医者というもの。小説家というもの。

Someday, I'll become a tower.
ふと、家庭環境的な事、そこから気づいたヨシナゴトを語らせて欲しい。
 僕には弟と妹が居る。僕がここ39年ほどぐうたらしながら生きてきた間に、どうやら僕の弟や妹は「あんな兄貴になっちゃいけない」と考えたようだ。この僕の素晴らしきコーチングスキルをもってして、反面教師として類稀れなる教育指導を与えたようなのである。
 それが話の中心として、そこから話題は二枝、三枝にわけさせてもらいたい。特に最後に収斂する話題な訳でもなく、ただ思いついた事を酒飲み話のように書いただけの事なのだが。
 まず、弟の事。
 こいつは幼い頃からギャンブルが強かった。僕が高校生、弟が幼稚園児の頃から麻雀の卓を囲んで、それなりに勝負になっていた。というか小学生に上がった頃には既に僕より勝率良かったんじゃないかな。そんな弟は高校時代に囲碁部で名を馳せた後、僕の大学時代や新卒時代の体たらくを見ていたお陰で今は医者なんてヤクザな商売についている。ギャンブラー医者。あまり人の身体で博打を打たないでもらいたい。それを知ってか知らずか、ギャンブル気質は今はネットゲームの世界に身を寄せて、医者の側はあまりギャンブル性の無い科に勤めているらしい。いや、よく解らないのだが。
 で、ここまでは外殻的な話なんだ。僕が話したいのはココから先のこと。
そんな弟と、もう一年位前になるのかな、彼が上京してきて、久々にいろいろ語る機会がありました。
そこで、僕はこれまでに知る事のなかった世界をいろいろ聞かせてもらったんですね。
1・自分の弟がマーダーライセンス牙であること。
当たり前ですが、医者は「死」を宣告する事を法律的に認められた、唯一の職業です。
殺人許可証ではないけれど、人に対して「死」を宣告する事の出来る権利(または職務)を有していると言うこと。即ち「お前死んだことにして書類書くから。」といえば法的に人を死に追いやることが出来るわけです。
 この話、淡々と聴いたのですが、相当恐ろしい資格を手にしたんじゃないか。とそのときに思ったんですね。人の生死を判断する。こんな機会僕の人生これまでには無かったし、これから先もあるとは思えない。あっても身内の死を見取るくらいの事で、「ここで、あなた死にました!」なんて宣告、或いは専門の知見と技術をもって「生かし続けます」なんてライフコントロールする度胸もなければ覚悟も無い。
 でも、僕の弟はそういう現場に立って、日々その度胸と覚悟を持って立ち向かっているんだな、ということがとてもまぶしく見えたのです。
 同じように・・・
2・後期高齢者、半身不随な方の集団など、僕が世間で知っている社会じゃない世界を見ていること。
 世間ではあまり表に出てこない人たちの話がとても衝撃的でした。
何十人という老人がベッドで寝たまま、呼吸音だけが聞こえてくる空間とか、弟はそんな世界で頑張っている。そこには生きる事の尊厳、ホスピス、最終医療、そういったもののリアルな現場がある。待ったなしで判断、対応しなければいけない職務がある。人の命の扱いを実際に体験しながら、人生の行きつく先を見て知っているんだ、ということを感じました。人が行きつく先の姿。僕がへらへら友人達と酒を飲みながら将来を語っている姿の、更に更に先の姿。生きているのか死んでいるのか解らない、判断する側も解らない状態。あるいはそこでジャッジを下さなければならない状態。延命という事の意味。尊厳死のあり方。
 弟は、人生を深く理解し得る環境で、何かを感じている。
 うーん、不遜な話になりますが、僕、医者だから、とか、金儲かるから、ってことで職業を尊敬する事があまり出来ないんです。この辺が社会不適合人格たるゆえんなのですが。でも、この生き死にの場に立って、日々そのドラマを目の当たりにしている弟の中には、僕とは全く違う死生観、人生観が生まれているのだな、と実感したのです。その死生観は、多分僕よりももっと達観したものであるだろう、という予測も踏まえて。
 そういうところをリアルに実感して初めて、「医者ってすごい」と思いました。
Sunny Day Macho
 そして、妹の事。
 僕は、妹が3歳の頃に東京に上京してきた関係で、妹の事をほとんど良く理解していない。
 もちろん、兄として妹の事は理解したいが、年も離れており、どうやってコミュニケーションすればいいのか全くわからないまま、年に1日か2日しか顔を合わせない妹と、25年近く関係を保ってきた。
 でも、最近ようやく、彼女の精神世界の一端を理解するキッカケを得たのです。
 次回はその話をば。
 妹は、いつの間にか小説家になっていた。

The dukes of September rhythm review

ショータイム!
 来る11月1日、武道館にライブを見に行きました。
 その名も「The dukes of September rhythm review」。
 多分ほとんどの方が聞いたことのない名前だと思います。はい、僕も今回の公演まで知りませんでした。簡単に言うと有名バンドのメンバーを集めた夢セッションということです。こういうの、ハズレも多いんですけどね。
 でも、そのメンバーたるや、一代のAOR好きからすると垂涎のメンバーで、今回は本当に大正解でした。いやー、不況が産み出した幕の内弁当的な盛り合わせと揶揄される事もありますが、こういう形でファンをまとめて集客してくれるなら僕は何も言いません。
 メンバーは総勢11人ほど居ましたが、その中で名前を張っているのは・・・
 今回の僕のお目当て。ドナルドフェイゲン

 このブログのタイトル「RoyalScam~幻想の摩天楼」の生みの親ですよ。初のお目見え。こんなに緊張する事はそうそうありません。もうこの方のファンになって20年、今回の機会を逃したらもうポックリ行くんじゃないかと不安もあり、万難排してはせ参じました。
 そしてもう一人のお目当て。マイケル・マクドナルド

 一時のフェイゲンの盟友でもあり、そのハーモニーを全世界にとどろかしたホワイトソウル歌手。この二人がアルバムどおりのメンバーで「Peg」を演奏してくれたら、僕はもう死んでも良いと真剣に思ってました。今回、セットリストを前もって見ていたのでこの曲を演奏してくれることは大体見当付いていたのですが、それでも、本当にしびれました。

 そして三人目はボズスキャッグス。「We are all alone」の大御所といえばお分かりの方も沢山いらっしゃるかと思います。

 今回はこの名バラードを封印しての参加でしたが、やはり日本での人気は本当に高い。一番拍手もらってたのは彼だったと思います。
 そのメンバーに、ジョン・ヘリントン、マイケル・レオンハートと、1ドラム1ベース、3キーボード2ギター、3ホーンの2コーラス3ボーカルというとんでもない贅沢編成。これでAORの名曲を連発されると、僕は失禁状態に陥ります。
 いや、本当に、身体がしびれて腰骨辺りからこみ上げてくるものがありましたよ。ライブってのは舞台芸術の一つ、その場で体感しないと、消えてなくなってしまうのです。その瞬間を楽しむ、言ってみれば男女の楽しみに近いものじゃないかと思います。
 一番、僕が心を打たれたのがこの曲。生涯で一度生で聴きたくて仕方なかった曲。まさか、本当に演奏してもらえる日が来るとは。
 「Next, SteelyDan’s song…」とのフェイゲンのつぶやきから、鍵盤を叩かれて出てきたのはあのフレーズ。そう「Kid charlemagne」でした。 

 もう、何にもましてこの曲が好きなんです。1976年作のアルバム「Royalscam」のオープニングナンバー。僕はこの歌詞を心に刻みながら今も生きてます。19で心打たれて、はや20年。あの頃から僕は成長していません。
 本当に、何より、ドナルドフェイゲンが今も現役で活動して、目の前で演奏してくれている、そのことが何より嬉しいのです。身体を硬くして前後にゆすりながら生ピアノを演奏する姿、全く日本語でコメントしない不親切さ、観客には一瞥するだけで演奏を楽しむシニカルさ。その全てが愛せる職人なのです。
 本当に、いけてよかった。楽しめてよかった。このメンバーのファンでよかった。
 真剣にそう思うライブでした。
 次に来日するのは、10年後か・・・というか早くSteelyDanのアルバム出してくれ。

青年期の最期か、壮年期の中盤か。はたまたタダの中年か。

交渉だったり、現場だったり。とにかく、組織であろうとなかろうと、一人で背負って立たないといけないんだね。うん。
 有難くも、11月6日をもって、生まれてこの方39年、そして結婚してから12年が経ちました。
 本当にこの不注意モノ、無頓着者、不配慮者、常識知らず、根性無し、甲斐性無し、が生きてこれたのはひとえに周りの皆様のお陰と素直に思っています。
 ほんとこの年まで、地面を這いつくばってる状態とはいえ、身を窶さずに生きてこれたのは奇跡だと思ってますし、要所要所で手を差し伸べてくれた方々が居たからに間違いありません。
 39歳。うーむ、あっという間に30代が終わりに近づいているんだなぁ。本当に速かった。
【1】一つの会社に勤め続ける30代だった。
 そんなの当たり前じゃないかと思われるかもしれませんが、20代の間、職を転々とし続けていた僕にとって、一つの会社にずっと在籍しているというのは結構不思議な事であり、感謝すべき事なのであります。30歳でメディアアーク、31歳からこれまでデジタルハリウッド。この2社に在籍させてもらい、今も在職中。ずっとご縁が続いて居る事が本当に有難い事なのです。メディアアークさんは在籍1年でも、いろいろと今までご縁を保ち続けてきました。
 そう、20代の頃に比べて、社会人の世界で長期的に付き合うことができるようになってきたのが30代でした。
 今更なんて低いレベルの話をしてるんだと言われそうですが、僕にとっては同じ会社に2年と居られない性格だったので、これは画期的な事なのです。
 なかなか気遣いが上手くなく、常に本心で本気でしか付き合えない社会性の欠片もない僕ですが、ここまで社会の一員としてやってこれたことがとても有難いです。
【2】病気と闘う30代だった。
 これもまあ、この10年を振り返るに避けて通れない話題です。家族の病気(うつ病をはじめとした精神障害)と闘いまくってきた30代でした。この1年に関しては僕そのものも疲弊して倒れてましたし(今は復帰してモリモリ頑張ってますが)。
 人の心がどこで傷つき、それを癒す為にどれだけの愛情を必要とするのか。そして身寄りがない地で暮らす事の危うさ。いろいろと自分の力量を試される事が多かったですし、そのどれにも応えられない自分が歯がゆい10年間でした。主に経済力ですけどね。やっぱり大家族、大一族を三代養える位の度量が必要です。(そう思うと上記1番と相反して、僕は事業を興さねばならなくなりますが)。
 同時に、ありとあらゆる方々の救いが心にしみる闘病期間でもありました(終わってないけど)。人ってやっぱり一人では生きてないのですね。30代で感じたことは、ホントそれに尽きます。
 自分が何故汲々としないで余裕を持った生活をしなければならないのか、金銭を稼いでなければいけないのか、家族を養ってないといけないのか、いまここで頑張ってないといけないのか。様々な事の理由が生まれてきた10年です。理由があるからこそ強くなったとも言えるし、理由があるからこそ20代程自由でもなくなったともいえます。そのどちらもふくめて、今の僕が居ます。
 そんな30代を過ごしてきて、いよいよ30代の集大成、そして青年期のラスト、もしくは壮年期の山場を迎えます。
 僕がこれからの一年、自分に思う事は「社会人として、大人として、人としての基本に立ち返れ」ということ。社会常識や知識、スキルといった事で人から大分出遅れてしまった僕ですが、あせっても身につかない。本道をしっかりやりなおそう。と。時間を守ったり、掃除をしたり。尊大にならず、謙虚に人に接する事、感謝の心を忘れない事。身近な人から大事にする事。それを改めて重要視していきたいと思ってます。
 そう、特に、ここ数年僕は尊大になってたと実感してます。「これだけ病気で苦しんどるんやからちょっとぐらい楽してもええやろ」「この僕に意見言えるんかコラ」といった心持ちが、どこかに少し会ったような気がします。下手に意固地になっていた、というか、自分の経験則だけで凝り固まっていた、というか。
 そのアタリを少しほぐして、改めて人としての初心者から、一歩一歩積み重ねていきたいと思ってます。
 と、同時に。
 もうすぐ初老を迎えるものとしては無謀かもしれませんが、ぼくはやはり「何者かである自分」になりたいと思っています。簡単に言うと、「名を成すもの」。
 給金をもらって仕事をしてるとき、ふと思ったんです。「あ、仕事ってのは裏方の僕が名をなそうとしないほうが全てが上手く行くんだな」と。まあ、事務方やってる人にとっては当たり前なのかもしれませんが。僕はそれでも「ヤマモトタスク」である事にこだわり続けてきたのです。それがぶつかる事も多かったです。今は、それに気がついて「何者でもない自分」としてサラリーマンを演じる事も大分慣れてきました。
 ですが、それだけで人生を終わる気は全くありません。中年になってお前は何を言ってるんだ、と言われそうですが、それでも僕は「何者か」となり名を成します。それがないと、つまらないじゃないか。
 父親になれるんならいいよ。父親というのは、まごう事なき、「その子の親」という素晴らしい名を成すわけですから。僕だってなりたい。なれるんならそれだけでもう充分なんです。でも、僕にはそれが出来ないのでね。その他のカタチで、この世に何かを残さなければいけないと焦燥感もあるのです。
 そんなことを考えながら、39歳の始めの夜を過ごしてます。
 やっぱり、背負うもの背負って、謙虚に、人生初心者として一歩一歩、名をなすものを目指して、頑張ります。
 ※多少酔っ払っており、悪筆乱文ごめんなさい。