20231101

先に言っておく。来週の月曜、僕は誕生日だ。
大丈夫だOK,Yes。誕生日プレゼントは前後半年間受け付けている。

50歳になる。
半世紀を生きた。

二十歳の時は三十まで生きていたくないと思い、
三十になると太宰治や坂口安吾を超えて堕落していてはいけないと思い、
四十を超えると「まあいいか」と思うようになり
五十になって「生きてるってハッピー!」となった。まだ五十じゃないけど。


ここ10年間。
特に40代は苛烈だった。そして豊潤だった。

一般には10代20代が幸せな時期とは言うが、青春時代とは比較にならないほど、人生を謳歌させてもらった。
あ、でも今思い出すと10代20代も幸せだったけどね。それでも40代は百花繚乱、華燭の人生でした。

人から求められ、自分の力で成果を出せるよう創意工夫し、自らの責任で行動することの素晴らしさを知った。発言の重たさも知った。慕ってくださる方も数多く、千人単位で増えた。いや本当に。

曳山も曳いた。会社も作った。やりたいことだけをしてなお、人の役に立つこともできた実感がある。自分の言いたいことを言っても「まあたすく先生だからな」と受け入れて?くれる世界も手に入れた。収入は40代だけでそれまでの10倍を超えた。生涯年収も狂ったことになった。それは稼いだというより30代までの収入があまりにも雀の略。

正直、自分の人生にはもう満足した。

強いて言えば、その分を若い方々のために尽くしたいところだが…僕のやってきたことなんて若い人たちの役に立つことはあまり無いとも思ってる。もちろん学びにきてくれればいくらでも無償で伝えるけどさ。ただ「どれわしが教えてやろう」という老害にはなりたくない。自分の存在や知見なんて塵芥のように消えいくのが本道だ。

ただ同時に、50代はどうなるか。

もちろん、40代と同じようにこのまま幸せに過ごしていきたいというのは本音だ。

これから僕は、嫌でも人生が「下り坂」に入る。
40代から下り坂という人もいるが、たまたま僕は40代でドッキリにあったようにロケットアップをさせてもらった。
その分、下り坂も急勾配になる可能性を持っている。

僕は「執着」を減らさなければいけない、と考えている。

これから僕は、さまざまなものを失っていく。必ずだ。

自分の健康、家族の健康、年収、守ってくれていた先輩方、求められる仕事、愛すべき人々、自分が持っていた地位(そんなに無いけど)…

極論、僕が愛して、かつ未来永劫続くと信じている「祭事」さえも、いつ何が起きるかわからない。僕が命尽きる時、僕の身の回りには何も残っていない、愛した人たちは誰も居ない。大切な青山の学校もない、誰も僕の葬式に来ない可能性だって残っている。

そこに対して「嫌だー!もっとこのままでいたいんだー!」なんて言っても詮ないことで。さらに言うとみっともないことで。かっこよく無いことで。

もちろん「人生の目標」としてさらに高みを目指すのも悪くは無いと思ってる。

でもそれ以上に「失っていくものに対して鷹揚に構え、自然に気持ちよく手放していく」器量を大事にして生きていきたい。

これから僕は、どう足掻いても人生の後半戦。
人生の先輩方を守りながら、同窓の徒と慈しみあいながら、そして軽やかに若い方々を応援しながら、笑って失っていこう。

生きていこう。
失いながら生きていく。
それでも笑って生きていく。

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