まる一年

トラック野郎の話はまたちょっと待ってね。
最近は特攻野郎Aチームじゃなくナイトライダーを日々レンタルしてます。そうじゃなくて。
 今日でまる一年。
 去年の今日は、うちのかみさんが(常識的な範囲にまで)元気を取り戻した記念すべき日です。
 昨年のちょうど今日、同じようにブログでその日のことを書き留めていましたが、実はその日から、それはそれとして別の恐怖に苛まれていたんですね。
 いや、簡単にいうと「いつまた恨みつらみと暴力(破壊衝動・破滅衝動)が押し寄せる、頼る場所も人も居ない日々に戻るのか」という恐怖感ね。
 いや、僕の文章はいつも軽いからその感覚は伝わらないのは承知してますが、まあ、読む人にとっては軽いほうが良いのか。いいのだ。というわけで軽く書きます。
  1年前までのかみさんは、心の病に苦しんでいました。
 一応症例としては「BPDを因として、欝を併発云々」とかなんとか言われておりましたが、僕は良く解りません。
 その当時、かみさんは体を動かす体力がないので、寝たきりなのはもちろんのこと、僕が会社から帰ると待っているのは罵詈雑言と自殺への願望でした。4,5年もの間、生きることに後ろ向きな言葉を常に投げられながら、それでも「そうじゃない」といい続ける日々を過ごして来ました。そこまでかみさんが追い詰められた理由は数あれど、因果関係やPDCAサイクルといったものじゃ解決できない、ただひたすら、心をナイフで切り刻まれながら、「自分を傷つける人を無条件で愛する」ということでのみ解決する、この救いも果ても無い生活を続けてきました。
 僕が休みの日も、目を離すことが出来ないため、自宅待機。僕が外に出るときもほとんど一緒に居ました。それこそ、職場の飲み会さえも、毎回かみさんを連れて行くくらいに。(そこまでして出るなって?)
 かみさんと一緒に居ることが嫌なわけではないのだけど、常に居なければならない、というプレッシャーはまた別のものです。
 周りの家族にも救いを求めたけど、病気に理解が無い場合は救いにならない。(とはいえ、僕の両親には本当にお世話になりました。生涯の感謝をしています。)頼る人が居ないという孤独感。自分の哲学へのバランスをとりながら、気が付けば「真正面から向き合わない、へらへら生きる術」をいつの間にか身に着けてしまいました。
 でも、それがよかった。まじめに受け止めていると、この病気は心中しかなくなるみたいだからね。
 僕みたいにいい加減な人間だからこそできる大技だと思っています。下手ないい加減ぶりではこうは行きません。人生捨てる覚悟でいい加減にならなければ。(いや、本当は僕だって真面目なのよ。)(誰にフォローしている)
 そして去年の9月末、僕がある程度いい加減な人生を自覚的に送り始め、気温が下がると同時に、かみさんの様態が良くなり、生きることに素直になり始めました。
 攻撃的な言葉が少なくなり、家事を行うようになり、また自分自身の時間を少しながら楽しめるようになり、また友達も少しづつ作れるようになって来ました。
 今年、闘病の日々が終わりを告げてようやく一年。時々、再発の兆しが見えましたが、なんとか今のところ、平穏な生活を送っています。
 せめて1年は様子を見ておこう、喜ぶにはまだ早い。と、僕にしては珍しく慎重にこの状態と向き合ってきたのですが
 今日で1年、ひょっとしたら本当に嵐は去ったのかもしれません。
 「いつ、再発しても大丈夫だ」といえるほどの覚悟はまだ無いですが(というか、もう本当に勘弁して欲しい・・・)、そうなったとしても背負えるだけのオトコ気と甲斐性は常に持ち続けていたいと思います。
F1000570.jpg
 今日は、かみさん手作りのカレーで乾杯。
 僕はかみさんの手料理を6年間、待っていたよ。

ジュ・リテール・モア・ノン・プリュ

 トラック野郎の話するぜ!と言っておいて、いきなり違う話でごめんなさい。
 いや、ちょっとね。先日読んだ本のことを、鮮烈に語りたくなりすぎて、割り込ませていただきます。
 そのうちトラック野郎の話するの、忘れるんだぜ。これ。
 
 
 30代回顧ゲーマーには必読の「3丁目の夕日」的ノスタルジーあふれる本です。
 まだまだ現役、角度はまだまだ上向き以上の僕ですが、こういうノスタルジックには脆いのでございます。
 内容はゲームを軸にしたエッセイ集。ゲームやったことない人にも十分楽しめる本です。読め。
 で、それ以上に思い出してしまったこと。
 あー、僕が若いころやりたかったこと、なりたかった職業ってこれだったんだなー、というまた変な感触。こういうフリーの神出鬼没ライター、ブルボン小林さん大好きです。
 そもそも作家というかライターに憧れが強かったです。10代から20代前半のころ、特に。
 理由は簡単、人に何かを押し付ける伝えるのが好きなのと、非社会人的生活であることがそのまま生活の糧になりそう、というライター的ライフスタイル感がとても僕の触覚をびんびん突いたのです。
 いやわかってます。ライターに対する視点がまるっきり間違ってることはわかってます。この年になって、そうじゃない事はよく理解しているのですが、当時は、やりたい事を好きなだけやってもご飯食べられそうだと思ってました。(今でも若干思ってます)
 ちゃんとサラリーマンしてなくても、起業してなくても、毎日ゲームばっかりしてても、寝てばっかりいても、酒ばっかり飲んでても、女の子口説いてばっかりいても、コンニャクとカップラーメンとティッシュの感触の違いを徹底的に研究していても、ラブプラスを3台並べてプレイしてても、「ライターです」と言えばなんかそれは「仕事なんだな。」と思われるじゃないですか。そして、こういった趣味的部分に100%力を注いでも、「仕事なんだな」という目で見てもらえるじゃないですか。うまく伝える技術楽しませる技術とネットワークがあればお金もらえるじゃないですか。更に経費として申請できるじゃないですか。飽きたら辞められるじゃないですか。僕はそういう仕事がしたいのです。誰に熱く語ってるんだ。
 やりたい事をやりたいだけやって、自分の好きなものを「これおもしれーよ。」と伝える仕事が好きなのです。その意味では今の仕事もあんまり変わらないな。
確かに、今の仕事「学校屋」は、ライターとは別に、やりたい職業ですので、満足してるのも事実です。
 ただ、正直、今、社会の中で活動してる自分に未だに違和感があります。
 「え、ちゃんと社会人してるんだ、僕」とか「うわ、かみさんが家にいて家庭持ってるよ」とか「マンションとか老後の話とか考えてるよ」とか「プロピアの資料請求しようかな」とか、そういう自分に未だに違和感を感じてるのです。
うーむ、違和感といったら変だな。「だったらやめろ」といわれそうだし・・・。なんつーか、「こんな僕でも社会活動に参加させてもらってます」といったありがたさを感じている、といった方が適切かもしれない。
 そうそう、若いころから「全うな社会人にはなれないだろう、お前。」という気持ちが強かったのです。
 そういう意味で、この世の中には感謝感激雨あられであり、全うに生きさせていただきます、と思っています。なれないだろうと思ってた「学校屋」になれてること自体が自分には奇跡なのです。
 10代のころから、人としての生き方に全くもって自信のなかった僕は、社会の規範を踏み外したままでも、何とかそのままでも食べていける方法はないかと考えたときに、ライターという職種しか思いつかなかったのです。(10代から諦めてたのかよ)(というか世のライターさんに失礼だ。)
 村上龍も「作家は、殺人犯にも乞食にも、ましてや総理大臣でさえもなることができる、最後の職業である」という言葉(若干違うかもしれないけど)があります。作家とライターを一緒くたにして、例えば覚せい剤をやっても許される唯一の職業、に考えていたのです。(タイムリーで危険な事言ってます)
 そんなわけで、大学4年生のころに、社会には嫌われそうだけど、生きてるの楽しいし、(当時は)ヒキコモリという職業もまだ社会的に認知されていないし、やりたい事して死なないで東京にいるにはライターしかないかなぁ、と思っていたのです。(今でもヒキコモリは職業ではありません)
 その理由で、脚本家募集のチラシに引っ張られて制作会社に入ってナンダカンダとやってるうちに、その気持ちが薄らいで、「ああ、社会って僕みたいなのも受け入れてくれるくらい間口が広いんだ。ありがとう社会!ソーシャルネットワーク万歳!」ということに気がつき始めてから、駄目人間のまま社会の端っこにいる快感に身をさらしてました。駄目人間を改善するのではなく、駄目人間を受け入れてくれる社会を作るよう、一生懸命努力してまいりました。間違ってる言うな。
 で、話が戻ります。
 社会で15年近くうろうろしていた後で、この本を読んだときに、「ああ、僕もこれがやりたかったんだなぁ」と改めて感じ入ったのです。
 社会に受け入れられそうもないから文章書こう、ではなく、社会に受け入れられてても文章書きたかったのかもしれない、と思ったのです。
 ブルボン小林さんの文章もそうですが、愛情を持って日々を過ごし、それを糧に生活することが僕の中では理想なんだなぁ。
 
 その意味で、この本は僕の中でいろいろと痛いところを突いてきました。簡単に言うと「僕もこういうのやりたい」という意味で。
 ただこれをかみさんに話したら
 「社会に受け入れられてると思ってるのはあなた一人で、現実にはあなた社会から存分に脱落してますから。」とのこと。なるほど。
 存分に脱落、という言葉が気に入りました。うむ、存分に脱落してみよう。これからも。今まで以上に。

免許なくした。

F1000575.jpg
 免許なくした。
 なので、交番に行って報告、その後免許センターへ。
 即日交付で、事なきを得ましたが、それにしても35歳にして忘れ物やらモノ忘れやら、一般社会人として程度が低すぎる。いやはや、全く。
 保育園時代から全くこの部分について自信が無かった。そしてそれを何とかするために、治すのではなく他の方法で補填して(略)言えば言うほど言い訳にしかならないのでもう言わない。
 そしてこの文体では「おまえなめていらっしゃるのか」と言われるほどに僕の「なおさなければならない」と言うこの頑なな気持ちは伝わらない。
 世の中の大人は偉いのだなぁ。本当に、全ての人を尊敬しています。
 たまたま、今日は僕が健全に社会復帰するため通っている、隔週の心理カウンセリングの日でした。なので、改めて主治医に聞いてみました。
 「朝起きて、掃除が出来て、洗濯が出来て、料理が出来て、事務作業が出来て、後片付けができて…僕はどれ一つ出来ません。一体なぜそんな器用なことが出来るのでしょうか。」と。駄目人間一直線です。
 まあ、それなりに解決方法はあるようなので、色んな経験をして大人になりたいと思います。ある意味での未知との遭遇で経験のない世界に飛び込んで参りますので、国民のみなさんにもご寛容を願いたいと思っております。
 話がそれました。
 
 そういう訳で、免許センターに行ってまいりました。
 再交付って簡単なんですね。
 写真とって誓約書書いて、30分でできあがりました。いつの間にか法律が変わって5tトラックまで運転できるようになってたんですね。
 そうそう、トラックで思い出した。その昔2tトラックで西日本を駆け回ってた事が3年ほどありました。その頃の話がいくつか思い出されてきたので、次回話をしたいとおもっちょります。
 てなわけで今回は全く落ちも何も無く終わり。

 午前中、鳥取の兄、北海道の兄と共に企業訪問。
 制作現場の質の高さに圧倒される。そして語らい。
 深夜、横浜の兄とスカイプ。
 制作とは。これからとは。いろいろと語らい。
 男に恵まれている、というと気持ち悪いけれど、そうなのだから仕方ない。
 実家では長男坊だけれど、この年でも兄と慕える人が居ることは幸せなのだろう。
 明日は埼玉の兄と飲む予定。
 千葉の兄とは来週飲む予定。
 そして博多の兄には手紙を出しておこう。

モジカキゴト

IMG_0001.jpg
ライターと言えるほどのモノはまるでないけれど、丸一日かけてモノ書きゴト。
カメラに関する記事、プログラミングに関する記事、それからイベントのレポート記事と、えーと…。キリがございません。
そして僕は何屋さんなのか、この年になってもさっぱりわからない。「楽しいこと屋」ということにしておきます。

フロントラインは歳月をかけて後退する。

dsc70020.jpg
hage.jpg
 会社でラブプラスの話をしてたら職場の女の子に真顔で気持ち悪がられた35歳男性ですこんばんは。
 PCをリストアしてたら、昔の写真が出てきまして。
 その中でも最も豊富そうに見えるモノと今を比較すると、あまりの差に愕然。やっぱり年とともに減ったんだなぁ・・・。
 あ、減ったというのは、ギラつき度合いの事ですからね。それ以外に意味は無いですからね。だまれ不毛地帯とか言うな。この。エロス!アンド プロピア!

そして今日も放浪

四谷
 そして今日も四谷。in the sunny day。Be happy。How many いい顔。by hiromi Go。
 昼食のち放浪。with the トイカメラ。途中かみさんよりメールにて「めかぶと豆腐を5パック買って帰れ」の指示が届く。間違えてポテトパイを5個購入。おいしかったので許される。その後なぜかかみさんとWiiスポーツ。テニスで本気出したら「不毛地帯のくせに!」と訳のわからぬ言いがかりをつけられる。僕は地帯では無く人間です。ワインレッドの心。

身体感覚

 身体感覚が一番大事だと思う。
 トレーニングを積んだ身体に詰め込まれている反応の速度とベクトルこそがもっとも正しい知識であると語ったのは確か橋爪大三郎だったと覚えてます。情報として頭から入ったものじゃなく、咀嚼して、飲み込んで、自分の身体が納得したものが、初めて自分に役立つ知識になる、という事ね。
 27~29歳のころ、僕は某大手企業の中で働いていて、(今だから言えるけど)大きな研究室を丸ごと僕一人で使わせてもらってました。
 大企業や官公庁向けの印刷やプリンティングサービスを専門でやってる会社の中に、小さく映像やシステム構築の部署があったんですね。小さくと言っても、数十億という予算を一年で使うくらいに大きい部署なんですけど(笑)。で、その部署が縮小気味になったことがあって、元々映像専門技術職として入った僕は他の部署に行くこともできず、そのまま人数の少なくなった機材部屋を丸々もらってしまった感じだったんです。20畳くらいの部屋で、サーバ機から映像編集機材から常時50台くらいのマシンを自由に僕一人でいじらせてもらえたんです。その頃にネットワークの知識からサーバ構築、ストリーミングの技術なんかを全て実験させてもらってました。本当にあの頃の知識って今の僕にも役立ってます。
 そう、その頃、関連書籍もたくさん読んだけれど、何より血肉になってると思うのが、50台のマシンを全部インストールしなおしたり壊したり繋げたり映像読み込めるようにしたり変なことしたりという実体験なんですよね。
 コンピュータに関することの身体感覚って、身体表現や知育表現の世界に比べたらぜんぜん小さいものだとは思うけれど、それでもその感触を頼りに困難を乗り越えてきたことは間違いありません。
 30を超えてから、そういう実体験をどれだけ積んでこれたかな、とふと振り返ると、どちらかというと情報ばかりが頭に入っていて、身体感覚に結びついてないなぁ、と感じています。
 逆に、27~29の頃って、情報ではなく、身体で活動してました。
 うーん、そうなんだよなぁ。今思い出すと、そうやってマシンをガリガリいじくり倒して17時に退社した後は、QAZの劇団に毎週顔を出してたり、毎晩ダーツバーに通ってたり、脚本書いたりしてたんだよな。で、週末は行徳図書館でがっつり本を借りてはむさぼる、という毎日。なんというか、一つ一つに全部向き合って、身体を動かして、体感していたと思います。読書も、返却期間に合わせて全て自分の中に入れなきゃ、という切迫感を持って読んでました。
 ちなみに出勤してたのは13時ごろだったり…週何時間 勤務してたんだろう。。。ノルマも少なく、好き放題に研究室で体験させてもらってました。それでもお給料は(略)。僕がサラリーマンとしてのポリシーを更に間違ってしまったのもこの頃です。いやー、本当にありがとうございます。ただもらってたお給料はその前の借金やかみさんの病気ですっ飛んでて、超絶に貧乏だったけど。
 話それました。
 先日のブログにも書いたように、2連休で仕事から離れてみると、頭がクリアになりました。
 と同時に、その頃の生活を思い出してしまいました。
 当時はかみさんの様態もよろしくなく、ほぼ寝たきりだったのですが、それにも関わらず、やれ劇団だダーツだ読書だと自分自身は今以上に充実していたんじゃないかな。今思うとひでえ亭主だな。
 今年は今年で忙しい毎日を送ってますが、なんというか今までに身につけたものを吐き出しては、少しの情報量の取り込みで何とかしのいでる気がしてしまいました。そして、今年吐き出している栄養素の素は、ちょうど27~29で身に着けたモノだと感じています。その頃読んだ本や経験したこと、遊んだことがちょうど今の生活を潤わせてくれています・・・熟成するのに5~6年かかるのかもね。
 30を超えて、生活が変わってから、吸収してきているモノは減らしていた気がします。そうすると、来年あたりからは僕の中にあるものが枯渇してしまう可能性があります。今、そのあたりに危惧を感じているのです。
 とはいえ、今学んでもそれは間に合うものではないので、鷹揚に構えて「ま、しゃあない」と思うようにしてますが、その5,6年後のためには、また今のうちに身体感覚を磨いておかなければいけません。うむ、仕事なんかやってる場合じゃないじゃないか。じゃあ早速家に帰りま(略)。
  それを無意識に察知してか、今年は勉強の年と思ってWebの学校に通ったり映像の師匠の下で製作をしたりしています。でも、勉強の仕方が少し偏ってたかもしれません。どちらかというと情報で処理している感じです。それも断片的な情報。実体験ももちろん足りないのですが、書籍の吸収の仕方も足りない。書籍は読み方によって情報にも知識にもなると思います。
 もうすこし、身体能力を信頼しながら、身体に刻み込むようにしていきます。まあ、やることは今までと何にも変わらないのですけどね。ゆるやかに意識していきます。
 そしてこうやって3日連続でお色気やおシモな話が入らない記事を書くと読む人だどんどん減っていきます。これも僕の身体感覚の中で、ハッキリとわかっていることです。