僕が一般社会人と認識されているのは奇跡に過ぎない。

これを見て「迷惑だ」「おかしい」「社会秩序を守れ」と言うのは簡単。僕はその点に意見は無い。
僕が思うのは、自分も、隣にいる人も、自分の家族も「明日、突然こういう行動を取ったとしても、不思議はない。」と認識する事の重要性だ。
人は簡単にタガが外れる。いわゆる「狂う」という状態と「健全」とは本当に紙一重。何かのきっかけで、行動や思考が「常識」を外れる事は多々ある。その行動が自傷に向かうか、他者に向かうか、社会秩序に向かうか、寝込むのか、それはわからないけれど。
社会秩序を乱しても良い、他者を攻撃しても良い、とは決して言わない。でも、そういう行動を取るところまで追い詰められた人、タガが外れた人、その原因、行動の結果、そういったものを「あれはおかしくなったから」「ちょっと僕らとは違うから」「弱いやつだった」と一線を引いて我が身をマジョリティに置くのではなく、「自分の隣人」「明日の自分の姿」として向き合い、真摯に応対できる強さと優しさは、常に持ち続けていたい。
たとえ自分が、攻撃を受ける側、迷惑をこうむる側になったとしても。
(もちろん僕も怒るけどね。でも、極力「自分には理解できないモノとして、シャットアウトして思考停止」はしないようにしていきたい。)
そう、全員ここで、死ぬんだよ。

前進と変貌あるのみ。

文学部の学び舎も、桜が満開。
我が学び舎、戸山の文学部キャンパスに咲く桜。
これから先、一切努力と言うものをせず、食べて寝て、ネットだけ触って、それでも僕は生きてはいけるでしょう。生きている限り、社会基盤も最低限の生活は保障してくれるでしょう(ある程度は)。でもそれは「この僕が生きて」いるといえるのだろうか。「楽しく幸せで、アグレッシブな人生」だろうか。
 やるべきことは見えている。歯を食いしばるような努力をする気は無いが、好奇心の枯れない方向へ。エネルギーが満ち溢れる方向へ。堕落ではない、更なる快楽主義へ。
前進と変貌あるのみ。もう他界して20年以上経つ、マイルスデイヴィスを聞いて、改めて思う。春の夜。

中国語教育という仕事の中で

大学の同期仲間と、新宿で飲む。
まず第一に「輔は大丈夫か」と心配されていた事を打ち明けられた(カツラの事が一通り話された後で)。
メディアやコンテンツ事業・クリエイティブの未来を志向してこの会社に転職してきた僕が、その場所を離れてしまい、別の事業(今は語学教育)に異動して勤しんでいる事にクサっていないか、と心配してくれていたのだ(心配なんかしてねえ、遠くで旗振ってるだけだ。とsakeは嘯いてくれていたけれど)。
結論から言うと、僕は全くクサッてないし、FacebookでもTwitterでもグダグダと今日も中国語明日も中国語と叫んでいる様に、この年になっても新しい世界に飛び込めた事に感謝し、その中を(衰えた体力ながらに)楽しんで泳ぎまくっている。今までには知りえなかった新しい顧客の世界を見知り、満足を考え、企画し、収益構造を常に最良にするべく努力する。教育や事業展開のみならず、自分自身がその商材そのものを味わい、魅力として感じ取り、自分の中に吸収しようとしている(その場にある商材を全て理解し吸収しようとするのは僕の癖です)。ついに今週末はHSK(漢語水平考試)2級と3級の試験だ。ああ勉強しなければ。
プラス思考、と言われたが、そういうわけじゃない。楽しいものは楽しいと思う。嫌なものは極力近寄らない。そうしてわがままに生きてきたら、また楽しいものに出会った、というだけのことだ。それが今度は語学事業であったとしても、何ら不思議は無い。そもそも13年前に起業したときも本業は教育事業だったわけだから、軸は何にも変わっていない。語学、というのは意外だったけれども。大学時代苦しめられすぎて、一年留年する羽目にまでなった「語学」。一生逃げ続ける事は、どうも出来ないらしい。
そして、中国、アジアは本当に、今、熱い。いかにドメスティックに生きてきたか、この年になってショックを受けている。クリエイティブに限定した話でも、熱い話は沢山ある。例えば、中国版Twitterにはフォロワー4000万なんて人がざらにいて、少し発信しただけでも日本のTwitterより見知らぬ人からの反応がアクティブでポジティブだし、新しい企画提案にもどんどんリアクションが期待できる(英語140字の制限が、中国語だと400字位の情報量を持っていて、深慮もつぶやき易いのだ)。中国の動画サイト「土豆」や「优酷」を見ていけば、映像周辺機器だって、新しい表現手法だって、まだ日本にトランスレートされて無いだけで、中国の中でどんどん生み出されている。日本が先端に居ると思っていたら、大間違いだったんだと、改めて気がつかされた。いや、仮に未だ日本が先端に居たとしても、この人数と教育機関とメディアリテラシーがあれば、中国、そしてアジアはあっという間に日本を超える。母集団の数があまりにも違いすぎる。
そんなことに気がつくことができたもの、今、僕がこの場所に「偶然」来る事になったから、だ。愚鈍でドメスティックな僕は、こういう機会でも無いと、世界に目を向ける事は出来なかったと思う。
そうやって考えると、今、僕がこの場所でこの仕事をしている事が、振り返ってみると、更なるステップに引き上げてくれる大事なターニングポイントに居るということに気がつかされるのだ。それも、僕の望んだコンテンツ事業や教育事業、クリエイティブという道を広げる、これまでのポートフォリオを活かしつつ拡大する方向で。
本当に、何が自分に幸いするかわからない。
今自分がやっている事に全力を尽くして、全てを吸収して、感謝して、実績と収益にする。それだけです。
僕は元気です。また、飲みましょう。

葉書

はがき
大学の同窓生からはがきが届いた。
大学一年の頃、ほんの少しの間だけ、同じサークルに居た。彼女はすぐにそのサークルを離れてしまったのだけど、大学時代は同じ学部という事もあり、いろいろとお世話になった。音楽の趣味が合うことからいろんなライブにも一緒に参戦しし、一緒に飲んだくれる夜もあった。
気がつけばなんだかんだと20年来の付き合いになっている。
会うのは、それこそ5年に一回とかそんなレベルなのだが。
でも、Twitterなどで時々やり取りをして、お互いの生活の空気なんかはなんとなく、感じている。
今は、TwitterやFacebookで、なかなかお会いできない方とも「緩いつながり」が保てる時代になってきた。
それはそれで本当に嬉しい、ありがたい事なんだけど、時にふとアナログな葉書、書簡をもらうと、また違った風通しを感じる。
葉書を書いてくれているとき、何を思っていたのか。何を伝えてくれようとしていたのか。行間から感じ取る時間がとても心地良い。デジタルではそぎ落とされた機微も、そこには存在する。
初めてあった頃は、将来の夢を語り合っていた。それがいつの間にか、話題は職場の事、結婚の事、子育ての事、介護の事とフォーカスが年相応に移り変わってきた。お互いに積み重ねたこの二十年という時間、共感は、本当に貴重な財産だと思う。
また、会える日が有ると嬉しい。
今度会える日はいつなのだろうか。

【獅子舞について】皆さんに質問です。

僕のライフワークである祭り関係の書き込み、失礼します。
ブログにお越しの皆様にご質問です。(Facebookでも同様のご質問をしています)
世間の人たちにとって、「獅子舞」とは一体どのようなイメージなのでしょうか。
身近に獅子舞が存在しなかった方も居るでしょうし、東北のような三匹獅子を連想する人、関東の二人獅子を連想する人も居るでしょう。
聞くところによると、僕の生まれた地域(富山県)だけは、非常にユニークに伝承された獅子舞との事。自分自身ではそれが「当たり前」になってましたが、他の方々にとってはどのようなものなのでしょうか。下記に獅子舞の動画も3種ほど掲載しますが、これは皆様にとって「よく知っている獅子舞」の姿なのでしょうか。それとも「見たこと無い不思議な祭り」なのでしょうか。
お時間有る方、コメントいただけると幸いです。
※因みにこれは、富山に伝わる獅子舞5種類ほどのうちの一つ「氷見獅子」です。
 (獅子舞自体は600箇所以上の伝承があると言われています。)
【1】通称「獅子殺し」天狗が獅子に剣を奪われながらも撃退する舞です。

【2】こちらも「獅子殺し」天狗と獅子全身との17分にわたる激闘です。

【3】こちらは通称「大回り」松明の明かりの中での荘厳な舞です。

電子辞書

電子辞書
今日も中国語。
電子辞書、買っちゃいました。
Links to XD-B7300
ええ、もう、これは無いと駄目だわ。
語学の初学者には辞書は必要ない、と思い、これまで我慢して辞書を使わずに学習してきましたが、さすがに限度を迎えました。名詞や動詞はいいんです。大体解るし、日本語と違う部分だけ学べば理解が進むので、正直他の言語より辞書を引く回数は少なくてすむと思います。
でも、「还]や「可以」、「无论」などの接続詞や副詞?的なものが出てくるともうお手上げ。さすがに辞書を引かずに勉強する事はできなくなりました。
で、電子辞書。
僕らの大学時代は、確か電子辞書と言うものが出始めた頃。まだワープロも普及途中で、大学三年次にWindows95が発売された位の年代です。同期の語学専攻の人にも持ってる人は少なかったと思います。ええ、紙の辞書を担いで、一生懸命頑張ってた世代です。
僕はその大学時代から、かれこれ15年以上語学と遠ざかってきた人間です。辞書の進化にも語学学習方法の進化にも取り残されてきました。
その上で、電子辞書使ってみて。
これはすごい。
いいです。使いやすい。
何より、例文を全て発音してくれる、耳で聞き取れる強みが有る。これは紙の辞書ではなかった事です。で、当たり前だけど単語から単語へのハイパーリンクも出来る。ネットが普及して、こういう動作は当たり前になってましたが、辞書でもそれが出来るとなるとなんだか感慨深い。言葉の海に埋没しそうになります。
そして初学者用の辞書「日中辞典」から大辞書「中日大辞典」まで一気に串刺しで調べられる事。思い辞書何個分も一気にまとめて調べられる強さ、これは本当に凄いです。
更には手書きで入力して漢字を調べられる。これ、アルファベット文化圏では必要の無い能力かもしれませんが、漢字圏の辞書ではものすごい威力を発揮します。読めない、わからない文字も、とりあえず書ければ後は何とかなる。部首を調べなくてもいい、ただ書き写せば、その単語の読み方も意味も全て調べられる、これが何と素晴らしい事か。
あれ、僕ひょっとして、10年くらい遅れた技術に感動してる?
まあいいや、それくらい僕にとっては素晴らしい出会いだったのです。
つい先日まで、「いまやiPhoneやiPadで電子辞書機能やアプリ出てるやん。わざわざ電子辞書なんてどこの誰が買うんや」なんて思ってましたけど、とんでもない。これは一家に一台、あるのと無いのでは大きな違いです。まだまだiPhoneアプリの辞書機能は専門の電子辞書の後を追いかけている状態です。
とりあえずまずは使い倒す事。今日も語学の海に埋没します。再見!

じんてぃえんうぉしゅえしえじょんうぇん (今天,我学习中文)

今日も中国語学習です。
そんでもって思った事をば。
【1】熱中状態じゃなければやる必要は無い。
中国語に限らないことなのですが。
僕は「好きな事は徹底してやる、好きじゃないことは絶対にやらない。損得抜き!」を標榜していきてます。でも、これは別に意地張ってこうやってるわけではなく、熱中している時と、それ以外の時の学習効果にあまりに差が有る自分に対する学びのスタンスなわけです。
古くは麻雀、ダビスタから競馬、20代後半はダーツ、いろんなものに熱中してきました。その他女性(略)。えーと、あまりろくでもないものばかりに嵌ってきたのではないかという気もしますが、まあよく身を持ち崩さずに、全うな人生の端っこに生息させてもらえてると思います。損得抜きとはいえ、享楽的な趣味に走りすぎです。もう少し全うな研究・開発に没頭できる高尚な生き方をしてこなければいけなかったですね。
まあ、とはいえ、ココに来て語学の面白さに少しではあるけど目覚めつつある僕です。
振り返って、競馬に嵌ってた頃はどうしてただろう。毎日朝から晩まで競馬雑誌を読み続け、競馬コラムを書き続け、ビデオを見て、頭の中でレースを夢想しては楽しんでいた記憶があります。そうしているうちに、様々な知識がどんどん頭に入っていった。それはそれは、楽しい日々だったと記憶してます。あまりギャンブルとしてお金を賭ける事そのものに興味を持たなかった僕ですが、レースに対する浪漫に熱中していました。
趣味の良し悪しは置いておいて、その頃のスタンスは、今も何かを学ぶときに活かせると思っています。
何かを学ぶときは熱中して。朝から晩まで、何かの事を考え続けていないと落ち着かない状態、いわば青臭い恋愛片思い状態のような、そういう心境状態に自分を組み上げる事。これが、何かを学ぶときに一番大事な事だと僕は思っています。そしてそれがコントロールできるものならいいのですが、それはなかなかそうはいかない。好きになれるものは限られてます。そしてどこでその「好き」という気持ちが生まれてくるか解りません。何に向くかも解りません。
ただ、今ひとついえることは、たまたま業務の中で出会った「中国語」という語学に、僕は今興味を持ち始め、少しづつ競馬熱中時代、ダーツ熱中時代の頃のような心持を思い出し始めていると言う事です。ここに損得感情、これをやっておけばお給料上がるかも、将来に役立つかも、といった打算はほとんど無いのです。むしろいい年なんだからそろそろそういう事を考えないといけないんじゃないかと思いますが。こんな道楽しか考えてない主人についてくる家族が泣きそうです。
熱中できるものが無いときは、生きる屍状態でもいいとさえ思ってます。ええ、人生メリハリです。
【2】環境は熱中心が導いてくれる。
気持ちが向けば、自然と必要な情報、アイテムが身の回りに揃ってきます。そして、今は語学教育には非常に適したアイテムが揃っている時代です。一昔前だと、カセットテープを巻き戻しては聞いて、それこそ擦り切れさせるほどに再生を繰り返して英語を勉強している人が居た時代もありますが、今はそんな必要がありません。そう、iPhoneがあればね。(ちょっとApple風)
Links to オーディオブックの使い方
これ、いいですわ。iPhoneにあるオーディオブック機能で、中国語の短文を何度も何度も繰り返し聞いては発音してるのですが、当たり前ですが巻き戻し早送りという必要が無い。そして倍速も1/2倍速もトーンが変わらずに聞くことが出来る。これ語学教材としては最も必要で、またこれまでなかなか手に入れられなかった機能じゃないでしょうか。僕が大学時代に欲しかった。そしたらフランス語で苦しんで5年間も大学に行く必要がなかったかもしれないのに。
特に中国語は発音を徹底して学ばないといけない言語ですが、ネイティブスピーカーのボイスで1/2倍速でシャドースピーキングを繰り返していると、本当に力がついてきているのを感じます。ゆっくりですけどね。
しかも当たり前ですが、iPhoneはどこでも持ち運べてお手軽に使える。出先でも会社でも。会社の休憩時間にイヤホンでシャドースピーキングを練習する事もあります。それこそ休憩時間中、喫茶店で隣に座った幼児からは「怖いおじちゃんがへんなことばしゃべってるよう」と逃げられそうな態ですが。でも僕は今これが楽しいのでどう思われても辞めないのです。
今はHSK(中国語の試験)の短文をひたすらに暗記、しゃべる事を続けてます。
【3】環境は熱中心が導いてくれる。2
iPhoneつながりで。
これまで、中国語学習アプリはほとんど全てダウンロードしたと言っても過言ではありません。だって量が少ないんだもん。50アプリほどしかないので、とりあえず全部試してみました。そして、まだまだ中国語学習に関して、iPhoneアプリは発展途上。使用者が少ないから仕方ないんだけど、もう少し効果的なアプリが出てもいいんじゃないかな。
その中で使えそうだったのがこの辺。
Links to 月を表す中国語
なんとも変な名前のアプリですが、耳から覚える語学教育アプリとしてはかなり効果的です。まず一切日本語が使用されていない。にもかかわらず、何をしたら良くて、何をしたら正解か、というのがすぐ解るデザインになってる事。これこそエデュケーショナルデザインです。思わずフランス語スペイン語イタリア語韓国語版も落としてしまいました。それくらいいいアプリです。
絵を見て、耳から聞こえる文章にあったものを選ぶ、というただそれだけなのですが、毎日やっていると必ず単語を覚えます。短文も自然に覚えます。
Links to 30日中国語単語
単語帳アプリは結構色々でてるのですが、発音、単語量共にしっかりしているのはこのアプリくらいでした。ちゃんと発声もついてきて、何度も繰り返しやっていれば、2000単語は確実に覚えます。
そう、そして中国語はとにかく単語をしっかり覚えれば、文法はそれほど難解ではないため、身につけた単語量がそのまま語学力に直結しやすい言語だと考えます(ただ、単語を覚える=スペルを覚える、ではなく、発音と漢字をしっかり身につける必要があるのですが)。その意味でこのアプリは発音からだけで単語をテストすることも出来るし、日本語から中国語を探す事もできるし、いろんなカタチで自分の単語力をテストできます。30日と銘打ってありますが、大体一週間で一周できるレベルなので、何度も繰り返しやりましょう。電車の中でも延々やってます。
Links to まいにち中国語
そして真打の登場。なんといってもNHKサービスセンターからの、専門語学アプリです。NHKでは語学教育が盛んですが、番組の放送年や言葉によって、番組の出来不出来があるそうなんですね。あまり詳しくは無いのですが。その中で、名番組と呼ばれている2008年放送の「まいにち中国語」講師:荒川清秀のラジオ放送が、そのまま教材とパッケージになってアプリ化されました。
これ、一日一課聞いてるだけで、ものすごく解りやすい。上記2つが単語力、短文力を鍛えるものだとしたら、それで身につけた血肉に骨格を通すように、文法の成り立ちや構成力を植え付けてくれる。このアプリは流石にボリュームがあるため、一気に遣り通す事は難しいですが、じっくりゆっくり、腰をすえて学ぶのに良いアプリです。
・・・
この年になって、何かのスキルを身につけようなんて、思った事も無かった。
そもそもスキルを身につけるという考え自体があまり好きではなかったし、正直気恥ずかしさもあった。
「仕事で身につけたこの腕こそが俺の実績じゃい」と嘯いてこの年まで生きてきた。
でも、ふと落ち着いて、何かを身につけてみるのも面白いかもしれないじゃないか。それが、強制されたものではなく、ふとであった、熱中できる趣味だとしたら、これほど幸せなものは無い。
中国語に出会った事に感謝。
近々台湾にでも遊びに行きたいなぁ。僕の学んでるのは大陸の言葉だけど。

中年進行中中国語学習中

毎日中国語を勉強しているわけです。
一日に1~2時間は机に向かって学習を続けています。
のみならず、今はiPhone、iPadなど様々な学習機器が揃っており、それこそ電車の中でも会社の休憩時間でも、いつでも勉強が出来る体制が整っています。後はやるかやらないかの選択のみ。いつやるの?今でしょ!もう言い訳の出来ない社会です。
で、ふと思った事。
正直言いまして、僕は机に向かっての勉強と言うものがこれが本当に苦手でして、若い頃から本当に根気も体力も続かず、机に向かっては絵を描いたり小説を書いたりはしたものの、何かを学習する、ということが出来ない人間でございました。過去形じゃなく、今もなんだが。
こうやってブログを書くのはどれだけでも出来るし「俺の話を聞け」スタイルで延々と語り続けることは全然苦じゃありません。アウトプットはいいの、僕の中にあるグツグツと煮えたぎった俺汁を外部に迸らせるのはむしろ快感であり何も苦労しないのです。
だけど、何かをインプットする、熟慮する、脳内のPDCAサイクルを回す、基礎知識を自由に出し入れできる状態にする、ということに関しては本当に苦手であり、良くお前大学なんて行けたな、と今にして真剣に思うわけです。
因みに最近、我が出身高校の偏差値を見聞きする機会がございまして、ちょっと覗いてみたところ我らが高岡第一高校、偏差値39でございました。そして、僕はその中で真面目に試験を受けて真剣に解答して最下位を取るという偉業を成し遂げつつ卒業したのです。いわゆる学業的な意味での偏差値は多分30台前半じゃなかろうか。
そんな実績を元に自信を深めるくらい、僕は、本当に、頭が、悪い。
もっと正確に言うならば、学習というものに対して、不向きであり、方法論を知らず、また努力していない。
ひるがえって、うちのかみさんは非常に僕からすると奇異の目で見ることが出来るくらいに学習態度、学習方法というものを若い頃に身につけており、毎日しきりに感心するばかりなのであります。
とにかく、反復。日々淡々と。身体にしみこむまで何度も繰り返し。
その行為に対して、何にもストレスを感じて無いんですよね。
これ、僕が全く苦手だった事です。だって一通りやりゃいいじゃん。多分明日も同じ事できるよ(できなくなってるものなのだが)。今日答え覚えて満点取れたら明日も取れるよ(取れなくなってます)。
僕は如何にずるくパターン化、ルーチン化して早く学習時間を切り上げるかばかり考えて生活していたのですが、その間、うちのかみさんはずっと、ドリルを解き、もう一度解き、再度解き、問題文と回答が完全に頭に入りきるまで机を離れない、という所業をしていたんですね。
今、この年になって、うちのかみさんの勉強方法が、如何に泥臭く非効率に見えても、実際は最も効率的な学び方だったのか、思い知りました。
まず、中国語、やってみて、どこから取り付けばいいか解らない。まず聞く、浴びるように聞く。そして単語覚える、浴びるように覚える。そして文章を書き取る。聞いて書き取る。ひたすら書き取る。
若い頃だと「そんな勉強方法しても役に立たないよ」と嘯いて、もっと効率的な教え方を標榜する参考書探しに熱中していたものですが、今は、本当に改めて思う。ひたすら地道に書き取り(聞き取り)を馬鹿みたいに10回繰り返し、20回繰り返しを続けていたほうがよっぽど身に就く。
これというのも、かみさんが隣で英語を勉強しているのを見て、思ったんですよね。日々、同じ事を繰り返してる。毎日毎日同じ事をしてる。なのに、少しづつ少しづつ、確実に彼女の何かの実力は上がり続けているのです。これを隣で見てたとき、貞子が這い出てくるような感触を僕は覚えました。じわりじわりと、ぞくぞくと力が少しづつ増えているかみさん。基本的なスキルと言うものはこうやって身につけるのか、と、その時初めて僕は学習の方法論というものを理解しました。(スキルでなく学術、研究になると又方法論は違うのでしょうが)
今は、かみさんのスピード感(ものすごくのろい)、一つ一つの丁寧な回答(ものすごく細かい)、毎日必ず同じ事をやる(ものすごくイラつくけど我慢)、を実際に目で体験しながら、「それで実績が出てる人がいるのだから」と自らもその勉強方法にて頑張っています。
我が家では、これを「おばあちゃんメソッド」と読んでます。
おばあちゃんメソッド
・スゲーゆっくり
・パッと見、スゲー非効率
・しかし確実に仕事をこなす
・超シングルタスク
・ゆっくりだが全部終わるまで止まらない
・何かあるとすぐに立ち上がり世話をやく
・実はスゲー仕事してるのだが、一番暇なのもおばあちゃん。
これをベースにした勉強法、今は結構自分でも型を作って頑張ってます。
おかげさまでほぼ同時刻に帰って、時間の取れる職業に居ますので、今の間に、次のステップの力を身につけておきます。これまで避けて通ってきた語学、何とかものにしてみます。他の人たちより10年くらい遅いけど。これもまたご縁。