体力と背負うもの

 「35歳」は僕の年齢。個人的には非常に若くF1層でありヤングであり青年であると思っているのですが、世の中の一般的な意見としては中年と思われる年齢です。まあ、ほら、一般論って、当てにならないね。
 今までの社会での35歳像とはこういったものではないでしょうか。
 そろそろ子どもも小学生になり、家のローンを考え、老後の両親の面倒をどうするか、と言ったことに頭を悩ませつつ、会社の中間管理職として走り回る毎日。残業万歳。ボーナス万歳。会社さえあれば生活は心配しなくて良いのだ。不況は外の世界のことだ。
 まあ、当たり前ながら僕がそのカテゴリー内に入っていないことは自明であり、家のローンも無ければ子供も無い代わりに面倒見るのは親以外にわらわら居るといったねじれ現象のような人生です。
 で、まあそんなことはいいのです。
 自分がふと、自分の周りをみて、今ふと思ったこと。
 情報が制限されていた今までであれば年功序列は保てたけれど、今の時代は若い方が圧倒的に有利だということ。
 考えてみるまでも無い。年配としての強みは、その経験値、情報と人脈、お金の動きのコア(中心)に近づくこと。
 しかしながら、それは今では若い人たちでも手に入れることができる。さらに体力があり、知識を詰め込むこともでき、背負うものも少ない。
 
 未来のある彼らと、背負うものと体力のハンデを背負ったまま、僕らは戦わないといけないのである。
 今までは年上と戦う、あるいはベルトコンベアに乗る、といった動きが社会人に求められていたのでしょうが、今は元気な人たちともたたかわないといけない。そりゃしんどいわ。
 まあ、僕の場合は自分の楽しみのためにまったく働けない自分を省みない駄目男なので、背負うものがあればあるほど見栄はってがんばるわけだ。その意味では、いろいろかぶさっていたほうが都合がいい。その意味では、今の状態も楽しいかもね。
 なんだかんだいって、自分の状況を楽しんでしまうこの性格が、今の状況を作ってしまう。
 なんてことをかんがえながらスイカ食べてました。うまー。
 本当に最近支離滅裂だな。疲れ気味なんでしょ。みなさまお身体にはお気をつけ下さい。

粛々

 今は7月も終わりごろ。後5ヶ月で今年も終わり。
 そんなに僕時間使ってないはずだ。絶対に盗まれたか落としてきたかしたに違いない。
 みんな目つぶれー。先生誰にも言わないから、先生の時間を取ってった奴、ちょっと手上げろ。
 うん、よし、わかった。このことは誰にも言わない。先生の心の中にこっそり秘めておく。
 和田、後で職員室に来なさい。
 
 
 それにしても時の経つのは早すぎる。今年の頭には僕は全然違う仕事を違う場所でしていたのに、気がつけば元の場所で違う仕事をしている。その他にも様々な楽しみ。仕事。新しい仲間たち。本当にありがたいことです。
自宅のワークスペースをプロ仕様にして、旧知の仲間とタノシイコトを始めたのも今年。
新たに学校に通い、遥かな目標を持つ仲間たちと刺激を受け始めたのも今年。
  
新しい業務で、刺激ある環境に身をおいたのも今年。
 
教育業の壮健な先輩に、新しい刺激と薫陶を受け始めたのも今年。
 
映像業の遥かな先輩に、厳しい刺激と修行を受け始めたのも今年。
 
Web業の誉れな先輩に、素敵な刺激と特訓を受け始めたのも今年。
 
逆流性食道炎で身体が困ったのも今年。
にも関わらず週2で飲みまくってるのも今年。
座ワタミとおだいどこはなれに計50回以上行ってる。 
 しっかり振り返ってみれば、いろんな事をし始めた一年です。
 しかしながら、駆け抜けた半年であることも事実です。
 慢性ひきこもり症候群且つ社会規則不適合を併発する僕が、ここまで半年、充実した毎日を送ることができたのは本当に、周りの皆さんのおかげです。本当に僕は恵まれているなぁ、と思います。
 真摯に、自分ができることを粛々としていければ、僕の望む道は開くと信じて、あと5ヶ月も頑張ります。真摯に、粛々と。
 がんばる、とか、やってやる、とか、言わないのです。
 ただ淡々と、粛々と。
 こんな僕を生かしてくれる周りに感謝して。
 僕を養ってくれる皆さんに感謝して。

Twitterをリブログしました。

 なんか勝間和代ウェーブか知らないが、人気のあるTwitter。
 先日も、夜のプロトコル「We love twitter & tumblr」イベントに参加してきたところですが、この手のサービスが今人気あるみたいです。良くわからないけど。
 いやー、僕はお金の動きとかに疎いもので、それすなわち人気があるかどうかということも無頓着なんですよね。自分にとって使って楽しければ、自分的大人気だし、そうじゃなければ自分的不人気サービスなのです。その意味で先月はTumblrが自分内世界的に大ブームだったし、おかげで佐々木希が自分内オリコン一位を獲得し、逆にTwitterはぜんぜん人気の無いサービスになっていました。
 そうそう、以前も書いたとおり、一言ブログ、ミニブログというやつが本当に苦手なのですよ。
 大体140字で何が語れるというのだ。そんなにお前の思いの丈は情報量が少ないのか。
 僕の愛の告白は大長編小説です。
 とはいうものの、やはり短い文章の中に機微を入れてこそ日本語使い。短い語りもできるようになりたい。なんとなくできる気がしてきた。というわけで、僕のブログにも自分の呟きを掲載するようにしました。上記のTwitter欄がそれね。(携帯で見てる人ごめんなさい。PC仕様です)
 とは言うものの、語る内容はひたすら暑苦しい。
 ひたすら呟き、ひたすら唸る。世界一暑苦しいTwittererを目指します。
 
 
 寝てない朝の文章は本当に散漫である。そろそろ寝ます。おやすみなさい。

年の差なんて関係ない。

先日、会社の皆さんが集まる会議がありましてですね。その場で、娘さんの居る二人の先輩方が話をしていたんですよ。
「Nさんところの娘さん、髪の毛ふっさふさですね。」
「ええ、もずくが好きで、よく食べてるから、そのせいかもしれませんね。」
「幼いのに、通な趣味ですね。」
 
 
 
 
 
 
 
 そうか、もずくか。
 
 
 
 
 
 
 
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 買ってみた。
 33歳年下の女の子にライバル心を燃やす僕。

忙殺

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 会社では無限大の作業が飛び込んできて(ありがたいことです)
 自宅では制作の依頼が飛び込んできて(ありがたいことです)
 学校では中間課題が続いて(ありがたいことです)
 さらに大学の友人から内容不明のまま何か飛び込んできた。
 で、どうすればいいのだ。
 今年は多分こうやって作業をこなしながら学んで耐える時期なのでしょう。がっつり吸収してやるぞ。大学卒業以来ホトバシらせるばっかりで、吸収してきてなかったからなぁ。亜鉛を飲むと良く出るらしいよ。うん。たぶん。知らんけど。

意地と礼儀と義理

奴隷は、奴隷の境遇に慣れ過ぎると、
驚いた事に自分の足を繋いでいる鎖の自慢をお互いに始める。
どっちの鎖が光ってて重そうで高価か、などと。
そして鎖に繋がれていない自由人を嘲笑さえする。
だが奴隷達を繋いでいるのは実は同じたった1本の鎖に過ぎない。
そして奴隷はどこまでも奴隷に過ぎない。
過去の奴隷は、自由人が力によって征服され、
やむなく奴隷に身を落とした。
彼らは、一部の甘やかされた特権者を除けば、
奴隷になっても決してその精神の自由までをも譲り渡すことはなかった。
その血族の誇り、父祖の文明の偉大さを忘れず、隙あらば逃亡し、
あるいは反乱を起こして、労働に鍛え抜かれた肉体によって、
肥え太った主人を血祭りにあげた。
現代の奴隷は、自ら進んで奴隷の衣服を着、首に屈辱のヒモを巻き付ける。
そして、何より驚くべきことに、
現代の奴隷は、自らが奴隷であることに気付いてすらいない。
それどころか彼らは、奴隷であることの中に自らの唯一の誇りを見い出しさえしている。
(リロイ・ジョーンズ 1968年、NYハーレムにて)”
「ロボット人間たちのほうは、それに従って生きるだけだ。これはある意味では気楽な身分だ。戦争も気候も経済も、神人たちによって制御されてしまうので、ロボット人間たちは神人たちの認める限度で、多くのものを与えられる。食物と住居も、職業も娯楽も恋愛も教育も、時には思想さえも与えられる。
ただロボット人間たちは、与えられ、操られていることを意識できないようになる。自分たちの意識では、何もかも自分で選択して勝手に生きているのだと思う。しかし、じつは神人たちがすべてを見通して、管理工場の『家畜』のように彼らを育て飼うことになるのだ。
(ヒトラーの予言)
使われるのがイヤなら、使う側に回る。
ダマされるのがイヤなら、ダマす側に回る。
社会のルールに文句をつける前に、ルールをつくる側に回る。
基本的には、それだけの話だ。
( 書評 – 汗をかかずにトップを奪え!)
 仲間意識は高い。でも僕は博愛主義ではない。
 仲間は僕が自分で選ぶ。
 仲間じゃない人と一緒に仲間の顔をすることはどうしてもできない。
 愛情はある。でも僕は博愛主義じゃない。
 愛情を注ぐ対象は自分で選ぶ。
 愛情を注いでないモノに愛情を注ぐフリはどうしてもできない。
 それを子供と言うなら子供。嘲笑するなら嘲笑でいいのです。
 でも、気づいたことは僕にとっての前進なのです。
 大事な仲間と大事な場所は守ります。守りたいから、です。