努力と愛嬌と体罰とマネジメント論と

Slough
努力と才能無しには手に入れられないと世間で共通認識されているものを、努力と才能無しに手に入れたい。しかも僕だけという限定付きで。
と相変わらず怠惰で且つ承認欲求だけ高いだけの駄目な人間性を丸出しで生きてますこんばんは。
だけど、ふと考えてみた。例えば筋力・運動神経。知識・交渉力。努力と才能が無いと手に入れられないと認識されてるものは数あれど、本当に、それらは努力と才能で身につくものなのだろうか。ひょっとするとそれらは、環境と運によって身につく影響が大きいのじゃ無かろうか。
もしそうだとしたら、努力、特に、頑張る、ということにはどんな意味があるんだろうね。
頑張っている人、は傲慢になりやすいのであんまり評価したくない。丁寧で謙虚な人は、可愛いので評価したい。と思う。誠実な一生懸命さ、ってのは可愛いものだけれどね。
人を評価する、なんて傲慢な!って意見もあったけど、人は常に人を評価しながら生きている。それも非定点的に、軸をぶらしながら、昨日と今日で同じ行為に違う評価をしながら。等しく、自分も評価される目に晒されている。その目だってブレている。
まあそれはそれとして、「可愛げの有る人」「愛嬌の有る人」は周りが応援してくれる。それも環境。そんな環境を作り出すために「素直で謙虚な努力をする」事は、間違って無いんじゃないかな。それが僕の思う「頑張る」姿勢の正しい姿だと思う。
と言いつつも、僕は運命論者じゃないし、今の環境を謙虚に生きる方が楽なので、努力して生きてる風体をして、頑張って生きてる事にしておく。
Temple Lion
【体罰型組織について】
最近、体罰についていろいろ語られています。
僕はお陰様?で体罰的な環境におかれたことはほんの3ヶ月くらいしか無いのだけれど、これについてちょっと思う事を。
まず、体罰をする側、受ける側、両方の思考として。
両方に「嫌な思いもしたけれど、目標を達成したから良いじゃないか。」という一体感、そしてこの発想がもしあるとすると、これ、両者ともに体罰肯定につながりやすいと感じます。共犯的な関係性の中で。で、これはこれで両者に陶酔した甘い快感も有るんですよ、実際には。だからって、肯定するわけじゃないんですが。ここが根深いところだと思います。
でも、まあ、この甘い陶酔の話をし始めると、共依存やマゾヒズムといった精神医学の話を紐解かなければならなくなるので、一旦脇へ置いておいて。今は「体罰をされる」=「嫌な思いを受ける」というシンプルなカテゴライズの中でのお話として進めていきます。
そして改めて、テーマ「嫌な思いもしたけれど、目標を達成したから良いじゃないか。」
この考え方が、何を包括しているのか、掘ってみたいと思います。
例えば、この4項目を幸せだと思える順に並べるとすると・・・。
1・嫌な思いせずに目標達成した。
2・嫌な思いしたけど目標達成した。
3・嫌な思いせずに目標未達成。
4・嫌な思いして目標未達成。
多分1番目と4番目は誰でも同じでしょう。問題は、2番目と3番目。どちらを優先的に並べるか、またはその距離感はどうなのか、で、その人の思考方法がわかります。もちろん、「嫌な思い」が定数化されて無い限り、どれくらいの嫌な思いなのかで結果が変わってくることも百も承知ですが。
再度テーマ「嫌な思いもしたけれど、目標を達成したから良いじゃないか」。
もう少しシンプルにすると「嫌な思いをしなければ目標が達成しない」と判明したときに、どう対処する事が大事なのか、を考える事がポイントですね。と言いたいところなのだけど・・・、本当に「嫌な思いをしないと目標が達成しない」なんて事があるのだろうか。「嫌な思い」と「目標達成」が二軸として成り立つ事があるんだろうか。
・・・これが二軸として成り立たないと仮定して帰納的に考えると、「目標を達成する為に『嫌な思い』をする必然性はない」となるわな。
「嫌な思い」をしなければ「目標達成」しない状況ってどんなんだろう。逆に言うと「嫌な思い」をしたからこそ「目標達成」した、という因果関係が成り立つパターンってあるのかな。・・・これを疑いだすと「若い頃の苦労は買ってでもしろ」を否定する可能性があるな。僕個人としては「苦労」=「嫌な事」だとそんなに思ってないのだけど。
例を簡単にする為に、ここで事例を高校部活動から大人の職場に切り替えます。
例えば「時間」という有限なコストを取り合わないと目標達成しない場合。目標達成のためにはマンパワー×時間数が必要であり、残業をしなければならない(=残業したら達成する事が保障されている)という状態。
お、結構わかりやすい「嫌な思いしたけど目標達成した。」パターンかと。
でもここで大事な事は二つ。これは会社組織での一例だけど、この場合は「残業代」という対価が払われることによって、「嫌な事」が極力緩和されて目標を達成しやすいように国も法も整備してくれている(残業代が無いというのは論外です)。そのため、「嫌な事」のボリュームが「残業代」にて相殺される部分がある、ということ。もう一つが、「残業したら目標が確実に達成する」という残業と目標の因果関係がはっきりしている事。これがないと「4・嫌な思いして、目標未達成」に転落するリスクがある。そして怖いのが、馬券を買い続ける人のように、「もう少し頑張れば達成するだろう」「もう少し頑張れば達成するだろう」の繰り返しで無為な作業を続ける事。何をどう作業すれば達成するのか、明確に道を見せないといけない。
これが部活動であれば、この大事な2点、両方とも担保されないという恐ろしさがある。「体罰」を受けることに対する対価が全く無い。体罰を受けてやる気が出て上達すればそれは対価かもしれない。これは後に語るが、別に体罰という「嫌な思い」でなければ上達しなかったものではない。その意味で、体罰はただ非効果的に受けるのみ。そしてどれだけ体罰を受けて恐怖政治で頑張っても、「勝利」出来るとは限らない。
それでも、体罰がなくならない要因の一つとして、「体罰型組織は軍隊が手本だから」という意見をよく聞く。なるほど、軍隊は規律を重んじ、強制力もあり、どんなパーソナリティをもっている人間も、兵隊として役に立つようにしなければいけない。そのためには、ある種の強権も必要なんだ・・・。そのロジックは、一見もっともにみえる。
でも、そこには大事なコアが入っていない。「で、その軍隊は強かったの?」ということだ。上記に書いたイメージは大概の人が旧日本軍を想像するだろう。でも、その日本軍は強かったのだろうか。・・・実際には日露、日清と大活躍を繰り広げたは良く知っている。だが、その時代はとうの昔であり、今現在、最も強いとされている軍隊は、恐怖政治でも盲目的でもなく、マネジメントが行き届いてモチベーション管理も権限管理もしっかりしてるはず by フリードマン。ふた昔前の、古い軍隊を手本にしてどうするつもりなのだろう。そこがポイントだ。

感情的な体罰是非論じゃなく、「このようなマネジメント手法の方が強くなりますよ。結果でますよ。目標達成しますよ。体罰による指導なんて今じゃ結果出ませんよ。」と、実績に基づいた手法が周知される事が、一番手っ取り早い解決なんじゃなかろうか。
いや、むしろ、そういった形で解決しないと、体罰という問題は解決しないと思う。それは、体罰に因った手法が「目標達成」「勝利」といった実績を出す限り、賛同者がでるからです。それは、何をしてでも結果を出したい、先ほどの「嫌な思いをしてでも目標達成したい」と思う人たちが居る限り、一つの成功実績の有る方法論として受け継がれる。
そして厄介な事に「目標達成した人は偉い」のであり「その方法論は正当化され、人格も認められ、皆から承認されるのである。」という環境がある。全然関係ないのに。
それゆえに、体罰型マネジメントは、今も擁護者が多く存在するのではなかろうか、と思う。
そもそも論なんだけど、この「目標達成する人は偉い人、できる人」として判断する論は、体罰抜きにしても欺瞞が山ほどあると思ってます。が、後ほど改めて。書き始めると切が無いから。
話逸れた。体罰のお話にフォーカスを合わせて。
また、同時に「嫌な思い」と「目標達成」に因果関係は無い、という事も実証(することができれば)併せて周知する事で更に効果的になると思う。そのためには「嫌な思い」を定数化しなければいけないけれどね。
結論。体罰をはじめとして、嫌な思いを我慢しても目標達成とはあまり関係がなさそうだ(ちょっとまだデータそのものが足りてないけど、強引に話を進める)。
だから、好きなことを好きなだけやればいいのだ。嫌になったらやめればいいのだ。それでも人間生きてけるし、社会もテクノロジーも環境もそういった「一昔前だと、わがままと断定される生き方」を容認・肯定する方向に流れてる。世界のフラット化、フリーランスの活躍手法、ミニマムな会社経営、そしてどれを選んでも、2~3回失敗しても全然立ち直れる社会。また、情報を集めるにも発信するにも、コストが掛からない世界。その中では、「この世界で我慢しなければならない」事なんて、あまり無いと思う。もちろん、好きな事を好きなだけやる、の意図の中には、細かく我慢・努力するような事もあるだろうけどね。でもそれは人から殴られたり、恐怖を植えつけられたり、盲信を強要されたりするものじゃない。自立した、個人としての、孤独な道なのだ。
・・・比するに、体罰をしてくれる教師とそれを愛と感じる生徒、といういびつな共依存という精神病的関係は、孤独な道よりは、ぬるくて楽な道、でもあるのでしょうね。(一方的な体罰は論外だが)
これはこれで、先人達の考えた「理想郷」には近づいているんだな。

私信からはじまった

Fly
【目標&ほしいもの2013】に対する返信として。
いや、大いに関係してるよ。
もともとこのブログ、もとい、このサイトは貴方との電脳私信として始まったもの。なんとなく「ネットで面白い事できるんじゃなかろうか」と思って色々遊んでいた矢先、それこそ99年の秋口に、君が面白そうなサイトを始めたのがきっかけだ。「僕もやりたい。電脳空間で文章書いて、なんか今までのやり取りと違うコミュニケーションを取ってみたい」と思って、隣に居たQAZQAYに「ホームページの作り方教えて」と言って作り始めたのが全ての発端だ。
でも、僕もそんなに時間があって書いてるわけじゃない。逆に、この年になって、「自分がやってきた事、ケイゾクしてきた事は何だろう」と考えたときに、僕は書くことしかやってこなかったと思い知ったわけで。書かないといけない、物書きになるならないと関係なく、書き続ける事を続けていかないと全てが駄目になるような焦燥感を感じてきたのです。
あいにく、か、相変わらず、か、僕には特定生物の監視業務は無いわけで、その分は自分自身に対して大いに時間を割く事ができる。それが大局的に見て、良い事なのか、将来に繋がる事なのか、そこはよくわからないけれど。でも僕の今生きてる中ではまだ授かってないものがあるので、その分君の代わりに2TBほど駄文を書き連ねて生きていきたいと思う。
とりあえずロシア語のFacebookアカウントは承認しておきました。
そんな僕も返礼として、【目標&ほしいもの2013】。
目標は立てない、と先日のブログで言い放ったばかりなのに。
◆目標2013
・HSK 6級
・62kg≧体重
・けんかやま今年も曳く
・来年の試験に向けての準備
・3本
・片足出しての3人立
・でももう一方の足でもステップアップ
・平穏無事な生活
・アレ
◆ほしいもの2013
・ブルワーカー
・ウィッグ
・TrapcodeParticularと使える腕
・Electribe
・XD-B7300
・自転車
・AKAI MCP1000
・アレ
こうやってみると、そろそろ同世代の皆さんは子供も持ち家も手に入れて、これからの初老を動迎えようかと考えている方々が多そうに見えるのに、僕はなんで一人だけお子様なオモチャを手に入れようとしているのか。ちょっとお小遣い貯めれば買えるものばかりじゃないか。でもいいのだ。こういうスケール感で生きてるのもまた事実。車さえも欲しいと思わない。
そんな今年を生きていこうと思います。早くも今年は1月終わり。後11/12です。落ち着いていきましょう。

メタボリズムの未来肉体展: 中年山本・今甦る痩身の夢とビジョン

そして夕食。メタボ改善中とはいえ、この量は寂しい。運動しよう。
何をどれだけ言い訳しようとも、年を重ねて身体はみにくくなっている。
腹囲90cmって何だ。体重70kgって何だ。
筋肉が大事とかえらそうな事書いていながら、体脂肪率27%って何だ。
そんな訳で、ダイエットします。目標は「カッコいい中年」としての偶像・ミックジャガー様。
まずは体重65kg台、腹囲80cm、体脂肪率20%くらいか(全然細かく計算して無いけど)。
若い頃にサボってきたつけがここにきてドドンと乗っかってきてます。脳みそも身体も。

ブログを書く理由

五階から。
そもそも僕はあまりしゃべるのが得意じゃない癖に強固過ぎるほど強固で鬱陶しい自我が年甲斐も無く存在している。これはもう自分でも「自我を捨てて、成長しなきゃいけないな」なんて大人びた観想を持つレベルではなく、「死ぬまでこの状態と仲良く付き合わないといけないな」と諦念を感じているレベルであり、それゆえに僕はこのブログを続けているのである。ひたすら書いて出して、「人目にちょっとだけつくチラシの裏」であるこの場に自我すなわちエゴを出し続けていないと死んでしまうのである。糞詰まり的なヤツだ。
あまり記する事でも無いので伝えては来なかったが、社会人になってからこれまでにも数回「ブログを辞めろ」とか「こんな事ブログに書くな」とか、それなりに地位のある方、権威のある方からご指摘を頂いた事があります。あります、というか多々あります。
それでも、僕は書き続ける。と言うと美談になりそうですが、そういうわけじゃない。筆が止まらないんですよ。もう病気の状態。誰かに止めろと言われても、はいそうですかと辞められないのです。もし上司から「明日からお前ウンコしちゃ駄目」と言われても言う事聞けないじゃないですか。そういうことです。
で、延々と13年間書き続けているのですが、この事について2点。
一つは、もうとても一般的に認知されている事とは思いますが、改めて。
ブログなんて小さい記事(それこそチラシの裏)ではありますが、個人が表現して誰かに伝える環境を整えられていると言う事の重大な意味をしみじみと考えるのです。
ブログに限らず、TwitterでもFacebookでもいいのですが、誰かの目に留まりやすい環境に個人が意見を発する、その事の重要性と効果、その逆の危機感はもっと感じてもいいんじゃ無いかと思うのですよ。
マクドナルド「ツイッター・LINE・2ちゃんねる禁止」全国店舗通達
「進むべきか、止めるべきか?」 続・ソーシャルメディアの普及に伴い情報管理問題が表面化
組織はどんなに個人の口を塞ごうとも、それはもう無理な話。ぎりぎり「不利益を与える発言は禁じる」という曖昧な規程で留め、あとは組織という集団の暗黙のルールで「変なことやるなよ。その『変なこと』てのは雰囲気で決めるからな」という場の空気を読ませる組織作りくらいしか手は打てない。
とはいえ、個人の立場はなかなかにして弱く、結果としてtwitterやblogでの発言は「空気を読んだ」モノに偏るのも事実。個人の意見を尊重した政治的発言、宗教的発言、社会運動的発言はなかなかしにくく、結果として「ご飯の写真ブログ」「猫の写真ブログ」「綺麗な写真ブログ」が並ぶ状態になるのですよ。
その状態に、僕はとっても違和感を覚えるのです。
あなた、会社員の前に個人だろ!紐づいた思想があんだろ!こっそり友達に相談してる事とかあんだろ!ブログに出せよ!俺に見せろよ!とスクールウォーズ張りに体罰一歩手前まで追い詰めたくなるのです。ただの嫌な人です。
もちろん僕もそこまで社会的な発言をしているとは思ってませんが、(例えば労務的な問題とか、賃金体制の問題とか、税法上の問題とか)書きたい事があれば、いつでも書ける準備はしてあります。もちろん、後は覚悟の問題ですが。
個人の心情、立脚点に立った意見、発言。そしてそれを議論するコメントの場。(公表された場所で)
それがブログの大事な機能なのでは無いでしょうか。
これを追求すると、あきらかに企業は情報漏えいに対するガードに頭を悩ませなければなりませんし、またアジテーションの得意な方がブログを書くと部署が一斉にそちらの意見に刷り込まれ、組織上の上位下達の仕組みとは別に暗黙の集合意思が生まれ始め、全社としてのピラミッド型のコントロールも相当難しくなっていくものだと思います。いや、これから先、もっと難しくなるものと信じてます。現場は、経営の隅々まで知っていまう。それに意見も表現できてしまう。そこで議論する事も可能。これを会社の健全な成長とみるか、既得システムの崩壊と見るか。
でも、それも味方につけてマネジメントしなければいけない世の中なんですよね。良くも悪くも。少なくとも、ロジカルにものを考えて文章化する事ができ、更にウィットに溢れて感動させる文章を20~30分で書いて公開できるようなスキルを持つ人がマネジメント側に居ないと、このあたりは対応が難しくなると思います。
そしてそれは「受け入れる」「いや禁止する」という議論じゃなく、こういう世界に生きてるんだなぁ。ということ事態を受け入れるしかない、のだと思います。40代以上はまだアナログだから新聞とニュース文化で大丈夫なんだ、ではなく、それらの情報ももちろん手に入れた上でこういったメディアを使いこなす、という意味でね。ここも年齢格差がなくなってきました。色々と楽しみです。

新宿アイランドタワー。レディースクリニックを訪問。僕は付き添いですが。男子禁制の婦人科のため、僕は一階でカフェタイム。
そして二点目。こちらはちょっと話が変わりますが、今度は個人として書き難さを克服する話。ちょっと壁が高いぞ。
僕は知人友人大学の仲間高校の友達会社の同僚お客様上司元上司前社の社長取締役副社長から祖父母・父母までが閲覧する場所としてこのブログを設置しています。そしてアナリティクス(分析)を見てみたら、明らかに全く無接点の方々が沢山いらっしゃってます。例えば父母と、大学の友人、そして社長が目の前で4人聞いている。彼らに対してキチンと話せて、ウィットを聞かせて、愛されて、それでもコアの自分の意見は曲げないで、という文章を書くの・・・大変なの。
そう、2点目の結論は「大変なの」に集約されるんだけど、「万人、誰が見ても過不足無くバランスよく書く」というのはとても難しいのですよ。でも見られているのだからしょうがない。しかも毎日書いて無いと便秘になる。ブログを書くのは大変な肉体労働です。
もともと、書くこと自体が好きで、それを表現すること自身に抵抗が無かったのは良かったと思ってます。でも、誰かに見られている場所で、自分の本当に言いたい事を延々とアジテートする、というのは結構覚悟が居るものです。そりゃたまには「鍋美味い」とか「綺麗な夜景」とかオサレブログみたいな事もするけどさ。でもこのブログに期待されているものはそんなものじゃないと思ってます。僕の延々と自我を垂れ流した血の文章を期待されているんだと勝手に思っているので勝手に血を吐きながら書き続ける事にします。
あ。本来ならここでコメントの炎上とかに対する意見も持たなければいけないのかも知れませんが、僕ソッチはあまり気にして無いんですね。これまでの経験上、1ヶ月もすれば消えていくものだし。
結論。これからも好き放題言うからな!
そんなX-10 RoyalScamも、今日で13年と1ヶ月目。これからもよろしくお願いします。

これからの3年間

今晩は味噌とんこつ鍋。豚肉三昧です。
自由に遊んだ10代。武器も無く社会に出た20代、でも様々手に入れた時代。そしてその武器を使って生きてきた30代。今振り返ると、ちょっと手元が枯渇してきた。だから再度武器を手に入れてメンテナンスしないといけない。それがこれから3年間。
そう、今は再度自分の身の回りを固める3年間とするのです。前に言ったとおりにね。
Links to 今年の抱負
如何にこれまで徒手空拳で戦ってきたか、改めて感じるんですよ。大企業の方にお会いしたり、フリーランスの方にお会いしたり、経営者の方にお会いしたりと、本当に様々な人に会える有難い空間に居るのですが、その方々に比べて僕はなんと、何も持たず何の覚悟も無く仕事をしている事か。このままじゃあかんのです。あかへんのです。
といっても、一朝一夕に身につくものなど悪銭にもなりはしません。もちろん今持ってる武器を更に磨くと云うのも素敵な選択肢です。映像作ったりWeb屋やったりサラリーマンやったりしてるわけですから。でも、それはそれ。その力はもちろん磨いていこうと思うのだけど。
やっぱりそれ以外の世界にも能力を広げていかねば。
あまりにもクリエイティブ・制作系にスキルが偏ってしまったなぁ、と感じています。デザイナーを目指していたわけでも無いのに。なんでこんな事になったんだろう。へらへら生きてきたからか。そうか。その通りだ。
今日は撮影日。久々にいい汗をかきました。
こんな道具たちと一緒に暮らしてきた30代。うん、それはそれで幸せだった。でも、もっと、幅広い価値観に対応できる能力を身につけねば。
じゃ、それは何?ときかれるのが常ですが、それは今のところ、秘させて下さい。
とりあえずは語学。中国語ですね。それは絶対です。その他に、「今役に立たなくても、僕の血肉になる力」を身につけていきます。これからゆっくり、ブログでも紹介していきたいですね。
僕は、逃げませんよ。鍋食ってガツガツして、これからも肉食系です。ちょっと内に埋没していく傾向はあるけれど。

Keep yourself alive


今日のパーティで一番ショックだった事。同世代同僚から「劣化したなぁ」としみじみ言われた。そう、僕は劣化したオッサンなのだ。改めて自覚。取る道は二つ。抵抗するか、自然に流されるか。キープユアセルフアライブ
と、なんとなく自分で書き込んだ言葉だけど「Keep yourself alive」ってかなり真を突いた言葉だと思う。生きろ。生きた状態を保て。生きていればいい。とりあえず生きることだ。後の事は、本当にどうとでもなる。
劣化した自分を否定して死ぬような若さは、もう僕には無い。醜くても、生き延びる。だけど、醜いよりはカッコいいほうが、いい。後は比較の問題だ。Keep me satisfy!

中国語学習

勉強中。いい感じ。
なんで今になって、この年で語学なんてやらにゃならんのだ。
うん、誰もやれとはいってない。強制どころか推挙もされてない。
ただ単に、僕がご縁を感じてやっているだけなのです。
そう、昨年の6月に、中国語の部署に配属されてからと言うもの、僕の日常に中国語の学習時間が入り込んできたのです。
「たすくさん元々中国の人でしょ」
「母国語でしょ」
「最初からしゃべれそう」
何を言うとるか。君ら僕が大学時代にフランス語学んでたとき、一斉に「似合わない」言うてた癖に。そんなに僕は中国語顔してるのか。
そう、大学では第二外国語はフランス語、専攻は英文学。ラテン語族の言語以外、学んだ事は全くありません。
そして大学時代も真面目に勉強したとはお世辞にも言えないクチ。語学なんて最も逃げたくて仕方なかったスキルです(敢えて学問とは言わない。あくまで僕のやってる方向性、習得レベルはスキルに類されるものです。)
そんな僕は、むしろ生まれて初めての勢いで語学に取り組んでいます。
でも、本当に語学は難しい。
どこからかじればいいのかが皆目見当付かないのです。読めばいいのか、聞けばいいのか、しゃべればいいのか、書けばいいのか。
もちろん、僕が今居る場所は中国語学習に適した環境なので、そこで相談すればいいのですが、とはいえ語学はその人その人で身体能力も違えば、もっている耳もコミュニケーションパフォーマンスも違うわけです。もっと言えば、その人の持つ日本語能力に外国語スキルは大きく左右されるため、日本語が不自由な僕はとても勉強しにくいという状況なのです。
それにしても、この「語学への取り組み方」、語学の勘の良い人はすぐ解るみたいなんですよね。大学時代にもあっという間に上達してる人が数名居ました。でも、彼らの勉強方法を思い出しても、共通点が無いんですよ。沢山書いてる人も居たし、ひたすらしゃべってる人も居た。更にはまったく勉強してる風が無いのに、気がつけばフランス語が話せてる人も居た。強いて言えば、彼らは「耳」が良かった気がします。イントネーションや息遣いまで含めて、先生の発声した言葉をそのままリピートできる能力が高かったと思います。
そして、僕にはその能力が無い。正直、耳はとても悪いのです。顔も悪いけど。頭も悪いけど。それはこの際どうでもいい。
僕の知る限り、耳が良い人以外で、語学を習得していった人が廻りになかなか居ない。この場合、どうやってそのハードルを乗り越えるべきか。そこが問題です。もちろん、加齢の事もあるしね。諦めるつもりは無いから、どうやって乗り越えるか、そればかり考えながらガツガツと日々学んでいます。
とりあえず近くに居る人からどんどん話しかけますが「我愛你」しかいえません。後はここで書くのがはばかられるような単語ばかり。中学生が辞書でヤマしい単語に赤線を引くように、ヤマしい単語ばかりはすらすら覚えます。これが中二病スキルというやつでしょうか。
そして、上達度合いがわからない。語学って奴は、ある一線を超えるまで、母国語話者と全くコミュニケーション取れないんですよね。そしてその「ある一線」を超えるのに、一年~一年半掛かるという状態。この状態で学習意欲を持ち続けるのって、大変だと思います。勉強を持続できる人はエラいなぁ、と改めて思っています。
多分、一つ外国語を習得した人は、この速度感が武器になっているのでしょう。どこまで学習したら自分がスキルとして役に立つのか。そのステップが見えているのでしょうね。これが見えないと、継続的な努力は難しい。
僕には「中国語が出来ないと仕事がなくなる」「どうしても中国女性とお近づきになりたい」「中国ビジネスで大もうけしてやる」と言ったモチベーションの根源が無く、どちらかというと「近づいてきた環境はどっぷり飲み込んでやる」というほかの人にはよく解り難いモチベーションで勉強しています。でも、僕にとってはこれは一番根源的なやる気でもあったりします。
すごく、すごーく、不遜な事を言えば、僕は努力したり泥臭い姿を出したりするのが、すごく苦手で、全てにおいて「そんな気は無かったけどー、気がつくと出来ててー。えー、そんなことないよー、たまたまだよー」と、試験答案を受け取った女子高生のような発言を導き出したいといつも考えているのです。今回も「えー、たまたまー、そういう仕事してたらー、気がついたらしゃべれるようになっててー。」みたいな発言をしてみたいのです。
気がつくとパソコンスクールなんてものを代表していた。
気がつくとテクニカルエバンジェリストなんて肩書きになっていた。
気がつくと舞台監督になっていた。
これ全部過去のものではありますが(もう全部十年前のことなんだな)、これまでの人生、結構そうやって生きてきました。そう、僕が目指してどうこうというものではなく、皆様からの援助、ご縁にて、お役に立とうと思っていると自然とやっている事、できている事が僕は好きなのです。
それがあかんのだもっと自助努力をして目標を立てて泥臭く頑張って生きなさいというご意見があるのは百も承知。もちろん、努力してないとは言いません。でも、どうしても何か(特に利益になるもの)目標に向かって「頑張ってる」というのには照れがあるのです。
というか、僕はその意味では全く「頑張って」ない。
後述するけど、所謂「フロー状態」に入って勝手に「好きな事をひたすらやってると何かできてた」みたいなカタチでしか何もなし得ていないのです。いや、人様にさらけ出せるほどなし得たものはマダマダ無いのですが。
そしてこれが僕の弱点であり、人の良さだと自覚しているのですが、「何か利益になる事に対して目標設定して努力し、結果を出して利益を受け取る」ということがどうにも苦手なのです。僕は「自分がやりたい事をただやりたいようにやりたいだけやりたい。で、やりたくない事をやりたくない」の一心で生きているのです(これは先日コーチングを受けていて、改めて気がついた根底理念なのです。ただの我がままとも言うが)。利益度外視。お金持ちになるために好きじゃないけどこれをやっておく、と言った類の事がとっても気持ち悪いのです。好きな事やろうよ。短い人生なんだから。良い結果のために今を我慢する事がどうにも許せないのです。気持ちいい一瞬の積み重ね、刹那的喜びの積み重ねで大きな喜びを得たい。我慢は嫌だ。言えば言うほどただのわがままです。
やってることが自分にとってフロー状態に入れるか否か。で、やりたい事をやっていたらココに来た、というのがこれまでの僕で、これからもそうしていきたいのです。うん、書いてみて思ったけど、後悔する余地はないんだな。無理をしたり意に反する事をやってない訳で、楽しく生きさせてもらってきたと思います。
でも、その意味では、僕は今、中国語ブームが自身の中で起きてます。フロー状態、とまではいきませんが、語学に対してとても前向きに、「頑張って」勉強しなくても「好きな事をただ遊ぶようにやってる」状態で絡み合う事ができています。怖いのはこれがスルッと飽きる事。飽きたら、一巻の終わり。ダラダラしたお付き合いが出来ないのです。男女に関してはダラダラといつまでも(中略)。
そんなこんなで、マイブーム中国語学習。楽しいですよ。
そのうち怒ったら中国語でまくし立ててやる。

私は忘れてしまっていた。国民の皆さんに雇われている身だということを。

昨日、お会いした方と、本や映画の話になり、ふと僕の一番好きな映画は何か、という事を考えました。「時計仕掛けのオレンジ」「ブレードランナー」「ダークナイト」「ゴーストバスターズ」・・・うん、どれも大好きで、僕の人生に影響を与えてくれた名作ばかりです。
でも、その中で一本だけ、どうしても。と言われたら、僕は何を選ぼうか。
その時に、ふと思い出した、映画史にはあまり名前の出てこない佳作。
でも、僕がこれまで観た映画の中では1,2を争うほどスペシャルな作品だと思える、名作。
それが、この「デーヴ」です。
<以下、amazonより>

僕自身の観想を言うより先に、amazonのレビューを見ていただいたほうが早いでしょう。密かに絶賛の嵐嵐嵐for dream。ステマじゃない「感動しました!」の声がここにある。ライトマン監督、最高の一作です。というか、脚本書いた人が素晴らしすぎる。僕もこんな脚本が書きたい。
映画館で2回、ビデオで2回、DVDで何回も、何回も、見ています。今も隣のモニターで流してます。
内容はいたってシンプル。大統領の物まね芸人をして日銭を稼いでいた主人公。そこになんと本物の大統領から替え玉の依頼がまいこんできた。引き受けてる最中に本物の大統領が危篤状態になり、主人公がなんとか取り繕おうとドタバタするコメディ映画です。
でも、こんなにハートフル(使い古された言葉だけど)なコメディは、ここのところ全く見かけなかった。
大統領夫人とのすれ違い、政治に対する想い、ライバルとの確執、そんな伏線が見事にコンパクトに、いやみなくまとまっている。人も死なない。ネガティブな要素がまるで無い。そして感動と温かいラスト。こんな、こんな映画があっていいものか。どんな映画好きにも映画嫌いにも、お勧めできる一品です。
でも、僕はなかなかこれを人にお勧めして来れなかった。コレを「好き」と言うと、僕はとても良い人に見えてしまい、僕のセルフブランディングに非常に悪影響が出てしまうのです。そう、それくらい、とても「いい映画」なのです。
最高の脚本、最高の演出、ウィットに満ちたコメディ。
シニカルな視点は生きるうえで必要ないものだというのが改めて考えさせられる。
細部について言い出すとまたきりが無いのですが、僕は下記のシーンが好きです。
・養護施設で、デーブが子供と真摯に向き合う姿を見て、夫人が心を動かされると同時に疑い出す~デーヴのシャワーで確信するシーン。
・デーヴと夫人がお忍びデート中、芸人を演じてしまうシーン。
(これぞコメディ展開の王道!そして温かいワンシーンです。)
・補佐官に「替え玉風情」と思われながら、自分の意思で会議を切り盛りして、資金を捻出するシーン。
(替え玉が、本物になっていく。役割が人を変える。想いが動かす。様々な読解ができますが、そのどれも心を動かすものです。)
・デーヴと副大統領と腰を据えて話し合う深夜~夫人に、「彼は良い人だ」と語るシーン。
(なんで、こんな細やかな演出でデーヴと副大統領、二人の人の良さを伝えられるのだろう)
・応援者が全く居なくなってしまうテレビの前の補佐官。
(たった一秒ほどの場面で、コミカルに、悪役の退場を表現するなんて!)
・副大統領にその座を譲り、倒れる芝居をした後、こっそり救急車で脱出して、国会から歩いて帰っていくシーン。
(デーヴが、大統領から普通の一個人に変わる事を見事に演じてます。そして夕もやの遠景。ライトマン監督は、この映画のオープニングにしろゴーストバスターズにしろ、遠景描写にすごく情感が溢れています。)
・大演説「私は忘れてしまっていた。国民の皆さんに雇われている身だということを。」
(説明無用。替え玉という舞台装置は昔から数あれど、常にカタルシスはこの一点です。)
駄目だ、こんな風にシーンを語りだすと、全てのシーンを語らないといけなくなってしまう。
そして、そして、なんといっても、
男が男に語る「君のためなら死ねる」
(冒頭の、デーヴに対する不信感があっての、最後のこの台詞!)
映画史に残る名台詞です。
珍しく、映画の紹介で終わります。皆様是非ご覧下さい。
今日は月曜、働く日!