カツラについて。更に追記。

IMG_2483%20%281%29.jpg
写真は僕のカツラを弄んで好き放題にいじりまくる職場の森内。その悪意の無い行動は相変わらず。そしてカツラはそんな風につけるものじゃない。つむじの位置はそこじゃない。
まあ、これは職場での日常なので、今更なんという事も無い。慣れたものです。
で、改めてまたカツラの事について連続で発言をしてしまうのですが、こればかりはどうしてもいっておかなければならない、と思って、敢えて筆を取ったしだいであります。
カツラに関する記事を書いたときに、様々な反響がありました。基本的には好意的に受け入れてくれる方、(何故か)僕の度胸を讃える方、ポジティブなご意見が多いのが現状です。
でも、もちろんながら、「こういう事を放言するのは如何か」「他の人の気持ちも考えなければならない」という意見も頂くのです。ええ、こういう意見がいただけること自体、私も承知の上、記事を上げました。
それでも何故このカツラであることの露出をするのか。
僕にはここに大きなポリシーが掛かっているのです。
まず、僕は何より、自分の選択肢・決定権を奪われる事を極端に嫌います。自分の人生は絶対自分の意思で決めていきたいと思っています。(と同時に、環境に流されている事自体も嫌いじゃなく、それは環境に漂うと言う自分の意思に沿っての行動なのです)
で、それがどうしてカツラに影響するのか。
それは単純。皆にばれないようにカツラをかぶることによって、僕には「ばれたらどうしよう」という弱点が生まれます。そして、「ばれないようにする為に」日々高額なカツラに買い換え続けないといけないという経済的な部分までカツラバイヤーに握られてしまうのです。言うなれば覚せい剤中毒者のようなもの。薬がなくなったらどうしよう、ずっと買い続けないといけない。
これ、僕が最も唾棄する生き方なんです。
僕は、カツラだろうがなんだろうが、嫌になったらやめる。はずす。着けたくなったら、つける。
何かを隠す為にぼくの労力を使う気などさらさらない。
自分自身が生きるうえでの選択権、決定権、人事権、決裁権は全て僕が手中に持つのです。
(その上で皆様に感謝し、皆様のご意見を募って方向を多少ずつ調整して生きていくのです)

わざわざ自分の弱点を作って、それを隠す為に大金をつぎ込むなんて馬鹿らしい生き方やってられるか。それくらいなら、つけてるメリットも甘受して、そうでない素の姿も楽しんで、生きてやる。
そのために、僕はカツラである事をある程度露出し、みなさんに「かぶっている」事も伝え、そのうえで僕自身が「今日はかぶる」「今日はかぶらない」というチョイスをする事で自分が頭髪のコントロール権を持つ事を自覚するのです。
なんだかちょっととがった文章になってしまいましたね。ごめんなさい。
とりあえずこの文章に対する反論は「そんなメンドクサイ事を言ってるからお前はモテないんだ」の一言です。看破されてます。なので、これ以上の反論は受け付けませぬ。モテないという意見以上に僕が傷つく反論はございませんので。

ヘアピース 言うなればカツラ。

156400_612555718760953_1895085713_n.jpg
年齢的に、髪の毛が薄くなってきた昨今。バレンタインに嫁様からヘアピース(部分かつら)を頂きました。最近、といっても半月くらい前ですが。毎日装着してますが、あまり見破られてはいないようです。最近の技術はすごいなぁ。ちょっと懲りだして、若い頃に出来なかったヘアスタイルをヘアピースで楽しみ始めようかと思ってます。
18297_612585772091281_1065353119_n.jpg
そして更にに引き続き。バレンタインでは嫁様以外からも、今年は「TENGA」を頂きました。知らない人はお友達に聴いてみよう!

TLCライブ

相変わらず仲のよいJim,Katyらのミクスチャーバンド「TLC」のライブにカメラマンとして参戦。いつも画を撮る勉強にさせていただいている&楽しませてもらってます。
思った事。
年齢関係なく、生活の糧を稼ぐナニワイ以外に、スポーツか表現の最低でもどちらかには熱を帯びて無いと、人間は荒んでいくな、と。音楽でも、小説でも、写真でも、なんでもいい。そちらにばっかりバランスを書けるわけにもいかないのだけど。全うな社会人をやりながら、全うな表現者へ。これぞ21世紀型クリエイティブバランスコンテンポラリーアダルト。略して21CBCA。こんな人間でありたい。よし、ギターでも買ってこよう。(ちょっと本気)

大人ってなんだろう

Dream of the Sirens
25歳のときに「大人ってなんだろう」と思った。30歳のときにも「大人ってなんだろう」と思った。35歳になっても思った。多分このまま行けば40歳でもそう思う。きっと、50歳でも60歳でも、80歳でもそう思うんだろう。それが人生か。
それは大人になる事を拒否するわけじゃなく、「僕は大人になった」と自覚できる程に感受性を鈍磨させたくないということ。30代後半になってもこういう事言ってるから気持ち悪い中年になるのだ。Fuck!

卒業論文

僕が大学の卒業論文を書いてた頃にはまだネットがなく、今で言うコピペ問題は存在して無かった。もしネットがあったとしても「俺の話を聞け!」衝動の強い僕は多分コピペせず自分の思いを論文に叩きつけてた事だろう。
 実際にそうやって、原典も見ないでただ3日間で下書きもせず100枚書いた結果「貴方の書いたものは論文ではなくエッセイです」と教授に酷評された(実話)。それでも通してくれたけど。氷室先生元気かなぁ。そりゃ論旨もなにもあったものじゃない。若かったとはいえ、よく出せたな。因みに研究対象はヘミングウェイでした。
未だに、論文の書き方がよくわからない。ふとそんなことを思い出しました。

Facebookの

20130209.jpg
これ。このブログにもつけてるんだけどさ。
時には「いいね」押してくれた人の名前が出てくる事もあるんだけど、時にこういう表示になる。誰なのかわからないモヤモヤ感と、誰かわからない人とつながったこそばゆい感。どっちもあって心地良い。

快楽主義の哲学

社会にでて15年近く。この年になって、まだこういう書に感銘を受けているところが僕の駄目人間たる所以だろう。でも好きなものは好きなんだからしょうがない。僕はやはり文明的、経済的に生きるより、文化的、原始的に生きることが好きなんだ。で、そんな事はここに書いて宣言しててもしょうがないのだ。そのまま生きて行動するのみ。村上龍の「全ての男は消耗品である」を、圧倒的な知性と知識、信念を持って構造化したような面持ち。この書の前では、「全ての~」も児戯のように見えてしまう。(とはいえ、僕は村上龍も好きだけど)
感想を書くより、見出しを並べてその世界に没入して欲しい。
第一章 幸福より、快楽を。
・人生には、目的なんかない
・幸福は快楽ではない
・文明の発達は、人間を満足させない
・「快楽原則」の復活を
・幸福は、この世に存在しない
第二章 快楽を拒む、けちくさい思想
・博愛主義は、うその思想である
・健全な精神こそ、不健全である
・「おのれ自身を知れ。」とは愚の骨頂
・動物的に生きること
第三章 快楽主義とは、何か
・死の恐怖の克服
・退屈地獄からの脱出
・隠者の思想
・政治につばを吐きかけろ
・快楽主義の落とし穴
・好色ということ
・人工楽園と酒池肉林
・東洋的快楽主義と西洋的快楽主義
第四章 性的快楽の研究
・量より質を
・最高のオルガスムを
・情死の美学
・乱交の理想郷
・性感帯の拡大
・快楽主義は、ヒューマニズムを否定する
第5章 快楽主義の巨人たち
最初の自由人──樽の中のディオゲネス
・酔生夢死の快楽──酒の詩人 李白
・ペンは剣よりも強し──毒舌家 アレティノ
・生きる技術の名人──行動家 カザノヴァ
・リベルタンの放蕩──サドと性の実験
・調和型の人間──ゲーテと恋愛文学
・遍食動物の理想──サヴァランと美食家たち
・血と太陽の崇拝者──反逆児 ワイルド
・ユーモアは快楽の源泉──奇人 ジャリの人生
・肉体が夢をみる──コクトーとアへン
第6章 あなたも、快楽主義者になれる
・わたしの考える、快楽主義者の現代的理想像
・誘惑を恐れないこと
・一匹オオカミも辞さぬこと
・誤解を恐れないこと
・精神の貴族たること
・本能のおもむくままに行動すること
・「労働」を遊ぶこと
・レジャーの幻想に目をくらまされないこと
・結び──快楽は発見である
もう、これだけで僕の言いたいことは終わってしまった。プリミティブ!何度でも言うが、やはり僕は、文明的でなく、原始的かつ文化的に生きていきたいし、幸福より快楽を基準に日々を過ごしたい。本書は僕の思っていた事を流暢な言葉にしてくれた。ただその分、新しい発見や視座の広がりは薄く「自己の正当化」に終始してしまった事も否めない。それは全く澁澤龍彦の責任ではないのだけど。精神の貴族たれ!
快楽主義の哲学

2/2~2/7

普通の日記です。
今日は振替休日。夜はちょっと東京の西側まで行ってきました。
会社の元同僚、妹のように可愛がっていたcoomixことヨコイクミコから連絡がありました。ギター一本でライブをやるから来て、と言われ、あいよ、と相変わらずの腰の軽さで荻窪へ。彼女に会うのもかれこれ5年ぶりでした。どこが妹のように可愛がってた、だ。いや、ほら、今はFacebookとかTwitterとかLineとか、連絡取り合ってなんとなくつながる手段が沢山あるじゃないですか。今回もヨコイとはTwitterとLineでやりとりしながら、再会につながったという手合いです。
それにしても、もうひょっとしたらご縁が切れてるかもしれない、と思ってた人とまた再会できるのはいいですね。これぞソーシャルメディアのノンビジネスな側面だと思います。あれこれ意見はあると思いますが、僕はこの薄いつながりからまた縁が復活する感じ、とても好きです。世の中はうまくバランスが取れるように出来ています。そして僕が大事にしたいと思った人とはうまく?長続きする縁ができている。不思議なものだな。
ライブ自体は最後まで参加して、反省会(打ち上げ)の二次会までお邪魔してきてしまいました。ヨコイ以外の皆様全員初対面というアウェーの中、またいろいろご縁をつくってまいりました。
2/2(土)
僕は土曜日勤務の仕事をしている関係で、この日は出勤でした。
とりたてて何かあったわけではありませんが、とても天気のいい昼下がり、ふと僕は旧来からの友達、ゆり茶に会いたくなって、仕事帰りに彼女が参加している写真展「アンデパンダン展」@信濃町アートコンプレックスセンター に顔を出してきました。
在廊してる事は告知されていたので、無事彼女と面会する事もでき、改めて穏やかな時間を過ごしました。ふと昼下がりに会いたくなった人に、ふらっと会いに行く事ができるのも、東京に暮らす楽しみの一つだと思います。どんなにメディアが発達しても、直接会う事の嬉しさに勝るものはありません。さっきソーシャルメディアを褒め称えたかと思えば、この扱い。いやいや、これは特性を活かす行動に他なりません。話が逸れた。
それにしても、あの展覧会の空気ってなんでこんなに楽しいのでしょう。
ライブペインティングをやっていたり、その場でストリーミング中継をしていたりと、僕の若い頃とはコンテンポラリーアートの表現手段も広がっていましたが、昔も今も、若いエネルギーを表現に昇華させているあの空間、僕はとても大好きです。
そう、ライブを聞きに行ったり、展覧会を見に行ったりして、改めて思いました。僕は若い頃から、こういう環境が好きだったんだなぁ、と。いつからアート、表現の世界と切り離された現実の社会を生きるようになってしまったのでしょう。これを老いというのか、生活に追われてる、というのか。
アーティスト、を目指していたわけではない。だけど、その周辺で生きる人間ではありたかった。もちろん、今だって諦めている訳では無い。だけど、大人になるにつれ、背負うものばかりに目をやらなきゃいけない時期もあったし、また商売そのものが面白くなってきた時期もあった。なんにしろ、表現から少し距離を置いていたのも事実だ。
今週は、表現の世界で楽しんでいる二人の女性と再会し、改めてエネルギーをもらった次第であります。僕もはげてる場合じゃないね。

ランジェリーパブの思い出(2)

その年は、取り立てて大きな事件が起きた覚えが無い。
覚えている限りでも、Jリーグが開幕したり、室内スキー場「SSAWS」がオープンしたり・・・。経済も文化もまだまだ日本の勢いが失速する前だった。正確にはバブルが崩壊した直後。でも、日本人にとってはサリン事件も阪神の震災も経験する前の、おおらかで夢の有る時代だった。
それが、1993年。

僕はその年の9月から、赤坂見附にあった「ランジェリーパブ・クラブスマイル」でウェイターとして働いていた。アルバイトの経験も、大人の社会に触れた経験も無い19歳の僕は、大人の社会のルールやマナー、そして力の入れ方と抜き方、抑えなければいけないポイントなどを必死で覚えなければいけなかった。
まずはトイレ。店内に一つしかなかったトイレは、従業員も同じトイレを使用するしかなかった。そこでのマナーは「お客様の気配を感じたらトイレを中断してでもすぐ外に出てトイレを空けろ」。
そんな無茶な、と思うかもしれない。でも、結論から言うと、トイレの中から外の気配を察知する技術、もしくは気配取り、は、人間でも可能な技だった。壁を越えて、人が近づいてくる気配、というのは確かにわかる。そして、それは音で察知するわけじゃない。店内には大音量でユーロビートが流れ続けていて、お客様の足音は全く聞こえない。「誰か来たかも知れない」という第六感だけを信用して、即座に僕は手を洗い、その場を去る準備をした。女の子たちはトイレの外で、おしぼりをもってお客様の用足しが終わるのを待っている。彼女達に会釈し、残尿感を持ちながらも、僕はすぐに持ち場に戻るのだった。
そして、灰皿。狭い店内、15ブロックほどしかない少ない客席の店内でも、灰皿の数は200以上用意されていた。角丸四角形の、小さなガラス製の灰皿群。そして驚くべきスピードで灰皿が使われていた。煙草一本でも捨てられると、どんどん入れ替えられ、店の一角へと運ばれていく。
その灰皿を、すぐに磨いて準備するのもウェイターの仕事だった。ポイントは、灰皿の角。使用済みのおしぼりを使い、角をえぐるように拭いては積み上げていく。
その他、ビールの持ち方、お盆に載せたビールの運び方。女の子達とのチェックの合図の交わし方。時にはウェイターもお客様に気に入られる事がある。そんなときは、席に座って話に参加する必要がある事も。些細な、細やかな作業ばかりだが、そういう作業の一つ一つに合理性、作法、方法論がある事を僕は覚えた。お客様へのお詫びの仕方、なんて事もそこで学んだ。アイスペールを運んでいる最中に、僕は誤ってお客様に水を頭からぶっ掛けてしまった事があったのだ。その瞬間の店長の飛び出し方と土下座の仕方を僕は今も覚えている。どんなスポーツ選手よりも俊敏な動きを、店長は見せた。そして一緒に僕も土下座し、許しをもらった。そのあとで、そのミスで僕は店長から一切とがめだてを受けなかった。「休憩行ってこい」と尻を叩かれて煙草を一箱もらっただけだった。マネジメントの要諦が、ここにあると思った。
休憩はいつも、店の入口からすこし曲がった路地で、座り込んで煙草を吸うだけだった。
そこで僕は、店の女の子「美奈緒」と会話を交わす事が多かった。
女の子達は特に休憩という概念があったのかどうか覚えていないが、僕が休憩を取る時間帯と、彼女が入店する時間帯が重なっていて、彼女に挨拶する事が多かった。21時半前後の時間帯。
「ヤマちゃん、寒いねー」
僕の名前「たすく」は特徴的なため、苗字「山本」からあだ名をつけられたことはほとんど無い。この店でついた唯一の呼び名「ヤマちゃん」は唯一の、苗字からの呼び名だ。39年経った今でも、これは変わらない。
「うん、寒いねー。今日も遅番?」
「学校が終わるのが遅くてねー」
「そっか。がんばってねー」
他愛もない会話。どこの学校に通っているとか、どこに住んでいるとか、更には本名は何なのかとか、僕は美奈緒の事を一切知らなかったし、知ろうとしてはいけない気がしていた。女の子達とは、業務上の関係という以上に、プライベートに踏み込んではいけないと思っていた。多分、それはマナーとして間違いではなかったのだろう。お店では僕は「ヤマちゃん」であってそれ以上でもそれ以下でも無い。どこに住んでるとかどこの出身とか、彼女達も僕に興味が無い。一人のウェイター。アノニマス。でも、その関係性だからこそ、女性とあまりコミュニケーションを取るのが得意じゃない僕も、フラットに話をすることができた。
彼女はクローズ後も、話しかけてくれる事が多かった。プライベートは踏み込まない、というさっきの話と矛盾するようだが、どの女の子達も、彼氏の話、友達の話、将来の話の3つだけは、踏み込んでも話してもいいルールがあったように思う。不思議なものだ。でも、逆に言えば、この3つの話題があれば、充分に相手の人間性がわかるし、コミュニケーションが取れる、ということでもあった。
彼女は特に僕に興味があった訳じゃない。それは今思い出してもよくわかる。ただ、近くに居た、年の近い、話し易いウェイター、というだけのことだ。彼氏と喧嘩していること、その原因は煙草の火の消し方だったこと、明日は青山に買い物に行く事、一緒に行く友達は中学時代からの親友だと言う事・・・その会話の節々から、僕は大学の女友達とは違う世界に住みながらも、同じ興味・同じ悩みを抱える女の子達の距離感、空気感を感じ取っていた。恋愛・友達・将来。その3点だけでも、様々な彩りの女性がこの世の中に居る事を知った。この、多層に重なった女性との距離感の取り方は、翌年に初めて僕が女性と付き合うことになったとき、大きな効果を発揮した。一途になりすぎたり、俯瞰しすぎたりしない、等身大で女性と付き合う、という意味で。
「好きな芸能人とか居るの?」
「オジサン好きでー。逸見さんとか好きー」
「そういえば、よくオジサンに指名されてるよね」
「それは店が決めてることだからー」
今で言うと誰だろう。思い出補正や当時の化粧文化などを計算に入れると・・・篠崎愛みたいな感じだろうか。ちょっとふくよかな美奈緒は、中年男性からよく指名されていた。指名数自体は決して多いほうじゃなかったが、接待の場や中年の集い?のような客層の席にはよく付いていた。
彼女はよくサッカーの話もしていた。僕はサッカーが全く解らなかったので、取り合えず話を聞いて合わせる事しか出来なかった。アルシンドや井原、柱谷という名前が良く出ていた気がする。それがどんな選手なのかは、今もって僕はわからないのだけど。
一番よく覚えているのが、少し暇な店内で、美奈緒を初めとしたサッカー好きな女の子と店長が和気藹々と、少し興奮しながら話をしていた時のことだ。
カウンター席の近くで、「今、一点勝ってるってよ」「今日勝てばワールドカップだって」「もう決まったようなもんじゃん」と客待ちの女の子が話をしている中に、勝俣州和に似た店長も少し割って入るようにして、サッカー談義をしていた。アズマもその日は出勤していた。流行りものを捕まえるのが得意な彼も、その日はサッカーの話題を店長と交わしていた。全くもってスポーツ、特にサッカーに関しては門外漢な僕は、みんなが何に対してそんなにアツくなっているのか、よく解らなかった。
30分の休憩に出て行ったアズマは、煙草を吸いながらラジオでサッカー中継を聴いていたようだ。そわそわと落ち着きが無い店内で、みんなはアズマが試合結果を教えてくれるのを待っているかのような空気だった。
突然、アズマが階段を駆け下りてきて、店内に戻ってきた。
「取られた。ロスタイムで取られた。同点だ。行けんくなった!」
店内にサッカー愛好者の悲鳴が上がった。数少ないお客も「え、サッカー負けたの?ウソ」とその話に食いついてきた。僕を除いて、店内の空気が一変した。
俗に言う「ドーハの悲劇」だった。
その日を境にして、美奈緒は出勤しなくなった。
もちろん、サッカーが原因じゃない(と思っている)。でも、ただのウェイターである僕は、辞めた理由など知る由も無い。沢山の女の子達が入れ替わる店内では、去って行ったアルバイトの一人に過ぎない。挨拶も何もできないまま、彼女との細い縁は切れた。
ふと、思い出して書き綴ってみて、初めて、すごく些細なエピソードの積み重ねで、僕とその店との関係はなりたっていた事に気がついた。大きな事件があった訳じゃないが、僕もそれから半年経たないうちに、その店を辞めた。理由は無かった。
先日、赤坂見附のみすじ通りを歩いて、僕の勤めていた店「クラブスマイル」の跡地を見た。もう20年も前に存在した店など、ほとんど誰も覚えていない。この20年の間に、何件の店が入れ替わり、ビルが建て直されたことだろうか。世界の全ての情報を網羅しているように見えるインターネット上にも、この店のことは記されていない。こんな情緒的で曖昧な記載が、ネット上に残る唯一の、店の記録になるのかもしれない。
店長も今は40代半ば、何をしているのだろう。あの当時店に居た女の子達も、お母さんになったり、OLになったりしているのだろう。何人かは、気付かないうちにすれ違っているのかもしれない。もう生涯、僕と接点を持つ事がないであろう数十人の人達。でも、僕はそんな彼ら彼女らからも、生かしてもらって、今こうやって生きているのであります。やっぱり頑張っていかないと、いけないんだなぁ。ぐうたらしてたら、罰があたりそうだ。
20年前を思い出して、ふと書き記してみました。若き日の記憶。