静かな海のような。夜の潮のような。

 

ここのところ、忙しさがひと段落しており、静養する日々が続いていました。

もちろん学校業やその他継続案件はありつつも、新たに飛び回ることも少なく、静かに日常を過ごす毎日です。

まるで凪のような。

独立以来、ありがたくもご依頼に恵まれており、こんな形で静かな日々を過ごすことはありませんでした。こういう形でお仕事の少ない日々、平常なら「案件が減ってる!また働かないと!」と慌てるところでもあるのですが、なんというか、ある程度心穏やかに入られるようになってまいりました。「まあ、こういう時もある」と。

(いや、内心はそれでも「大丈夫かな…」って心配する部分はあるのよ。)

それでも4年独立して生きてこれれば、潮の満ち引きがあることや、信頼に応えることを日々続けていれば悪いようにはならないという「社会の真理」みたいなものを信じることができるようになってきて、生きること自体にあたふたしなくなってくるものです。本当、不思議なものです。

そして、僕の好きなキャプテンハーロックの名言にもあるように

「男は時々何をしてもまったく駄目だという時があるのだ。やればやるだけおかしくなるだけで、することなすこと無駄な努力・・・・そういう時、男はな、酒でも飲んでひっくり返ってればいいんだ」

ということで、ひっくり返って寝ておりました。いや、これ悪くないのよ。男の生き方として本当間違ってないと思うのです。こんな暑い夏、ひっくり返って寝ながら、時々に、大事な方々に「元気にしてる?僕は元気だよ」と私信を送りつつ、風鈴の音に耳を傾けつつ、歌いつつ、楽器爪弾きつつ、時にはパンツ脱いで(略)な毎日を送る以外何ができるというのか。

というわけで、事務所の大改装も行いました。よりスムーズに、快くお仕事ができるようになるために。

自分の仕事場がだいぶ落ち着いた、気に入った形になってくると…不思議なもので、また仕事が舞い込んでくる。そしてその勢いたるや阿修羅のごとく。なんでいつもまとまってやってくるの。もうちょっとこうWBSというものをだな、理解してだな、こう、年末まで平坦に仕事はやってこないものなのか。また9月末まで眠る暇のない毎日を過ごさなければ。それが好きで生きてるんだけどね。

本当に、幸せな生活をさせてもらってます。

なんとか、価値を作って恩返ししていくからね。

親知らず抜きました。

この年の瀬に、親知らずを抜きました。左の上顎。通算三本目(残りは右上一本)。炎症が治まらず、スケジュールが延び延びになりましたが本日何とか抜歯に至ることができました。
二十歳のころに、下の親知らずがありえない生え方をしていると神楽坂の歯医者さんに言われ、翌日飯田橋の日本歯科大学附属病院に紹介状を書かれ、「全身麻酔するので死んだら許してね」的な書類にサインさせられ、挙句の果てには麻酔で薄らぼんやりした記憶の中でペンチと金槌で僕の顎を破壊するかのごとく歯を叩き割られた記憶があります。いや、お医者さんが悪いのではなくて、そうでもしないと取れなかったんです。実際。
それから20年、噛み合う下の歯がないまま上の親知らずは僕の口の中で生き残ってきましたが、年も重ねて歯茎も弱ると、どうにも悪さをするようになってきまして。時々痛みが断続的に出てくるようになり、「これはあきまへんな」と10年来いきつけの信頼する歯医者さんに、思いっきり引っこ抜いていただきました。今回は部分麻酔だけでOKです。それでも、引っこ抜かれているとき、脳天に「メキメキ」「ガポポポ」と身体の一部を引き剥がされている体感は十分に感じました。
まあその後は痛みも無く、今日は安静に生活しています。明日は消毒です。
抜歯した歯の写真ですが、まあグロテスクで、失礼いたします。まだ歯茎などが取りきれてなくて、このような状態です。
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私は昼寝が好きです。


この世は、美味しいモノが有って、快適な睡眠が充分にとれて、可愛(中略)出来たら、もうそれ以上の救いは要らないと考えています。そしてその周りを彩る様に、酒や物語、学び、知見、音楽や美、があれば極上。自分に余裕があれば、その彩りの一片を自分からうみだせれば完璧。更にゆとりがあれば、この素晴らしい世の中を永続出来る様、社会貢献(仕事)を行うのが人としての正しい姿かな、と。

甥っ子のおくい初め

昨年の今日は、両親の還暦祝い。今年の今日は、弟の息子のお食い初め&宮参り&家族写真撮影。去年は影も形も無かったこの子が、実家の中心にいる事に喜びを感じます。
写真は僕が我儘を言って包んでもらった法被。湊の男の子になってもらいたいです。(僕は農村のあんちゃんです)因みにそれは腰紐であって鉢巻ではありません。

ビジネスウェア

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ついに妻がビジネスウェアも仕立てられるようになってしまった。
「なってしまった」というか、ここ十数年、僕がビジネスウェアを必要としてこず、妻も伝家の宝刀を抜く機会がなかった模様。
1・僕はもう二度と外で服を買うことはないかもしれない。そのうち靴さえも作れるようになりそうな勢いだ。
2・スーツ用生地は既に買ってある。2年後の夢はルイジコロンボ生地での妻メイドスーツ。
3・Yukiko Yamamoto for Men で商売にならんか。服飾系はYamamoto多いし。
そのうち僕が身につけるもの全てをメイドイン妻にコンプリートされかねないが、僕ウェアには「カツラ」という強敵が最後に待ち受けているのだよ。

いただきもの

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もうさすがにこれは惚気と言われてしまう程度ではないかと訝しんでおりますが。でも頂いた事を皆様に公表することでまた妻の受注につながるものならば、進んで公開してまいりましょう。
 
今日も頂きました。いわゆる僕世代でいうズボンです。今の若い子はパンツというのでしょうか。ズボン。発音してみたかっただけです。声調でいえば第四声です。
 
そして僕もある方面では「速さに定評がある」と言われましたが(過去形)、かみさんにそれが乗り移っている模様。今年入ってから、いったい何作目だ、これ。阿修羅の如き速度で仕事をする妻。鬼子母神か。
 
ポイントは敢えて裏地につけたボタンとワンポイントのファスナー。裁縫技術はよく解りませんが、履き心地は素晴らしいです。今穿いてます。
 
そして相変わらず全尺はお見せしません。僕の股下尺は個人情報保護法案の庇護の下、厳重に管理されるべき国家機密の如しです。
 
(また、こういう記事にて「仲良し夫婦」的な態を感じ取って頂いているようですが、これは別居期間や闘病期間や明日の飯にも困る極貧期間を13年近く経て今あるささやかな幸せなのです。あれ、僕が全部悪いのか。)
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子供に夢を託すな

子供に夢をたくすな
思うこと3つほど。
1・子供に夢を託すのは健全じゃないと思う。
いや、未来を応援する悪い事じゃないけど、自分のやりたい事とかなりたい事とかは幾つになっても自分で達成する事で、誰かに委託するものじゃないと思います。子供といえど、他人だし、別人格だし、その未来は個々人のものです。子供に対してできるのは、選択の枠を広げ、また実例を紹介してあげる事であり、チョイスじゃない。
その意味でこのCMについて、メッセージの全否定はしない。
2・でもサラリーマンは否定しない。
自分の生き方がつまらないと思うなら、それは被雇用者の立場や、自分の会社に理由が原因である場合は少ないと思います(苦しい、辛い、だと話は別だけど)。そもそも自分の生き方のうちで、仕事が占める割合なんて大したものじゃない(僕がおかしいのか?)。僕自身、仕事は全力で取り組むし、誇りだってあるけれど、行き過ぎて自分のアイデンティティを仕事と同一化することは、むしろ気持ち悪ささえ感じています。ゆえに、転職したってフリーになったって、生き方も楽しさも、変わらないと思います。サラリーマンでもバランス保って誇らしく楽しげな人も居るし、その逆も沢山見てます。何か違和感を覚えるなら、今すぐ何か楽しげになることをやればいい。誰もその行動を止めることは出来ないし(国も法律も)、自分の幸福のための行動は、仕事同様にプライオリティは高い。(その結果として、仕事が100%アイデンティティになるのなら、それはそれで悪くない)
その意味で、疲れたサラリーマンを演出して画一的に表現することには、違和感を覚えます。サラリーマン、楽しいよ。
3・で、このCMによってリクルートが受ける利益は何?
転職させたいのだとしたら、ちょっとフォーカスがぼやけてると思います。
疲れた毎日に諦めないで、子供に夢を託さないで、自分自身が挑戦しようよ、という意図はわかるけど、そこで次の選択肢としてリクルートのサービスを使って別の会社に移る、という誘導には説得力が足りない気がします。特に「夢」なんてワードを使ったら、それこそ世間一般イメージでは被雇用者である事自体の否定とも受け取られず、転職=リクルートの利益、からも外れる気がします。

今の世の中「家庭を支えて、生活するために仕方なく今の会社に居る人たち」ばかりじゃない。会社の名や保護に依らず、生きていける人は存外多いものです。(、もちろん、雇用環境における庇護、恩恵も理解したうえで)

そもそも、サラリーマン対その他という二項対立のチョイスさえ、もう古い。複合的に、爽やかに、そしてしたたかに、楽しく生きる方法がたくさんある時代だと感じています。

Happy Birthday to Kamisan

かみさんの誕生日でした。出会った時は18歳でしたが今は(以下略)
ちょいと花束(というか鉢)の一つでも買って帰ろやないけ、と小さい鉢を買って帰ったら、母(僕の母、妻の義母)から大きな花束が到着済み。
 
母よ、貴方にそんな大きな花束贈られたら僕の立つ瀬が無いではないか・・・(もちろんとても感謝しているのだけど。ありがとう)。
 
そして朝貢、じゃなかった贈り物は本人御所望とあって、コナン全巻セット。僕も読みます。真実はいつもふたつ位!

What a Wonderful World.

今日、伯父となった。
 
なんだろう、この気持ち。「おめでとう」の言葉を口にし、伝えるだけで、かつて経験したことのない感情、今まで知らなかった「嬉しさ」に溢れ、時に涙さえ出てくる。自分何もしてへんのに。
 
弟への「おめでとう」、義妹への「おめでとう」そして新たに血を分けた家族に「おめでとう」。言葉の意味はそれぞれ違う。感謝であり、応援であり、また「この素晴らしき世界へ」の招待。
 
やはり、この世は素晴らしい。とイッちゃった人の様な事を申しているが、今日だけは許してほしい。この世は今も充分素晴らしいし、その素晴らしさを、これから存分に堪能してほしい。義務じゃなく、歓びをもって。
 
 
幾重にも、その幾重にも誉あらんことを。その生くる径(こみち)、心から輔翼し奉らむ。
 
 
そしてなぜか僕は、今日一日で2824gほど体重が減ったのである。雪の中、伯父さんは頑張ったのです。

精緻なる筋肉を


1月近辺は、更新が頻繁になります。毎年の、季節の流れがそうさせている様です。
書き殴りではありますが、最近ふと思ったことを。
ここのところ中国語を学んだり、読書をしたりする中で、自分自身に欠けていると実感するもの。それは「精緻さ」=「細やかな努力の積み重ね」です。
精読、という言葉があるように、知識を学ぶ、何かを習得する、脳を変容させる、そして、何かを創り上げるには、必ずそこに緻密さ、が求められます。その緻密さをもって、神が宿る、あるいは、筋肉に変わる、骨格を作り上げることができます。
これ、自分自身に全く足りてない素養だと、感じたのです。
ええ、意図的に、自分自身に多読濫読癖と、拙速でもスピードを求める生活をこれまでしてきたのも事実です。そして、コツコツと気の長いトレーニングのタグイをこれまでやってきた事がありません。気の向くままに、大量消費と素早い行動、これを自分に課す代わりに、精緻さ、緻密さ、継続力という部分については全くトレーニングをしないまま、40を迎えてしまいました。
それはそれで、いいのです。自己責任だし、それによって出来上がった自分の利点欠点は把握した上で、日々の生活に臨んでいるのです。側には、それを理解して支えてくれる家族が居るわけですし。(むしろ、今更丁寧な生活をし始めたら精神を心配され病院に連れ込まれかねないレベルです)
でも、歳を重ねてバイタリティも消化力も落ちてきた今、大量消費だけでは生きていき難くなってくるかな、とも思っています。
そして、二つの出来事が僕を精緻さに向かわせようと、しています。
一つは、朗読をしてみたこと。
別の言葉で、音読。中国語に限らず、言葉を学ぶ上で必要なものは発音、そして耳です。重複になりますが、言語は学習ではなく、身体トレーニングです。そこには、細かい発声の違い、聞き取りの違い、意味の分別を同時に、そして正確に行わなければならない反射神経レベルでの精密さが求められます。
そこで効果的になるのは、音読です。
今流行のシャドーイングやロゼッタストーンに興味があるわけではないですが、一番効果的な学びは、やはり「丸暗記レベルでの暗誦」に他ならないと、今更ながら思った訳です。一音一音間違えず、意味を理解して、きちんと伝達する、その文章が薄髪のようにじゃなかった薄紙のように積み重なっていったとき、僕は母国語以外の言葉を話せるようになるのではないかと考えています。
そしてそのとき「よっしゃ、どうせなら読書も音読したろやないけ」と、ある小説を自室で一人朗読してみたのですが・・・。
滅茶苦茶に、頭痛がしました。
なんだこれ。言葉をきちんと理解しながら一言一句読むってのはこんなに頭を使う事なのか。これまでいかにいい加減に本を読んでいたのか改めて理解しました。呼吸がうまくないのか、酸欠なのかと思い、思いっきりゆっくり朗読もしてみましたが、やはり同様に頭が痛い。頭痛が痛い。そして同時にすらすらと入ってくる鮮やかな小説の情景。朗読って効果があるんだな、と改めて思いました。因みに読んだのは「奔馬」です。歯ごたえありすぎ。

そしてもう一つは、別に改めて記すつもりではありますが、妻のピアノです。
うちのかみさんは若い頃(大学時代)ピアニストを務めており、その腕前はなかなかのものだったと聞いております(同じサークルに居たので知ってるはずなのですが、ほら、僕、物忘れ激しいですから)。
この前、ふとしたご縁で、その大学時代のかみさんのピアノの音源を16年ぶりに、手に入れることが出来たんですね。当時の技術なので、カセットテープという形で。改めてmp3に起こして、聞いてみました。
なんだこれ。滅茶苦茶うまいやん。
身びいきを差し引いても、巧い。巧いうますぎる。風が語りかけるレベルです。こんな人が身近におったんや。もちろん、僕はピアノについてある一線以上のレベルを評価できる耳は持っていませんが、とうにそのレベルは超えた腕前でした。
で、それはそれとして。後でこの件はきちんと書くとして。
この腕前の根底にあるものは何かと、かみさんに改めて聞いてみたところ、答えは非常に簡単で「日々の積み重ね」でした。
そう、うちのかみさんはこの「精緻」という事に関しては高い能力を保っており、自他共に認める徹底的なコツコツ型の性格をしています。一日八時間毎日練習。数千回の繰り返しも厭わない。シングルタスク。ルーチンの鬼。うさぎと亀で言うと1024%亀型人間なのです。
それがために注意力過多という病(?)で床に付すことにもなるのですがそれはそれとして。(そして注意力皆無という僕と恐ろしいほどにピースが組み合わさり、絶妙なバランス均衡にて生活が保たれているわけです。)
また話がそれましたが、そのかみさんのピアノの音を聞いて「うむ、精緻さは大事だな」と改めて思った次第なわけであります。
いや、これね、本当に僕にとって革命的な事態だったのですよ。決してかみさんを甘く見ていたわけではないのですが、「コツコツ型」の人の能力に、正直腰を抜かしたのです。もちろん14年一緒に過ごしてその能力は知っていたはずなのですが、やはり健康状態に左右されるところもありまして。不断の努力、というものはこれだけの力を秘めているのか。何かをなしえる人とはこういう人を言うのだな、と僕は改めて思った次第なのです。そして、遅ればせながら「僕もそーいう事やりたい。これからの時代はコツコツ型だ。おほん。」と朝三暮四な人生設計変革を始めてしまったのです。
そんなわけで、今年の僕は前出の目標に対して、精緻さをもって挑みます。もちろんスピード感は落としません。そして僕の長所(と言っていただけてる部分)はこのままで。ただ、筋肉(脳みそを含む)を少し細かくコントロールできるようになろうかな、なりたいな。という訳でして。
全ては筋トレです。一朝一夕には身につきません。細かい日々が、膨大な力に変容するのです。