よう、と思ったら、見るためには見るための姿勢や筋肉といったものが必要で、「毎日見る」「浴びるように見る」といった「量」をこなして身体を慣らせておかないと、心が追いつかなくなると私は考えています。
 更に言うと、社会人が映画を見ようと思ったら、その時間を確保したり、環境を確保したり、そういうことを家族含めて慣れ親しませておかないと、映画を見たいと思っても見る余裕が取れない事も起きるのです。むしろこっち側の方が重要かな。
 何だってそうです。100と言う数値はただ切が良いから使ってるだけですが、「本を100冊読む」「音楽を100曲聴く」ことができない人に作家やミュージシャンが務まるわけがない。それこそ呼吸のように行っているはずです。
 作る側、仕事を得る側ならなおさら。「デザインを100案作る」「事業計画を100案作る」「ショートムービーを100本作る」「営業先を100社回る」といった事ができない場合、それはその人のやるべきことではないと思います。数をこなせないことは最低限の力もつきません。それができて初めて入り口に立つもの、であり、それをこなした人たち同士でないと現場の会話に参加してはならない(常識のレベルが違うから)とさえ感じています。
 映像制作を飯種の一つとしている割に、僕は映画を見ているとは口が裂けてもいえません。
 それは、10代の頃は数を見ていましたが、やはりこの業界の人と比較すると、まだまだ基礎知識力、感動力、大事な一本に出会えてないと感じます。
 ただ、映画そのものはやはり大好きだし、この年になって自分の武器が何なのかを考えたときに、「映像」はどうしても手放すことのできないスキルになっているのです。
 その意味もあり、毎日時間を作り、映画を見る。ただひたすら感動する。泣いたり笑ったりする。落ち着いたらメモを取る。場合によっては絵コンテに落とす。脚本をなぞる。DVDからデータを出してPremiereにかけ、フレーム単位でカメラワークを研究する。色調を変えて映像の変わり方を見てみる。そういったことを繰り返してます。それが100本、ようやく環境ができてきたかな、と言う状況です。
 100本見た、といって何が変わるわけでもない。というより、100本見たところで初めてスタートラインです。筋トレが終わり、今後映画を見続けることができる処だと思います。見るための姿勢、筋肉がついたところから、初めて「映画を見る」ということができると思ってます。
 もちろん、映画はエンターテイメントですから全員がこんな見方をする必要はないと思ってますよ。あくまで、楽しんで、好きなときに、好きに見るのが一番です。
 これを飯につなげたい、と思った人の楽しい楽しい修羅の道ですね…。

ここからの景色

倒れないよ
 若い頃にやっていたこと、満足していること、結果を出していたこと、から生み出される自信は凄まじい根っことなるもので。
「今死んでも、あの時、存分に満足できたからまあいいや。」と云う達観であったり、「生きるだけ生きた。さあ殺せ」と云う良い意味での諦念であったり、「修羅場を見て、くぐって実績にしたから大丈夫だ」という根幹意識であったり。こういったものを包括して、自分のあり方や戦略思想が生まれてくるのだと感じる。
 マキャベリなのか米長邦雄なのか、あるいは三島由紀夫かチェスターフィールド卿か。どれだっていいのです。どれにしても、自分の思想に肉体を与え、現実行動を伴わせるものは、過去の自己実績とそこから醸造される、全身に浸透した自信なのだ。食べて飲んで寝て、プリミティブに生き延びる事。そこから積み上げてきた思考や手法は何も変わらない。

最近の嗜好

 最近は何かと、経営・人事・税金・会計に目が行くようになってしまった。わぁお、こういう世界苦手だったのに。いや、今でも苦手か。
 労務に関する本や税金、会計に関する本をぱらぱらと読み漁る。
 結局は、人と人が喧嘩しないように昔から積み上げてきた英知の集合体なわけで、その意味では天才的な将棋の棋譜や数学の定理に比べたらそんなに難しいはずは無い。(僕わかって無いけど)
 今の気持ち
 ・サラリーマン(雇用者)の法的守られ方は尋常じゃない。
 ・税金の持っていき方の抜けの無さも半端無い。
 ・でも税金って払えば払うほど優遇されるようにはなってるんだな。
 ・優遇されるレベルは税金数十億レベルからだけど。
 ・雇用される、起業する、と云う事を真剣に考えるためには労務と税金と会計知らんと夢物語だな。
 ・何でこんなこと学校で教えてくれなかったんだろう?え、みんな知ってるって?
 ・とりあえず疲れたのでメトロイドでもやろう。
 結論
 ・社長は信念でこそ務まる、と言うのは真実なんだな。
  じゃないとこんなめんどくさい事引き受けられへんわ。
  (もちろんそれに伴うリターンがあることが前提で)
 なんて事を考えてました。
 いやいやいや、僕が起業するとかそういうわけじゃなくってね。
 一家の長たるべくには、結局このあたりを網羅しておかないといけないと思ってるのです。
 お茶の入れ方や靴下のありかはわからないくらいずぼらでいい加減な僕だけど、逆にかみさんにこの辺のことで心配を掛けちゃいけないと思ってます。家庭内の実務は任せるからビジョンと方向性は僕が作る。
家庭っても結局ミニマムな組織のひとつなんだよね。

チームを組むということ

IMG_0038.JPG
 昔から、チームで何かをするのが好きだった。
 たとえば、バンド。4~5人でひとつの和を作って表現をするというそのスタイルが僕は大好きで、特にアドリブ満載のインプロビゼーション合戦なんて、未だにあこがれる演奏スタイルのひとつです。できないけど。
 たとえば、演劇。僕は役者ではないけれども、何人かのメンバーが集まってひとつの表現を作り上げるその葛藤、ドラマ。演劇そのものも大事だけれど、そこに至るドキュメンタリーがまた僕の大好物なのです。(舞台上にその葛藤そのものを見せる演劇は大嫌いですが。人に表現する際には技術を軸に演じればいいのです。)
 一人で何かをするというのがほとほと苦手で、また精神的にもよろしくないのです。
 
 とはいえ、フリーランス的な風体を僕はもっているらしく、(これでも会社員に落ち着いて5年目です)「いい加減フリーランスになったら」「フリーの方が食べれるでしょ」「貴方に正社員的安定は似合わない。」「はげてますね」などなど、皆さんからありがたい意見もたくさん頂きます。どうも皆さんに見えてる僕はフリーランス以上に社会人が似合わない人間のようですねすみません旅に出ていいですか。
 一人でできることについては、もう2000年前後にある程度見極めてしまったというのも正直な気持ちなのです。
 組織でなければできないこと、チームでなければできないこと。僕は組織の中で上がっていくというパワーシフトはあまり得意ではないのですが(そもそも自らの指標となる人で組織内でキャリアアップした人が誰一人居ない。父親含め。)、自ら何かのチームを作って流れを生み出していく事で影響力を積み上げていくスタンスを常に持ち続けたいと思っているのです。
 そんなことを考えながら半民半官、じゃなかった半社会人半禁治産者な生活を送っていると、少しづつ世の中が変わっていくのを感じます。
 最近は会社を作る、以外に、フリーランス同士のチームを組んだり、何かしらの動きを仲間で行ったりと、一昔前の言い方で言うと「緩いつながり」での交流、仕事の授受、クリエイティブ作業が生まれ始めていると感じます。
 昔からこういったフリーランス集合体のような形は多かったのでしょうが、最近の労務、業界の流れ、なんかを見ていると、今はより個人集合体で力をつけて、ある程度大きな仕事を取る段階になって会社組織にするほうが効率がいいように感じます。昔以上に。
 正直に感じてることを言うと、戦後からの日本の中で、今が一番個人で活躍しやすい、フリーにはなりやすい環境だと思います。そして、起業するには非常に困難な環境とも思います。同時に、正社員で生きていく道を選んだ人も、起業するくらいの覚悟がないと、会社ごと、あるいは組織内で淘汰されると思います。
 そんな風潮ですから、僕自身も、すこしづつチームで作業をすることが多くなってきました。僕としても願ったりかなったりなんですけどね。
 横浜での、大好きな映像仲間たちとのクリエイティブ定例会を筆頭に、渋谷でのクリエイティブチーム、麻布十番のMJ会、いろんなところに参加させていただきながら、自分の作品を見てもらう場、勉強する場、そして何より活躍できる場を流れの中で見つけることができつつあります。そうそう、これです。自分で「活躍したい」と一人で思ってても何にもできないけど、いろんな人たちと一緒に居ると、自然とやる事が増えていくんですよね。そしてその「やる事」をこなし、信頼に裏切らなければ、自然と大きな活躍になっていくわけで。
 その意味では、今僕が勤めている会社自身も、僕の参加するチームのひとつに他ならないし、8年以上の付き合いになる千葉の映像チームだって、今は完全に流れ作業の一環に僕が組み込まれてますが、その意味では完成されたチームなのです。
 チームを作ること、チームで楽しむこと、がんばること。大学時代から、ずっと僕の理想のビジネススタイルは変わらない。僕がやりたかったビジネススタイルに、結局は一歩一歩近づいているのだと思います。