Magazine Life

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雑誌づいてます。
 もともと雑誌と言う媒体が大好きで、それこそ大学4年次ぐらいには月間50媒体くらい読みつぶしてた記憶があります。ああいった雑誌の端々にある小さなコラムが特に好きでした。
 時代が変わり、2000年代以降になると、とんと雑誌を読まなくなってしまいました。理由は簡単。ネットばかりしてたから。
 これはこれで必要な情報を集めるには良かったのですが、ご存知の通り、ある分野に対して、面的アプローチで塗りつぶすには、ネットは散文的すぎるのですよね。
 それはそれで、ネットジャンキーである自分を後悔したりはしないのだけれど、iPhoneを持ち、散文的ネット活用(Twitter、Tumblr、etc)に磨きがかかると、ある分野に関して、知識を面的に(または球体的に)塗りつぶすための雑誌読破欲が戻ってきました。
 今月も久々に雑誌をバカ買い。自分に関係する業界紙はもちろん、趣味関係の雑誌も堀りまくってきました。
 そんな僕の雑誌読み手法のひとつ。
月に一冊は「全く分野の違うマニアックな雑誌(いわゆる業界誌)を買う」
 別に「S&Mスナイパー」や「サムソン」を購入しようと言ってるわけじゃありません。これらも名雑誌だと思いますが。ええ。
 いやでも特にS&Mスナイパーは雑誌としてのクオリティは抜群に高(略)今日はその話がメインではありません。(にしてもまだ刊行してるのかな)
 自分の全く知らない分野の雑誌を紐解くこと。そしてその雑誌を、一月分でいいから隅々読むこと。本当に目からうろこが50枚近く落ちるほど新鮮な驚きがあるのですよ。皆さんにも是非オススメしたい。
 たとえば、僕が体験した中で、こういう雑誌技を身に付けるきっかけになったのが「月間廃棄物」
 当然ながら廃棄物に関するビジネスを行っている人たちがいるわけで、その人たちへの情報共有のための雑誌は必ず存在しているのですよね。
 この雑誌を知った当時、僕はゴミ処理場の撮影をしていたと言う関係もあって無関係な分野ではなかったのですが、まあ自分の知らないベクトルで話が繰り広げられていることの衝撃。じぶんの知識の少なさと目線の薄さを真剣に思い知ります。
たとえば…今月号の「月刊廃棄物」から特別寄稿のメニューを抜粋すると…
・ごみ手数料を強制徴収できるか? 
・古紙偽装問題は何をもたらしたか・上
・海洋越境ごみに埋もれる宝の島「沖縄」 
・廃棄物減量等推進員制度の現状と課題 
・災害廃棄物に関する危機管理の現状と提言 
 と、生涯知らないかもしれない情報が沢山載ってます。
 で、自分の知らない知識に対して「お、何コレ、面白そう!」と思える人にとっては、こんなに楽しい遊びは無いのですよ。ちょっと興味が出たら3ヶ月くらい買ってみたらいいです。業界によっては2誌3誌と別目線の雑誌が出てますからこれらを半年隅々読めば間違いなく業界通になれます。
 このほかにも、僕が今まで目を通してきたもの(仕事や趣味とは関係ない分野で)としては「月刊会計検査資料」「月刊下水道」「月刊基礎工事」「月刊アミューズメント産業」などなど。
 専門誌、業界誌にもマニアック度、一見さんお断り度もいろいろあります。どれかオススメをあげろと言われたら、山本の個人的見解では「月刊飲食店経営」などはとっつきやすいですよ。飲食店は顧客の立場で、縁遠い世界ではないですからね。逆にどれとは言いませんが建築系業界誌は素人お断り度がかなり高いかも。。。
 まだ、僕が自前で体現してないですが、絶対に信じてること。
 自分と関係ない業界誌を5誌年間購読してたら、人の5倍の企画力が身につくと思います。
 もちろん、10誌読めば10倍。それくらいの幅広い知識を洞察力が身につきます。
 と言う僕もココ10年やってなかったので、久々に始めようと思いますけどね。はい、えらそうなこと書いてすみません。

AVATAR

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AVATAR、見てきました。@川崎 ラゾーナ。
 仮にも映像でメシを食ってた時期があるモノとして、いろんな感慨に浸る経験でした。
 以下、ネタばれあります。まだ見てない方はご注意を。
【アメリカの映画として】
 ストーリーの中で、非常に印象に残ったのが、「先住民の勝利と人類の敗北」ということ。
 これ、アメリカ映画としては非常に珍しいことじゃないでしょうか。
 言うまでも無く、アメリカは開拓の国。インディアンから湾岸・イラク戦争まで、常に自らが攻め、開拓することを是としてきたように思います。
 映画にもその風潮は顕著であり、視聴者の同胞(基本的にはアメリカ人、または人類)が攻めて勝つ、あるいは宇宙人から守り抜いて勝つ。という流れを外れることがほとんど無かったように思われます。異邦である先住民に、(ストーリー上、先住民に感情移入させるようにはなってますが)視聴者の同胞である人類が攻めきれずにに撤退する、というのは、アメリカの思想に大きな変化が現れていると感じます。
 自らが先住民として、テロというエイリアンに打ち勝つことを意識しているのか、はたまたエコに目覚め、開拓精神を見直しているのか・・・。
 映像美と3Dに対しての感想が多いこの映画ですが、ストーリー自体に大きな変革を感じます。
【IMAX】
 もう、本当に過去の話になってしまいましたが、僕はIMAXとは10年以上の付き合いがあります。
とはいえ、IMAXの映画を見たのも10年ぶりなのですが。どっちだよ。
 旧知の友人はご存知ですが、97~99年に勤めていた映像制作会社はそれこそ特殊映像、3D映像の専門会社でした。社費でサンフランシスコのエクスプロラトリアムに出張させてもらったり、実際のIMAXを体験させてもらったりなど、数多くの経験をさせてもらいました。
 その会社がナショナルジオグラフィックの総代理店でもあったことから、映像美、自然美を追求した上映方法を模索し、IMAXの技術向上をずっとリアルタイムで追いかけていました。
 当時はCGの技術が高くなかったこともあり、実写での表現しか念頭においてませんでしたが、いまやCGでも充分当時のIMAXをしのぐ映像が作れるのですね。その事にまず感動です。
 当時僕が担当していたのはナショジオの北極海の映像や南米の密林映像を博物館ベースに大画面(IMAX含む)仕立てにすることでした。
 余談ですが、IMAX含む大型映像は、撮影にも上映にも箱を作ること自体にも馬鹿みたいに予算がかかることから、大手ゼネコンが引き受ける博物館、展示館案件の、且つ大手内装業者※が一時下請けになり、その下でしか作れない、制作側からすると「垂涎の案件」でした。
※-博物館等の展示物は、国・公共からゼネコンに案件が投げられ、ゼネコンが建造物を作る中、展示物は内装業者が一括して引き受け(大手だと●青社・●村工芸社)、その下で映像制作会社や企画会社が各作品を作る、と言う仕組みになってました。(90年代は)
 自然界の迫力あるドキュメンタリーを伝えるには大型ビジョンが最適、と言う状況でもあったので、いかなる上映手法をとるか、まずはコンテンツありきでいろいろ案件を作っていた記憶があります。
 で、今回のAVATAR。(前置き長いな)
 技術が先かストーリーが先かは詳しくありませんが、やはりIMAXの表現技法を余すところ無く伝えるコンテンツは、大きな視野での自然映像なんだな、と思いました。監督が何を思ってこの自然映像を(CGであったとしても)演出したのか、そしてこの上映方法を選んだのか・・・全て繋がっているのでしょうね。
 そして、人間はやはりスケールの大きなものに感動する。大きいことはいいことだ。
 次の上映予定が「オーシャンズ」でもあることからも、映像表現手法の流行がまた改めて巨大スケールのドキュメンタリー(自然界や宇宙、深海など)に戻ってきたように思います。netやワンセグと劇場映画すみわけ、と言う意味でも、このスケール感は大事にして欲しいと願います。
 でも・・・この分野(自然ドキュメンタリー)ではアメリカカナダイギリスがまだまだ強いのですよね・・・。日本頑張れ。
【立体めがねの集団】
 今回、3D映像のシアターで観劇しました。
 川崎の上映はメガネを通しての3Fだったのですが・・・
 今回、川崎のシアターは通路が前方に延びており、スクリーン手前から自分の席に移動する形の会場でした。僕は少し遅れて映画館に入場したのですが、スクリーン手前から自分の席に移動する際、どうしても観客と対面する形になります。
 全員統一された大型メガネをかけた集団と相対峙する僕。
 正直びびりました。何かの宗教集団みたいだった。
【惑星パンドラ】
 非常に美しい自然映像。CGで創られた、とはいえ、実写にしか見えない。
でも、個人的に思ったこと。
 あれ、富山県じゃないの?
 うちの実家から車で20分ほどで惑星パンドラそのものな場所につきます。
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 面白かったですよ。このほかにもまだまだ語りたいことが沢山ありますので、コレ読んだ人今度のみに行きましょう。

やっぱりゴムつけなきゃ危険

 僕が好きで好きでたまらないもの。
 朝から晩までずっとこのコトを考えているもの。
 
 
 
 
 
 
 
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 iPhoneです。なに考えてるんですか。えっち。
 本当に手放せません。購入して一ヶ月、僕にとっては手足の一部となりました。一部になるどころか、iPhoneを手に入れてからというもの、本当に僕は生活スタイルが激変しました。
 真面目な話をしてしまうと、思考方法、情報の取りまとめ方に革命が起こり、自分の仕上げる企画書や生活の中のラップアップに大きな変化が生まれているのです。
 たとえば、自分の中に生まれる断片的なアイディアや発想について。
 僕は散歩しながら思索する癖があります。また、裏を返せば歩いてないと頭が働かないと言う変な癖があります。そのため、友人から人生相談や恋愛相談などで電話があった場合は、ほとんど家の中をうろうろと歩きながら電話することになります。(かみさんからは「熊みたい」と呼ばれます)
 また、僕と一緒に会議に参加したことのある方はご存知かと思いますが、真面目に会議が進むと僕は立ち上がって部屋内をうろうろしてしまうのです。(さすがに上司がいる場合などは控えますが)その方が口も廻るし頭も廻るのです。
 で、iPhoneをもつとそれがどうなるのか。
 散歩中にふと出たアイディアをその場で書きとめ、Web上に記録する(※evernote使用)と言うことがすごくスムーズにでき、また後でそのアイディアを喫茶店などで軽くまとめるなんてことが簡単に可能。
 今までは僕の恥ずかしい発想を書きとめたノートなど、万一人に見られたら自殺しかねないために外に持ち運ぶことははばかられたため、なんとか自宅に帰るまでジャストアイディアや事業発想などを覚えておかなければならなかったのですが、iPhoneならその辺りは全て安心してまとめられます。これ、16歳ごろから本当に欲しかったアイテムなのですよ。
 そのほかにも、読んだ本の断片を記録やある程度の情報収集、メールチェックなどが行えることもあり、自宅で朝起きたとき、布団の中で一通り仕事を仕上げてしまうなどノマドワークスタイルどころか寝たきりワークスタイルを自ら実践してしまっているのです。僕は一歩一歩、着実に介護老人ものぐさぐうたら大人の階段を上っています。
 で、そんな僕のiPhone生活に欠かせないもの。
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 Ziplocです。
 これの小、50枚入りが欠かせません。
 なんに使うかと?
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 僕は一日中iPhoneを手放すことができないため、風呂場にも当然持ち込みます。
 その際、防水対策が必要になるのですが、このZiploc、大きさも美しくまとまることながら、ちゃんとタッチセンサーが反応すること、完全に防水しても、iPodがBGMとして聞こえる、コスト的にも50枚で数百円など、あらゆる側面から非常に効果的です。
 万が一に備えて、つけておく。これは人類が誕生してからの英知ですね。
 ちょっとだけ感触は違うけど、まあそれくらいいいじゃないですか。気持ちよさは変わりません。
 
 と言うわけで、あんなことやこんなことをする際にもiPhoneを手放せない僕。
 多分若い頃であればベッドの脇で正の字をiPhoneに書き込んでいたことでしょう。
 見栄を張るなという声が聞こえますが、主語が無いため何のことかわからない振りをしておきます。
 
 風呂の中でやる柿木将棋、最高です。ほぼ負けるけど。
 

千のナイフ

 昔の坂本龍一を聞きながら、過去のメールを整理整頓。
 5年前、今の会社に勤め始めた時のものも沢山出てきた。
 
 家庭環境も職場環境も、5年も経つと大きく変わる。
 一緒にいた仲間の姿がメールから浮かび上がってきた。
 やっぱり、僕のやらなければいけないことはコレしかない、と、自分の立ち位置を再確認できた。
 なんて真面目に書いてるけど、やってる事は煙草と珈琲まみれのただの夜更かし野郎なだけなのだ。
 不良中年。ちゃんと全うできているのかな。

木鶏には程遠くて

 毒を吐く、と云う行為は全く持って好きではない。好きな人もそんなにいないだろうけどね。
 また、強烈な言葉、辛らつな言葉をこのブログに置くのも、本音は心外な部分があります。
 今日の記述は、仮定の話も含めて、自戒も込めて、のお話。
 このように思ったのはもうずっと前の話です。最近の僕に「何かあったの?」と言われても、何も無いんだよね。いや、時間を掛けて風化させる、濁すためにもちょっと時間を空けたのです。
 自分の中でも消化できると良いなぁ、と思ってたのですが、いかんせん、半年以上経っても、気持ちに変わりは無いままで、このまま風化を待っていても、詮無い話だなぁ、と、感じていました。
 心にとどめていたことでもありますが、今になって、やはりそっと認(したため)ておこうと決意しました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 僕が最も忌み嫌うもの。そして生きていくうちで自戒をこめて、踏み外さないようにするロードマップとしての境目が「無視」と「嘲笑」と「侮辱」です。
  生きていると、どうしてもいろんな過ちを犯してしまう。僕だっていつどこで、誰の気持ちを殺めているかわかったものじゃない。その懺悔の気持ちもずっと持ち続けていないといけない。
 ただ、気持ちとしては、誰かを「無視」「嘲笑」「侮辱」することは無いように、無いように心がけていかなければ、とはいつも思っている。これらの言葉、これらの行為はそれほどまでに強烈なもの、です。
 人は、過ちは許すが、侮辱は生涯許さない。
 だからこそ、僕は人に敬意を払っていきたいのです。
 僕もまた、然りです。
 僕や、僕の家族に対しての侮辱だけは、今まで起きたことも全て忘れることができません。赦すことは、なかなか、できない。僕はまだまだ弱い人間です。その場で噛み付くようなことはない程度の節度は持っているけれどね。
 社会のなかでは、僕は人の気持ちを殺めないためにも、なるべく蔑まれてもよい様な風体を演じるようにはしています。もちろん一対一で接するときは、自然に、対等に、礼儀をもって接しますけれどね。
 これがまた残酷なもので、僕が下に出ると、その段階で、人に敬意を払う人、やさしい人、そうではない人が露骨に見えてしまうのです。僕のこの「私を蔑んでも私は平気ですよ」的な風体を真に受けて、蔑む人の如何に厚顔なことか。
 
 
 
 あくまで仮定。僕が、家族が、侮辱されるような事があったと、して。
 事実かどうかは僕の心の中に閉ざすべきもの。
 
 
 僕は侮辱を許さない。例え軽率さから勇み足をしてしまったものだとしても、その行為を行う人からは、成長や人間性、教育、社会貢献と言う言葉を素直に受け止めることはできない。協力して、応援することができない。
 もちろん、仲間に対してであれば「それは侮辱だ」と訴えて、やりあう事で襟を正すことも必要なのでしょうが、過ちはまだしも、侮辱した相手に対してはそれをする必要はあるのかなぁ。僕は伝えたり、成長を促したりする必要は無いと思う。その後はずっと、朽ち果てるまでにこやかに見届けるだけ、でいいんじゃないかな。それ以外には何もできないよ。気付いて、泣いて謝られても、結果が変わるわけじゃないからね。
 
 
 
 僕に改めて自戒の気持ちを呼び起こさせてくれた、この出会いには感謝する。
 出会いが無かったら、僕が傷を与えられる前に、僕自身が誰かを傷つけていたかもしれないからね。
 僕が人を侮辱するくらいなら、僕が侮辱されるほうが、全然ましです。そこまで堕ちるつもりはないよ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 侮辱された、と感じたら、もう二度と元に戻ることは無いのです。
 僕は誰でも、助けられる限り助け、サポートできる限りの人をサポートしたいと思ってますが、
 数少ない、僕と僕の家族を侮辱した人にだけは、そっと手を引きます。たとえその人が沈没する船から助けを求めていたとしても。そこに罪悪感はありません。
 まあ、僕に助けを求めてくる人はそんなにいないですけどね。
 でも、人生どこでどうつながるかわかりませんから。 

思考が現実になるor夢は適うのか

It's a 目白台
 いやね、ちょっとこの前家の前を散歩してまして。
 僕の自宅は住宅街であり、様々な家やらマンションやらが立ち並び子供が公園で遊んでいるイカニモな空間です。高級住宅街かといえば決してそうではないのだけれど。
 そんな町並みをフラフラと缶コーヒー片手に放浪していたときに、ちょっと思ったことがあったんですね。
 「ああ、20歳の若い頃は、30代になるとこういう住宅街に一軒家でも建てて、子供の二人くらいと一緒につつがない家庭を築いて大きな会社で中堅社員としてがんばりながら生活をすると思って・・・」
 と、この辺りの家を眺めながら、自分の人生を悔やむように告解してみようと思いました。ああなんて僕は全うな生き方をしていないんだろう。30代後半に差し掛かると言うのに。全然駄目な大人でごめんなさいああああ。と後悔してみようと思いました。むしろたまにはそうやって絶望してみるのもオツなものです。酒の肴にもいいですね。ウィスキーに合います。
そうやって懺悔に対してまでも斜に構えるのが僕の悪い癖です。
はいごめんなさい。
 と、自己憐憫を感じようとしたそのときに
 「ああ、20歳の若い頃は、30代になるとこういう住宅街に一軒家でも建てて、子供の二人くらいと一緒につつがない家庭を築いて大きな会社で中堅社員としてがんばりながら生活をして・・・」
「・・・いたいとは思ってなかったな。」
 と、自分の過去を振り返って、いわゆる「全うな人生を希望しては居なかったのだな」と自分の中で自己矛盾を起こしてしまいました。「そしてそんな僕が過去に居たから、今のように泥だらけで七転八倒な人生を歩んでいるのだな」「むしろ、当時考えていた生活に今とても近い生活をしているのではないか」「なんだ。夢って結構簡単に適うじゃん」というむしろ逆に幸せなハッピーライフに気付いてしまいました。
 うん、思考していたことって結構適うものだと思います。
 夢の大小はあるけれど、二十歳の頃あこがれていたライフスタイルには非常に近いポジションに居ます。そして、向いているベクトルはその当時の延長線上に確かにある。全然目標には届いてないけどね。でもまあ、その頃の自分とズレたことはしてないな、と思いました。
 僕がどういう夢を描いていたかは・・・内緒。うん、でも、こういう仕事をして、かみさんと一緒に、トラブルの森の中をドラマチックに駆け抜ける人生は結構期待してました。もちろん終わりはハッピーエンド期待。ちょっと思いのほか体力が続かなくなってきたけど。
  と言うわけで、僕は明日から世界征服を夢見ることにします。もし半分しか適わないとしたら、女性が沢山居るほうにしてください。お願いします竜王様。取引には応じますので。
(写真は先日の散歩の際に撮ったモノ。昔済んでた近所であって、今の近所じゃないよ)

10/80

 気がつけば2010年代に入り、わが青春の90年代さえも過去の遺物になってしまいました。
 でも僕は90年代よりも80年代が大好きで、あの浮かれまくってたパステルカラーとバブリーで軽薄な世界がもう一度来ないかと未だに期待しているのです。16歳の少年に89年は輝かし過ぎたのです。





カメラ欲しい

 いろいろ訳あって、最近HDVの業務用カメラを物色中です。
 編集屋としては(へっぽこですが)それなりに年季が入ってきたのですが、その実カメラをいじった経験が余りにも少なく、自分の中ではかなりコンプレックスになっているんです。
 昔はそれなりにいじってた・・・とはいえ、それ自体がもう10年以上前の世界ですから。VX1000をもって走り回ってたユニコーン時代。
 と言うわけで、今は色々相談しながら、何を購入するかで悩み中。
 HDR-Z5J
 普通に考えたらこの辺りが有力候補。セミナー撮影やら現場撮影やらでは十分なスペックだと思います。
 僕の業務フローではどうしてもテープメディアを捨てられないため、AVCHDは選択できず、本日発表されたHXR-NX5Jは選択肢に入らず。いいカメラっぽいんだけどなぁ。
 HVR-V1J
 Z5Jの一歩手前の機種ですが、値段以上の使い勝手とのこと(知り合いの談)。だけど問題はワイコンがちょっとヌルいらしい。。。あんまり使わないとはいえ、それでいいのかどうなのか・・・ただそこだけの差のためにZ5Jにいくかどうするか・・・悩ましいところです。
HDR-FX1000
 その間をとってFX1000という選択肢もあるけど、実際にはあまり考えてないです。
 値段ならV1J、勝負に出るならZ5J、と言うところでしょうか。
 気がつけば全部SONY製。
 DSR-PD150
 はいすみません。これは全くHDVでない、旧時代のSDカメラではありますが、
 正直、めっちゃ欲しい。
2002年ごろ、僕の職歴の中で唯一技術職として入社した某FX社。この中で、相棒として活躍してくれたのがこのPD-150とDSR-70&50のレコーダーたち。見よう見まねではありましたが、かなりこいつのおかげで僕はカメラを怖がらなくなりました。その思いもこめて、むしろいまだにこれを相棒として使いたい。だからもうSD画質の時代じゃないと解っているのに。それでも欲しい。上記のように5万台なら即効小遣いで買う。
 一時代を築き上げたVX1000~PD150。保守的な僕はいまだにこいつらの時代に生きているのです。