フリーランスは360度どころか多次元評価をされている。

サラリーマン/雇われ人を辞めると、当たり前だけど上司や経営者というものが存在しなくなるわけで、それは社内評価というものがなくなるわけです。

だからと言って自分自身が世間から全く評価の目を向けられないかといえば、逆にありとあらゆる面で評価されてしまうわけです。それこそよく聞く企業の「360度評価基準」が矮小に見えてしまうレベルで(それはそれで仕方ないとも思うのです)。一挙手一投足一発言全部が評価対象になるわけです。サラリーマンもそうなのかもしれませんが、どちらかというと「ミスしたら出世に響く」というスタイルではなく「失敗したら次行けば良いので次々と手出せ足出せ。出さないのが一番の失敗だ」という視点で。むしろここまで幅広く評価目線に晒されると清々しい限りで、全く気にならなくなり「好きに生きて評価してくれない人がいればそれはそれでいいわ。評価してくれる人のところに行くわ。わはは」と開き直ることもできるわけですが。

そうそう、評価の重み付けを自分で設定することができたり、評価相手を自分でチョイスできるのも大きなポイントですね。

とは言うものの、それでも明確に評価が現れてしまうものも存在するわけでして。
その具体的な例が

1・毎月末の預金残高
通帳の収入みたら、自分がどれだけ評価されたかよく分かるわけです。世から声をかけてもらえなければゼロ。失敗してもゼロ。とてもわかりやすい。
あえて評価面談なんて設定する必要がないくらいシビアなわけです。

2・確定申告書類と税金
これも上記預金残高の一年バージョンですね。これを3年4年と積み重ねたらそれだけで銀行や公共からの信頼も増すわけで、はっきりと「社会の評価」に反映されちゃうわけです。

そして、僕のやっていることはその他にもたくさんの評価視点があり、そこに僕はゾクゾクするわけです。

3・完成した映像の自己評価
これは他者は関係ない部分なのですが、自分自身が作った映像に対して、自分で満足いくかどうか。これはもう、本当に自己満足の世界なのですが、それだって評価のうちです。どんなに金になっても人から賞賛されても自分で納得いかないものはやっぱり嫌なわけです。作りたくないわけです。なんだか今はツボを叩き壊す陶芸家の気持ちがわかります。

4・完成した映像の他者評価
これ、金額と違う部分で評価・賞賛・罵倒されるのですよね。それがまたひとつの軸として明確に存在するわけで。やっぱりいいもの作って賞賛されたいじゃない。金額は関係なく。でも、いいものを作り続けると、それは確実に経済にも反映されていくのです。作品が良い評価を頂けたら、半年後にお金になります。これ、実体験。

5・イベントの盛り上がり
VJだのラジオだのやってると、作品とはまた別に当意即妙の表現で目の前のお客さんが満足するかどうかも、また「作品の質とは関係ない」部分で大きく動いたりもするのです。これもまた評価の一軸だし、大事にしなければならないものだと思っています。

6・一緒に作っていた制作仲間、クライアントの満足
これもまた一緒。お金とも作品の質とも盛り上がりともまた違う、一緒に納品を迎えた仲間たちと「またこのメンバーでやりたいね」と言える関係になれたかどうか。これもまた評価の一つなのです。そして結構大事なポイントです。むっつり気難しい顔して高尚な作品作るより、仲間と楽しく良い作品を、僕は作りたい。
そして、「作品」という非人格な存在もまた、仲間の一つだと思っています。たまに「制作者は作品の奴隷」という言葉を聞きますが、僕はこれが苦手でして。作品もまた、僕らに敬意を払ってくれる存在の一つなのです。

そして、僕にはもう一つ、大事な評価基準があるのです。

7・僕の受け持ったクラスの受講生がどれだけ満足して、素晴らしい作品を提出してくれるか。

僕の実家は学習塾。そこでは明らかに「受験結果」というものが毎年出るわけです。そして僕が10年スタッフをしていた某スクールでも「就職実績」や「卒業作品」というものが毎年出るわけです。楽しさを伝えて、その楽しさを受け止めてくれて、成果が生み出される、という仕事。この醍醐味。

今、僕は、映像やモーショングラフィックスの学校で講師をさせてもらっています。
そこでは、受講生の皆さんが一生懸命身につけた知見をもとに、作品を作り出してくれているわけです。その、作品にこそ、僕が「この世に何を伝えられたか」の評価が僕自身に下されるのです。
今日は、モーショングラフィックスの学校「BYND」のAfterEffectsクラス「モーショングラフィッカーコース」の修了作品発表会です。
僕は何を伝えられたのだろうか。

でも、そんなことはまたどうでも良いのです。ここまで書いておいてちゃぶ台ひっくり返しますが、自分の評価なんざどうでも良い。
素晴らしい作品を見て喜ぶだけなのです。
きっと、今日もまた素敵な1日に違いない。

Happy Birthday to me!

しつこくもHappy Birthday to meな一日。
いや、もう、嬉しいことがあり過ぎるので許したってくれ。この僕を許したってくれ。

実は結婚記念16周年でもあるという一粒で2度おいしい贅沢な日でした。
(記念日が1日少なくなったとかみさんにはずっとブーブー言われておりました)

そんな中、今日は更にもう一つ嬉しい1日でもありまして。
講師を務めさせていただいている「BYND」のAutumnキャンプ(秋クラス)卒業製作発表会。
たくさんの受講生が一所懸命に作った作品をプロジェクタとJBLのスピーカで鑑賞し、その後に作品と受講生について、僕がまるで我が子のように自慢げに誇らしげにプレゼンするという素晴らしきひととき。そして卒業証書授与。

いや、本当に幸せなのですよ。こんな素晴らしい時間はなかなかありません。1人につき1時間づつ語りたいくらいなのですが、さすがに制限時間もあってなかなか実現はできません。作品はこの後Webサイトにも掲載される予定なので是非皆様ご鑑賞ください(http://www.hlywd.co.jp/bynd )

そしてスタッフの皆様からはサプライズケーキ!
幸せな43歳ですみません。ほんと僕の人生、30〜40歳を全部足して1年にまとめても敵わないくらいに充実させていただいております。
でもまあ、それなりに苦労もしてきちょるから、これからの人生充実してもバチは当たらないと自己解釈してこれからも充実してまいります。

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そして三崎から城ヶ崎へドライブ。

なんだか連日「世界に感謝仲間に感謝みんなありがとう」と一昔前のジャパニーズヒップホップなことばかり続いているが、まあそうなんだから仕方ない。年を取ってしまったということにしておこう。20年くらい前は髪の毛を立てたりバンダナ巻いたりして「反体制!Fuck!蝋人形にしてやる!」とPunkなことばかりしてたのに。してません。髪の毛が自立しません。

10年前を、そして独り立ちの第一歩目を。その間も今もずっと、最大限に応援してくれる方々がいる。
昨日今日と、それを改めて知る機会を持ちました。

昨日は恩人からの暖かく長いメールにて。
どんな思いで、どんな気持ちで支えてくれているのか。
普段ストイックな方であるからこそ、その一言一言が重く響くのです。
人を応援する、応援されるとは、ものすごいことなのだ。
そして僕は思いに応え、自分で立っていかなければならないのです。
今日は友人と男二人、ふらっと誘って朝から回ったドライブで。
三崎を回り、マグロを食べて城ヶ島へ。
平日に1日付き合ってくれることの重要性がどんなに大きいことか。
大の大人が酒も入れずに1日仕事抜きで遊ぶって、なかなか無いのですよ。芭蕉と曽良のように。弥次喜多のように。
自分で立ってる者同士で無いと生まれないバランスもあるのです。

そう、自立。
ちなみに僕の好きなジャパニーズヒップホップは、常に研究 常に練習 知恵を結集し君をレスキューしてます。
感謝とともに、自立することが前提にあるのです。

前出の通り、僕にとって立たないのは髪の毛だけです。
だまれ。それ以上は語るな。公共の場だ。

波濤が響いて鳶が舞って、夕焼けがあまりに朱く綺麗で。
それが全てを語るのです。

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久々に、ブログの体裁を整えなおしました。

久々に、ブログの体裁を整えなおしました。

いや、ね。僕にとってはブログがとても重要なアイテムなのですよ。かれこれ16年、途切れずに記載してきた重みを我ながら感じるのです。そりゃ27歳当時書いてた文章を開陳し続けることの恥ずかしさたるやないのだけど。でもそれも僕だ。今も僕だ。世の中の全てが俺を見よ刮目せよ僕に興味ない人間は二度とインターネットに接続するなという不遜極まりない態度でこれまでもそしてこれからも頑張るのです。

これまで、ネット上に限っても、テキストサイトやMixi、Facebookと自分のフィールドを転々とすることに対して、少し疑問を感じてまして。

自分の書く文章は、あくまで自分のメディア、いわば自分の雑誌のようなトータルな存在にまずトーナルコードがあって、そこから寄稿という形で他のメディアに乗せるのが筋ではないか、と感じていたのですね。

なので、基本的にはBlogがベース。ここにまず書く。

いや、それって精神的なものではなく、2つの理由があるのですよ。

たとえば有名SNSのFacebookを例にとると

1.Facebookにたくさん投稿するとうっとうしがられる。

いや、僕ね、思ったことを次々と吐き出さないときりがない人間で、その意味では1日に20も30も投稿したくなるわけです。ほっといたら無限に投稿するのです。

でも、様々な方々の文章と同時に流れるFacebook上では、一人の人間が書き続けていると鬱陶しいことこの上ないでしょ。僕だって他の方々の文章と自分の文章が並ぶのは本意ではない。

なので、自分のブログで好き勝手書く。

そして

2.Facebookに長文を書くとうっとうしがられる。

これまでも「たすくさんはFacebookに長文書くよね」と幾人かに言われたことがあります。特に悪意をもって言われたわけでもないのでしょうが、少し引っかかってまして。

「なんや長文書いたらあかんのか」という思いが常にありまして。

短文にして読みやすくして人の時間を奪わないようにしましょう。みたいなブログ論もあるけど、僕は真っ向から反対するのです。

「読みやすいか読みにくいかどうかではない。僕が書きたいかどうかであり、書きたい量は誰に制限されるものでもない。結果、僕の文章に興味ある人は読んでくれるかもしれないが、読んでくれない方はさようならで仕方ないビジネスじゃないんだから」という思いです。

そう、これが商業雑誌と個人メディアの大きな違いです。僕が主体です。誰に依ることもない、僕が好き放題遊んでいることに価値を感じてくれる方への僕からの鬱陶しいくらいの愛なのです。

でもFacebookに書くといやでしょ。いやでしょ。鬱陶しいでしょ。

だからってInstagramやTwitterは長文書けないし。長文が書けるメディアそのものが少ないのよね。時代がそっち方向じゃないというか。でもね、時代とかどうでもいいのです。僕が書きたいから、書きたい分だけ、書きたいように書くのです。

それゆえに、ここでひたすらグチグチ書き連ねるのです。

NinjaSlayer

昨日は制作発表という名の卒業式だったのだが、その1時間前までは新しいクラスの初回授業であった。
そして明日はまた新しいクラスの初回である。たしか先月も制作発表・卒業式があり、その翌日は初回授業であった。
何を言っているかよくわからないが全て真実である。
そのため、今日はニンジャスレイヤーを読み、明日に向けてセンセイソウルを貯めてジツを扱えるようにザゼンを組むのである。
アイエエエエ!

自動代替テキストはありません。

女子より深刻…! 飲食店で見かける「マウンティング男子」の切なさ

これは当たり前だ。男子たるもの、マウンティングが本懐に決まっておる。(by泉修一)

いつか別書きしたいと思っているのだけれど、ランパブで働いていた時、日々目の前で様々なマウンティングが繰り広げられるのを拝謁し「マウンティング男子」の健気さいじらしさに心打たれたものでした。(そして閉店後は女性のマウンティング合戦が始まるのだがこちらは怖すぎて聞いてられなかった)中年になろうが老人になろうが社長になろうが政治家になろうが、若い子の気をひく為に、そして社会で賞賛を浴びる為に、男はどんなポジションにいようともすべからく「俺すごい」「俺すごい」「俺すごい」「俺すごい」をなんと衒いなく戦わせることか。女性のマウンティングを緻密な情報外交戦略とするならば男子のマウンティングはただの殴り合い。

それがまた愛おしくも、衒いを感じる自分の幼さに辟易するのです。子供の頃にもっと背伸びしてマウンティングに参加して、礼儀作法を知っておけばよかった、と感じるのです。

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「この頃、都に流行るもの」で始まる『二条河原の落書』。室町時代、京都の二条大橋付近に掲げられたとされる落書(風刺文)である。そのなかに「賢者ガホナル伝…
CITRUS-NET.JP

手紙

IMG_2843ずっと、仲良くさせていただいている素敵な方と、公園で待ち合わせをし、食事をし、雨の中を楽しく歩き、本屋を散策してきた。

こう書くとデート以外の何物でもないが、その通りなので許してほしい。

僕らは幸せに生きることを、許されて生きているのだ。

いつも、感謝の気持ちを忘れない。

東海道、細雪、Prince、お祭り(これは僕の一方的な話題)、経理や財務話題に尽きることはない。素敵とは、教養溢れて洒脱に生きることを含有している。

その中で、ふと手紙についての話題があった。

これまでにもらった手紙、送った手紙、その機微、感情について。

もともとは、谷崎潤一郎の往復書簡の話題から広がったものだった。でも、自分自身を振り返ってみて、書簡遍歴を見直してみたくなった。帰宅してから、僕は本棚の奥から書簡箱を一つ、取り出した。

僕が二十代の頃は、まだデジタルもそんなに発達しておらず、コミュニケーションは主に電話や手紙だった。そして、僕は(今もそうだが)人の縁に恵まれていた。結果、僕は多くの方と書簡を交わしてきた。

今、改めて思う。もっともっと、向き合ってこれば良かった。こんなにも手紙を交わしてくれる方々がいたのだから、もっともっと僕も書いてくれば良かった。

何より、僕は自分の筆跡が嫌いで、手紙を書くことが憂鬱だった。自分の字が嫌い、ただその一点において。僕自身が「男が手紙を書くなんて」「他者に読まれたら恥ずかしいじゃないか」という棒にも箸にもかからない自縄自縛な古い価値観に囚われていて、目の前の大事な人たちとの言葉の交わし合いを避けてきたのだ。ああなんという大バカもの。字くらい練習したらいくらでも綺麗になるやんか。たくさん書けばいいやんか。今、若い頃の自分にあったら「ぼくのかんがえたさいきょうのひっさつわざ」を自分自身にかけまくりたい。どんなものか知らんけど。

僕が頂いた手紙を数年ぶりに箱から出してみて、改めてその価値に気がついた。僕がもらったこの手紙たちには、筆跡や便箋、封筒に至るまで、その全て、細部に至るまで、愛情や思いやりに溢れている。便箋を選ぶところから、ペンを紙に触れる瞬間、投函する瞬間、みんなは何を思ってくれていたのだろう。それを考えると熱いものがこみ上げてくる。僕はそれほどまでに素晴らしいものを頂いていたのだ、こんなにも素晴らしい往復が自然と交わせる文化の中に生きていたのだ、と。デジタル埋没の毎日を送っている自分自身、これほどまでにメールやLiNEのやり取りで心を動かすことがあっただろうか。

(いや、逆にデジタルでも感動するやり取りを追求することも、僕らの使命だと感じながらも)

いや、過去ばっかり見ていても仕方ない。これからでも書けるじゃないか。書こう。恥ずかしがらずに、きちんとコミュニケーションを取っていこう。メールやメッセージに限らず、僕らはこんなに素敵なコミュニケーションツールを100年以上前から手に入れていたのだから。そして、この手紙たち、20年以上前のものでも、しっかりと僕の手元に残っている。サーバが飛んだとか、そんなチャチなものでは消えていかない。少しづつ滲んでいくボールペンの筆跡さえも、感情を震わせるのだ。

この歳になると、僕も自分がこの世を退場する時のことを(ほんのわずかだが)考える。

その時は、この手紙たちも一緒に焼かれたい、と願っている。

ありがたくも、僕はいろんな宝物に恵まれているけど、その中でも書簡集は特別なものだ。

どこにも印刷されていない、誰も持っていない、どこにも公開、リリースされない、僕だけのコンテンツ。

まるで、幼稚園児が自分で作り上げた、自分だけの飛行船のような。

 

はたして営業とは何か

あなたのところに出入りする営業マンが、良い営業かどうかを見抜く方法


そうそう、お仕事関係において、他社の製品を進められるかは、僕もよく目を(耳を?)凝らしてました。
その頃は
・他社の製品を薦められる懐のある組織かどうか
 (=上司が許してないと、営業マンは他社の製品を薦められない)
・他社の製品を進めるフリをして結果自分のところの商品を進めていないか
 (=顧客思いでない/最終的に自分の利益を考える)
・自分のところの商品が絶対万能だと思っていないか
 (=全ての問題点を解決できる商品など存在しない)
を重点的に見てました。
(じゃあ、今はどこを見てるかなんて、そんなコトいえません。むしろ見てません)
僕らの問題を解決してくれるのか、自分達の利益を考えてるのか。そりゃ、営業してるのだから利益を求めてるのでしょう。それくらい解る。でも、何に対して利益を生み出すのか。
問題解決。感動。劇的変化。どれもあるけど、心のうちは先方に。そこに他者製品かどの業界か自分が何の専門かなんて関係ないのよね。
「わが社の製品だけが、あなたの問題をズバリ解決するツールです」なんて言って、それが真実になることなんて、マスメディアで多数に向けて言って一人に刺さるか、数万分の一の出会いでしか起きないと思うのですよ。
全員に必中の商品があったら、むしろ僕が売ります。
その商品を教えてください。それが僕の問題解決です。

コツコツ飛ぶウサギの恐ろしさ

この感覚。僕も大学生になったばかりの頃、実感した。
ウサギでなく、更に亀のコツコツさも持ってない僕は、それでも立ち向かう方法を自分で見つけないといけなかった。
年を重ねてくると、人との勝ち負けとは別に、コツコツやることの面白さや足跡の確認、亀より遅いなりの振る舞い方も少しづつ理解してきた。
興味のあることへの「瞬発的偽ウサギ」っぽい傾向はあるけれど、基本は寝亀。ゆっくりすすみます。
(以下引用)
僕,ウサギとカメの話って,実は信じてなかったんですよ。いくらカメがこつこつ進もうと,ウサギが本気を出せばあっという間に追い抜けるだろうと思ってました。ところが大学に行くと,特に東京大学法学部なんかには,コツコツ跳ぶウサギがたくさんいるんですね。もう誰も追いつけない
http://kuronekonotsubuyaki.blog.fc2.com/blog-entry-815.html
弁護士に限らず、どの世界にも「コツコツ跳ぶウサギ」は存在する。一つは「自分が限りなく『コツコツ跳ぶウサギ』に近づける世界」を選ぶこと。もう一つはウサギたちの中に一度は身を置き、同時にコツコツ亀の中にも身を置いてみること。自分の立ち位置がわかります。