精神的タフさなんてものは知らない

弱い?ああ弱いですよ。逃げるのか、とか、負けんなよ、とか言われるのも嫌いです。やな時は嫌だし、そんな時はさっさといなくなります。我慢なんてしてたまるか。

だいたい「逃げるのか」とか「逃げんなよ」と言われる時は「逃げたら相手の不利益になる時」です。

自分が不利益を被っても相手に大損害を与えるのが好きで「捨て身で地獄へ道連れ戦法」を取りやすい治安上不適切な僕が取る戦略は逃げるに決まってるでしょう。

労働管理者や体育会主義の人間には、こういう開き直り体質の人間が一番扱いにくいのです。扱いにくい存在になりたかったので願ったり叶ったりです。

そもそも、克服しようとかタフになろうなんて全く思わない。

ある側面戦慄するほどに楽観的であり、ある側面めっちゃ脆いです。でも人間みんなそんなのだろう。

僕の強みベクトルは、会社員的なプレッシャーには弱い。ああ弱いさ。知るかそんなもん。というか要るかそんなもん。熨斗つけて返して塩撒いてやる。

それでも、なんとか社会的価値を生み出して役に立ってる自信はあるよ。

「いや、たすくさん、今のその状態に、更に精神的タフさを身につけたら更に強いじゃないですか」「これを克服すればもっと役に立てるじゃないですか」

…なんてものじゃないんだなあ。それを真顔で言う人は、その、何というか、文学を知らなさすぎる。

今日もFMラジオ放送です。

ずっとアピールしないままというのも申し訳ない。
というか毎週定期的にやってるものはアピールすること自体に気が引けてしまうものです。

毎週木曜深夜1時、市川うららFM(83.0Mhz)にて「山本輔のビブリオフィリア」今もずっと継続的に3年近く番組継続中です。今週はもう140回目放送です。長くやっております。
(ポッドキャスト「教えてたすくせんせい」とは別番組です。あちらもあちらで70回近く行っております)

ラジオとは別に週三回10時から16時まで教壇に立ってそれ以外に週一回某県の動画セミナーに顔を出したり月2〜3回地方回ってpremiere実地訓練したりしてるんですが僕は本職物作り屋でしゃべり屋では無いのですがおい皆様聞いており(略)

市川にお住まいの方以外は、こちらからも視聴できます!聞いて聞いて。https://www.jcbasimul.com/?radio=fm%E3%81%86%E3%82%89%E3%82%89

やってることが多すぎてもう何が何やらではありますが、僕が何かをして喜んでくれる人が居るならなんでもやっていきます。「その発言はどうかと思うよ」「そういう行動はどうなの?」と顔を顰める方もいらっしゃるのかも知れませんが、あまり気にしなくなりました。僕が。なので好き放題放言していきます。夢は筒井康隆です。

今週はシルクソニック〜ブルーノマーズ、そしてバットマンニンジャショーの話題からバットダンスといつも通りの僕節を喋り続けております。喋らないと死にます。死なないで喋ります。夢は佐久間象山です。

過去のアーカイブはStand.fmにても配信中!

おお、なんか宣伝みたいだな。宣伝だからいいのだ。

何をなし得たいのか

僕は何がやりたいのか、何ができるのか。何をなすべきなのか。この歳になってもそんなことは知らないし興味がない。その時にやりたいことやるし、なんかできちゃったりご依頼もらっちゃったりしたらやってみるし、できなかったら次に行く。

何かを探求したり追求したりトップに立ったりという欲はない。はっきりと「無い」。

面倒臭いのだ。他人との競争が。猿山が。あと、人に何か言われるのが。遊んでいるうちにたどり着くところこそが僕の立ち位置だ。

はっきりと僕は自分の仕事観を「五歳児の砂場遊び」と定義づけた。やりたいことを欲の赴くままにやる。やりたくなかったらやらない。辞める。そこに理由なぞ存在しない。誰かにコントロールされることも大嫌いだ。

それでも、社会の役に立てるんだよ。実は。

「砂場のお城作り方教室」でも「自由に生きて笑顔をふりまくこと」でも「よくわかんないけどなんか売ります」でも。この世の中のお役に立てるんならそれでいいじゃないか。

僕の作る砂場のお城にお金を払ってくれる人が居たら、最高じゃないか。

ひょっとしたら施工法クリアして快適に住めるお城かもしれないんだよ。僕が建築設計に興味持ってたらね。だから「僕はこれがやりたいんだよおおおお」なんてしがみつくものもない。一つを除いて。

明日はアプリを作るし、明後日は絵を描く。そして3日後にはVJをやり、4日後には撮影をし、5日後には執筆のご依頼を引き受ける。

で、僕の職業は何だ。簡単だ。輔であり彌榮なのだ。

どんな看板も持ちたくないし、「代わり」という意味を持つ「代表」という言葉も嫌いなので(僕は僕であり、誰かの代弁者でもないし、ましてや常識人の代表、社会の公器、等々、おぞましい存在にはなりたくない。もちろんさせてくれないだろうけど。)、組織を持つ気はさらさらないのだが、地元の祭りにおける掛け声「イヤサ!」を屋号につけていることだけは、自分の矜持に関わっています。

後世に何か残したいとも思わん。自分語りをする老人の醜悪さを自分から遠ざけたいと同時に、僕なんかが何か残したら社会から迷惑極まりないと思うからだ。掃除せなあかんやないか。

でも、意外と、子供達は僕のような大人に憧れてくれるようだし、その背中を見せることは未来のためになっているし、世の中の価値になっているようだ。だからこそ、僕はいつもニコニコしていなければならない。疲れてはならない。疲れるくらいなら軽やかに逃げる!ちんちくりんだけどスマートに生きていきます。

仕事をする上で

仕事をする上で、ちゃんとすること。

どんなに小さな案件でも、先に金額を明示して、仕様内容を明確にして、書面を交わして(今はデータでも、メールの一文でも良いのだけど)、そこから準備を始めること。

自分が受注側でも、発注側でもね。

制作の仕事自体は、どうしたってトラブルの連続だ。トラブルがない現場なんてありえない。それゆえに、目の前をなんとかすることに精一杯で、そんなに契約云々四角四面になんてできないけれど、スタートとエンドはちゃんとしないといけない。

「この仕様で、この金額で今日からお願いするよ!」の合図

「これで終わったよ!検修完了!」の合図

ここを曖昧にすることで、実はリスクを背負うのは発注側なんだ。

僕は契約が曖昧な案件は、必ず直前に仕様と金額を確認する。

その上で、受けられない価格や仕様(責任範囲)を提示されたら「現場前日でも引き上げる」「納品後でも泣き寝入りしない」。泣かれても困る。困るけど引き上げる。 

発注書も何もなければ、契約は不成立だからだ。

さらには「そのクライアントが先々仕掛かっているものからも手を引く」。ビジネス上のリスクがあるからだ。

それでダメージを受ける売上減をカバーできるように「フト客を作らない」いつも多数他社の仕事を受ける、というポリシーでやって来ています。

ただ、発注側も、仕様を描くのが怖いんだ。それはわかってる。

仕様って何?「後はいい感じで。でもいい感じかどうかの判断はこっちで行います」って書いていいかな(=下請代金支払遅延等防止法にてこの様な明確でない仕様は却下されます。法的にどうこうなんて言いたかないが、グダグダになるよりはマシだ)。

仕様決定後に仕様が変わったらどうしよう(追加費用払うのやだから決めたくない)

納品報告後に修正来たらどうしよう(追加費用払うのやだから決めたくない)

…それこそハンドリング不足の問題じゃないか。

そこは頑張ってもらいたいし、赤が出たらそれを勉強代と考えて欲しい。

そこの仕様策定、修正交渉で出てくるロスを受注側に押し付けられても困るんだ。

それを押し付けてこない、矜持あるクライアントには、僕は逆に「こっちでなんとかするよ。フォローするよ。任せて!」とカバーする心意気になります。

そして、できることなら、この様な心意気で仕事したいのです。その気持ちと、曖昧な仕様発注は、意味が異なるのです。同時に、その気持ちを利用しようとする素振りが見えたらとても悲しくなります。

それゆえに、発注側にも、ちゃんと制作をわかってる、制作に愛がある人が立たなければならないんだ。

そういう人材がいないのならば、クライアント側は徹底的に映像現場を学ぶか、ディレクションフィーとしてハイコストを払うかしなければならない。

そこを飲み込むこと「金銭の部分は任せとけ。制作に集中してくれ」と差配するのが「間に入るもの」の仕事、だったはずじゃないかな。

これをちゃんとやってくれるクライアントには、僕はしっかりとついていきます。結局、愛と礼儀と敬意なんだ。

仕事というものは、とてもシンプルな信頼関係でできているものです。

僕だって、物作り屋。人間です。

心地よい人と、心地よい約束で、心地よく、良いものを作ることに集中したいです。

(クライアントも読める環境でこんなことを書くなんて!…と思われる方もいるかも知れません。でも、これを読んでる方は全て、この僕のポリシーを理解してくださってるクライアントさんだと思ってますし、そうじゃない方が万一いたとしても、自然と遠ざかるものと思っています。それが、お互いにとって幸せなのです。)

先生は偉くない

先生は偉くない。先生はただの役割である。

が、同時に受講生からの「師」としての視線を否定してもいけない。

偉くないが、師としての姿を裏切らないよう、自分の言動を律さなければいけない「損な役割」です。

だから、その…「先生になりたがる方」というのを、その、あまり、信頼するには時間がかかる。「この方本当に損な役割理解しておるのかな」と。

その上で、先生の役回りを十分に理解して、その役回りを粛々と引き受けている方を「せんせい」と呼びたい。「辛い役割ですね」という労いを込めて。

頼まれたの僕じゃん

その昔、ある有名なプロダクションの社長とお話しいただいていたときに出てきた言葉です。

いろいろ仕事をする中で、大事なのは「指名してもらえる」こと。

そのための根底が、信頼だったり技術だったりになる。

信頼を得るために、約束を守り続けたり、人として裸のお付き合いをしたりする。(これは信頼というより自分自身の生き様、矜持のためでもあるけれど)

技術を持って役に立つために、学び、現場経験を積む。

どんなに技術があって「デキる」ヤツでも、指名してもらえないことには、どんな仕事にも参加できない。

「あなたにお願いしたい」「あなたと一緒に仕事がしたい」と言われることは、どんな技術よりも強力なバックアップだし、むしろ仕事(取引行為)の本質がそこだと言っても過言ではない。AIが進化しても、そこに活路があると思ってる。

いろんな仕事をしていく中で、やっかまれたり疎まれたりすることもいろいろあります。

「なんでアイツが実力もないのにこんな仕事やってるんだ」とか「俺の方がもっとできる」とか。

だけど、そんな声は「だってお前選ばれてないじゃん。選ばれたの俺じゃん」と一蹴すればいいんだ、と。価格帯もキャラクターも、全てを含めてね。

そして頼まれるかどうか、選ばれるかどうかは「機会平等」ではない。天運や時流も含めて、選ばれる機会があるかどうかさえ変わるのだ。強いて言えば「神に選ばれているかどうか」も前提条件として重要だ。

…無償だって、頼まれない人には頼まれないのだ。

指名して頂いたのは君なんだ。それ以外の外野に耳を貸す必要はないんだよ、と。

迷惑をかけて生きる

僕は、ある一線を超えて忙しくなると「超絶出力モード」になる。まあなんというか、普段からうるさいが、文章でもうるさくなるのである。さっさとYouTuberでもなった方がよろしい。

と言うわけで、僕の筆が乗りまくっている時は「忙しいんだな」「躁状態なんだな」と生暖かく見ていただければ幸いでございます。

基本、僕は人に迷惑をかけて生きている。

それゆえに、皆様をイライラさせてしまうことも多々有る。

しかしながら、僕はそのことに気がつかないことも多く、そこに不幸が発生する。

すなわち「なにを怒られておるのか判らぬ」という珍事象に遭遇する。

どうにも様相脳内全てがパグ犬の様な生き物なもので、叱られるという状況が今ひとつ掴めずキョトンとする。何も悪いことをしている自覚がないからだ。そしてパグに失礼だ。

ただ、事前に言っておこう。往々にして、非は自分にある。

しかし、しかしだ。過ちを起こさない様に生きているつもりはなく、日々過ちだらけで生きているのだ。それは知った上で、治すためのコストと感情労働と苦難と、治した結果手に入るメリットを考えた結果、「できる限りは気をつけるけれども」「自分の機嫌を損ねない程度にとどめて」「自分が辛い思いをしないレベルにしておいて」「後は治さないで生きる」という選択をしておるのである。

迷惑をかけないのではなく、「ある程度の迷惑をごめんなさいして、その代わりにご機嫌でいるように」と心がけるのである。

いわゆる防災ではなく、減災である。この考え方である。そうだそうだ。これだ。

そういう話をすればするほどに、また他人様の逆鱗に触れ、怒り狂わせるわけである。

日本の社会は減災を認めず「災害を起こさないように努力すべきであり、少しでも迷惑を起こす人間は厄災である」という視点で排斥される。

然し乍ら世の大人というものは本質明確にすることを好まず、振り絞る様に「その様な振る舞いは如何かと思う」「誠に残念である」という言葉を我輩に投げかけてくるが、あいにくパグ脳な僕はその言葉の本質が全く届かぬ。すなわり理解できぬ。

嫌味は全く通じぬ。遠隔表現も一切通じぬ。「言う方も辛いんだぞそのうち周囲に誰も居なくなるぞ」と脅されても、よくわからぬものはわからぬのである。とりあえずごめんなさいしておく。

それゆえに「行動が変わらなければ結果も変わらない」というアインシュタインの発言通り、自明の理で世界が回るわけである。

とりあえず今言えることは「生まれてごめんなさい」「生きててごめんなさい」「でも生きてるからね」「何を言われようと僕はこのままに、このままに楽しく生き抜くからね」「上機嫌でいることは任せとけ」ということだけです。

真剣はいけない

真剣はいけない。真剣はよろしくない。

なにより、そこにゆとりがない。

ゆとりがないものは、格好良くないし、見栄えも悪い。

そして真剣であることを盾にとって

「真剣だから、本気だからやってよいのだ」という破綻したロジックで自己正当化しはじめる。

真剣にやっちゃダメだろう。ヒットラーだって毛沢東だって真剣だったのだ。

仕事もそうだが、特に恋愛など「真剣ほどよろしくない」最たるものである。

何事も、適当が良い。

適当に仕事をして、適当に恋愛をしよう。

適当というのは、適して当る、最もよいバランスだ。

動画とモーショングラフィックスの学校/スクール「BYND」が7年間、愛され続けてきた(と僕が感じる)理由。


こんにちは。映像作家の山本輔です。
今日は、僕が教鞭を取らせていただいている動画の学校「BYND」について、ほんの少しだけ、語らせていただけると嬉しいです。

とは言っても、本件は山本個人の思いであり、学校及び運営会社の意向とは関係ありません。

もし、動画関係の学校へ入学を検討している方がこちらを読んでおりましたら、

・僕は外部の人間(個人事業主)です。BYNDのスタッフ(社員)ではありません。
・とは言え、BYND創立期からずっとお付き合いがあり、長年講師をさせていただいている立場です。

ということを、差し引いて聞いていただけると幸いです。

まあ、あまり受講検討の参考には、なり難い内容ですが…。


先のNoteにて、僕は自分自身が映像屋として進退を決断した経緯を記しました。

Links to 「映像屋のフリーランスになる覚悟」


僕がロサンゼルスから帰ってきて「映像屋としての矜持」を伝えた時に出てきた「一緒に学校…やってみませんか」という(BYNDの)社長の申し出。

学校の設立。
全てはここから始まりました。

もちろん、社長の中ではその前から色々と企画を立てていたこととは思います。

でも、僕が知る限り、初めて動画の学校「BYND」の企画が出てきたのはこの時。2014年11月でした。
※当時は「ハリウッドキャリアスクール」という名称でした。

そして今年(2021年)、開校から7年間が経ちました。その間に1500人を超える卒業生が巣立ち、学校は小さいながらもずっと続いております。この学校が素晴らしいのは、何よりも、本当に何よりも「卒業生の多くが今でも愛し続けてくれる」場所になっていることです。

たった一ヶ月の学校なのに、同窓会もたくさん開催され、今でもご縁ある方が多く、卒業して仕事につながった方、プロになった方、同級生同士で結婚なされた方、それこそ映像作家100選に選ばれるにまでなった方…御礼の手紙、メッセージを僕にくれる方々も数知れず…。設立時は、この場所がこんなに愛されるなんて、正直思っていなかったのです。ここまでずっと続く学校になると思っていなかったのです。
ですが現実に、今も学校は続いています。改めて今、BYNDが続いている理由を、僕の視点からしたためておきたいな、と思いました。

1・スモールチャレンジだったこと

まず、BYNDは、上記の通り、本当に小さなチャレンジでした。
夢大きく、業界を変えていこうとか日本の映像文化を切り開こう、とかいうものではなく、かと言ってビジネス的にチャンスがあったという訳でもなく(いや、本当は知らないよ。社長には見えていたのかも知れないけれど)、

独立する僕がいて、
映像に知見のあるスタッフが存在して
じゃあ、一緒にやってみようか、と。

「始まりが小さいこと」
「夢を小さく始めたこと」

これは、すごく大事なことだと思っています。
初めは、事務所の一角で、それこそマンツーマンでの授業から。
少しづつ、形を作って、おかしなところがあったら直して、ダメだったら違うことをチャレンジしようとも考えて。

大々的な理想を打つ訳じゃない。ただ「一緒にやってみよう」と(僕の立場から言えば)僕を応援してくれる事業を作ってくれた。
そりゃ僕は、誠心誠意応えていくしかない訳です。
その際に、スモールチャレンジだったことは、プレッシャーの意味でも、人間関係の意味でも、非常に小回りのきく、自由な環境であることが救いになりました。

2・10年以上にわたる想いの共有があったこと

この会社の社長は、僕にとって16年来の上司です。前々職における「部長職」の方でした。その頃勤めていた会社は「クリエイティブスクール運営事業」。言うなれば学校業です。
僕と社長は、その時は「営業部長と営業部員」として、16年前に「学校とはどうあるべきか」「どうしたらみんなに喜んでもらえるか」をそれこそ週に3日間朝から晩まで議論を日々重ね重ね重ね重ね、考え続けてきました。
もちろん、その時にいた企業は社員が100人を超えており、どうしても経営判断としてできることは限られていましたが、その頃から僕はこの社長と想いを共にして「この人と学校を作ると、きっとこうなるだろうな」「こういう判断をするだろうな」「こういうことは嫌がろうだろうな」と、感覚を肌身に理解していました。

学校営業の現場を見ていた者同士が、それぞれ経営と講師に立つ、というのは、視座の共有、意識統一の意味において、大きなメリットになっていると感じます。

そして…

3・大事なのは「売上」より「人」と感じられたこと

その時からずっと思っていたこと。
この社長は「売上」よりも「人」を大事にする人だということです。
いや、そんなことどんな社長でも言ってるじゃないか、と。
ポリシーを喋ることは簡単です。

ですが、BYNDの社長は違います。前の職場では「ターミネーター」と言うニックネームがつく位に「意思貫徹」の思いが強烈な方なのです。(それを知ってか知らずか、BYNDには開校当時からT-800の頭像が飾ってあります)

その意思貫徹力はそれは営業職の時にスタッフのメンタルカバーとノルマ100%両方を完全に達成するためのクレイジーなまでの敏腕ぶりで記憶してました。

「一緒に仕事をしたいな、と思う方とだけジョインする」
「事業を大きくするために人は雇わない」
「事業のために人を変えるのではなく、その人にあった事業を作る」

これを本当に、頑なに実践していたのです。
ゆえに、BYNDはスタッフの人数、想い以上のスケールにしていません。売上だけのためにスケール拡大の無理をしません。それによって、スタッフはできる限り働きやすい環境で、受講生を心から笑顔で迎え入れることができる。全員の顔を覚えられる規模で居られる。少なくとも僕に関して言えば、僕という個性を尊重してくれて、一番僕のポテンシャルが発揮できる環境を用意してくださり、それに対して僕が応える形で受講生のポテンシャルを引き出そうとしています。

時流を見据えた一気呵成の事業拡大といった利益を取らず、今のスタッフを大事にする。それはすなわち、今の受講生を大事にすること。

いや、そりゃもちろん、社長をはじめ経営陣は(表には見せない)様々な波を乗り越えてきているとは思うのです。永く続けるための拡大も考えたりはしたと思うのです。でもそれをオクビにも出さず、常に「こういうポリシーでやるんだ」というスジを曲げない。それこそ頑固なまでにスジを曲げない。ここが本当に格好いいのです。そして、舵を切るときは「絶対に、徹底的に切る」。
僕はこの経営姿勢に対して、全力でサポートをするのです。

そして、その結果はそのまま「受講料」や「受講スタイル」にも反映されます。

不必要な金額は取らない。
できないサポートはしない(例えば、卒業後のサポートなどは行わない)。
やれば「人材紹介業」などもできるだろうけど、それは「していない」。
多分それは「フェアでない」と感じているから、でしょう。

そう、「フェア」というキーワードがポイントになります。

4・フェアでいること


「やることをやる」「必要なことをやる」「やらないことはやらないと入学前に明言する」

それこそ、卒業作品を全て掲示し、受講生からの声もほぼ(「てにをは」修正を除き)素のまま掲示してしまう、BYNDの姿勢は全てこの「フェア」であることが背骨になっていると思っています。

学校業はよく「良い作品(優秀作品)」を並べます。卒業生の声も、様々加筆修正を行います。もちろん、広報戦略としてそれを否定するつもりはありません。
ただ、BYNDは方針として「フェアに、何ができて、何ができていないのかちゃんと出そう。その上でチョイスしてもらおう」という姿勢を貫いています。

学校業はよく「卒業後のサポート」を行います。これは、実に学校側の収益構造として二重取り、三重取りが可能となる構造です。入学で収益、卒業で収益…。学校業と人材派遣業を両方行えてしまう、そしてそれはビジネス視点で学校を始める方が一度は考えるスキームなのです。

ですが、BYNDは今それを行なっていません。
「人材紹介は果たして学校のやるべきことだろうか」「学校ってそう言う場所だろうか」と言う本質論をしっかり考えた、結果だと思います。
(もともとBYNDの運営会社は人材紹介業を本業として行っておりましたし、免許も持っています。それでもなお、そこには手をつけないと言う姿勢です)

卒業後のサポート、人材派遣業、職業紹介業も「ちゃんとサポートできれば」良いサービスなのですが、今のスタッフ人数では、そこを満足いくところまで、お金を取ってはできないだろうと言う判断。そしたら、その事業、そのサービスを引っ込めるのです。「ニーズがあるから、収益になるから、やっちゃえ!」ではなく「できないことをやって、お金を取るのはフェアじゃない」。頑固なまでの「フェアたるべし。公正たるべし」の精神が根付いています。

5・愚直であること

もう、頑固と愚直が結びつくと、大変なことになります。

授業終了後には必ずスタッフ全員でミーティングをし、問題点を洗い出し、恐ろしいことに「次の授業までに必ず解決する」「解決できない時(それこそスタッフの勤務時間的に無理があるもの)は無理をさせずに、でも今できることを少しでも手を打っていく」

これを毎授業毎授業、それこそ7年間ずっと愚直に行い続けており、そこで改善してきた蓄積が圧倒的に多いのです。
それこそカリキュラムの内容において「Aを伝える前にBを伝えなくていいのか」「それをするために全体時間は調整できるのか」更には、「モニタの位置がちょっとずれていないか」「ずれていることで受講生は授業受けにくくないか」「座布団は硬すぎないか」「開始時のBGMはこれでいいのか」に至るまで、大の大人が真剣に会議し続けるのです。

そこに…若干のユーモアも混ぜながら。

「講師はライトセーバーを持つべきか」「学校らしいチャイムの音はどれか」に至るまで…。

これを、毎授業のミーティングのみならず、月一回のキャンプ(1クールをBYNDではキャンプと呼びます)終了時には、社長交え全スタッフで必ずミーティングしています。
そう、社長自ら必ず顔を出し「講師の持つライトセーバーの色」まで考え抜くのです。

これを愚直と言わずなんというのでしょう。
そして、「やるといったらやる」「ほんのわずかでも受講生が『受けにくいな』『授業しづらいな』と思ったところを改善する」が全スタッフ共有の上で7年積み重なった蓄積が一体どれ程のものになっていることか。

これこそが、BYNDの真の底力だと思っています。

6・スタッフが皆卒業生であり、卒業生の一人として「学校が長続きすることを願っている」こと


BYNDのスタッフは皆、BYNDの授業を受けています。(2021年現在、全員が僕の授業を受けてくださったかたばかりで恥ずかしい限りです)
あるスタッフに至っては、BYND受講中は別の会社で違う職種を行なっていたにもかかわらず、今は転職してBYNDの運営に携わるようになるなど、皆それぞれにBYNDに対して愛着を持ってくださっています。
そしてそれは、学校に対する愛というよりも「受講生」「卒業生」に対する愛情、いわゆる「人好き」が集まっているのです。
そして、このコミュニティが、末長く末長く続くことを期待している方々ばかりだと、言外の行動からもいつも感じるのです。

ある時、内容は語れませんが、社長が自ら、ある会社に電話をしたことがあるそうです。それは、BYNDに対する「事実に基づかない風評」が発生しそうな時でした。その風評元と思われるところに、社長自ら連絡したのです。

その内容については私もそばで聞いたわけではありません。ですが、会議でその話題が出た時に、社長から出た言葉が

「だって…BYNDが潰れちゃうと思ったから…」でした(かわいい)。

この言葉を聞いた時に、この人は本気でこの学校を長く続けよう、卒業生のための場所を残そうとしている。そのために身をもって戦う覚悟をしている。決して大きくしよう、収益を必要以上に上げようと言う欲を出さずに、この場所を護ろうとしてくれている。

こんな愛あふれる学校運営ができる人が他にどこにいると言うのか。

毎回の会議に全出席し、誰にも権限委譲せず、みんなで「一緒に作るBYND」を7年続けてくれている。いやもちろん、いつかはスタッフだけで回る仕組みになっていくのでしょうが、大事な部分で必ず経営層がちゃんと見てくれていること。「現場を、受講生を大事にしてくれている感」を覚えるのです。そりゃポテンシャルも200%発揮したくなります。

私事で恐縮ですが、僕は学習塾経営の息子に生まれて、それこそ予備校ブームの頃から私塾の栄枯盛衰を肌で感じてきました。どの様な塾が愛され、どの様な塾が淘汰されるか、それこそ家庭生活に関わるレベルで観察してきました。

地元の塾でも、何をやったら傾くか、どんな講師が子供たちから人気か、保護者は何を見ているか…僕には僕なりの「学校業としてやるべきこと」「やってはいけないこと」の線引きがあります。この話は、また次回ね。

その中で…。

ここまで、意思統一、目標に向かうスタッフの意思が揃って「誰1人取り残さず、受講生を見守っていく」「全ての判断基準は、卒業課題の提出率とクオリティである」というポリシーを一貫してくずさないメンタリティをもつ学校は、傾きにくいと感じます。なかなか他の学校ではなし得ないチームマインドであり、少人数で運営していることのメリットです。


大きく事業拡大をすることで、学校がなくなっちゃう可能性はないか。潰れちゃったら、一番悲しむのは卒業生たちだ。
「ブームに乗って一気に稼いで、ブームが過ぎたら学校を畳む」この場所を愛してくれる卒業生たちがいる中で、軽々しく「儲からないからやめた!」なんて振舞いをして良いものなのだろうか…
そう言った先々のことを、経営層はいつも考えてくれています。



第一期の卒業生が語ってくれました。
「僕の出身は博多です。東京に身寄りはありません。僕にとって『BYND』が東京の母校です。ずっとずっと、母校として存在し続けてくださいね」と。

僕は、その言葉を、しっかりと心に留めています。
きっと、全スタッフにも同じ思いがあることでしょう。

7.理想と収益のバランスが絶妙なこと


当然、学校は営利事業です。
理想論だけでは回りません。
が、他社の力をなるべく借りることなく、自分たちで、出ていくお金をなるべくカットしながら、それでもかける場所(特に受講環境づくり)には惜しまず、それを常に「ここに投下していいのか」を深く考えながら進める。
経営的には当たり前の思考ですが、そこに、前述の「頑固なまでの一貫性」「全員の意思統一」「スモールスタート」が重なると、とてつもなくシンプルに、間違いが少なくなります。


人を愛して、末永く、無理をせず。
そのための超高速なPDCA回しを毎週隅々まで。毎月社長から現場まで。こんなめんどくさい愚直な行動、なかなかできません。
ある意味「やると決めたらやる」の頑固さこそが、末長くの秘訣だと思います。


BYNDにとって。
他の学校は、ライバルではないのです。
百貨店に対して、デパートに対して、僕たちはセレクトショップ。
セレクトショップの隣に大型店があったとしても、共存できます。セレクトショップの隣に別のセレクトショップがあっても、楽しいじゃないか。

僕らは、僕たちの目で「良い」と思ったものを、心地よい空間で、フェアに、いつも顔馴染みのメンバーがいる環境で、提供するお店なのです。

店長の目の届く範囲の店舗を構え、全ての受講生、卒業生とちゃんと向き合って歩みゆく、小さな小さなブティックショップなのです。

小さいからこそ、運用コストも安い。スタッフも講師も少ないから、コミュニケーションロスやトラブルも少ない。大望野望を描いて始めたスクールではないから、フットワークも軽い。愚直だからこそ、他校には簡単に真似されない知見が数多く存在する。

これからも、末永く続かんことを。
誰よりも。僕が願っています。

僕はどこにも行きません。BYNDに育てられた、BYNDの講師です。

映像作家で映像講師。ビジュアルジョッキーオペラ歌手。
モーションデザイン、テレビ屋さん。
神出鬼没のBYND講師、山本輔でございます。

有り難くも以前には、僕に対して別の学校からいくつかオファーのお話もありましたが…僕には恐れ多すぎるお言葉としてありがたく頂戴しながら、辞退しております。お金ではなく、恩を返しながら、これまでの卒業生たち、そしてこれから「BYNDを選んでくれた人たち」への愛情あるサポートに、これからも尽力するのです。

長くなりましたが、僕の思いはこんな感じ。

ロサンゼルスと僕

7年前の今日。

僕はロサンゼルスにいました。

7年前、貯金も技術も何もなく、会社を追い出されて不安でどうしようもない僕がいました。

救いは、妻が「そんな会社辞めて正解です。心中覚悟でいきましょう」と言ってくれたこと。

両親が「ようやく辞めたか。おめでとう。好き放題生きてください」と言ってくれたこと。

映像の師匠が「ひどい顔してるぞ。早く辞めちまえ。お前の飯くらいなんとかしてやる」と言ってくれたこと(その後、本当になんとかしてくれた。この御恩はまだまだ返せていない)。

今思うと、結構救いは多かったな。

とはいえ、その時の自分は不安で不安で仕方なかったのです。「なんとかしてやる」も「おめでとう」も明日のおマンマにそのまま繋がる保証はない。ましてや「心中しようぜ」と言われても、その、なんだ、気持ちは嬉しいし、腹は括れたけど、まあ、その、怖いじゃないか。

その中で、もう一人僕の恩人が「山本くん、映像屋になるなら、ロサンゼルスに行っておかなきゃダメだよ。行ってみたらわかるよ。」と声をかけてくれた。

どうせくたばるなら、面白いことやって、恩人の声に耳を傾けてみようじゃないか。

心中覚悟、何も捨てるものもない僕は、借金してロサンゼルスに行きました。

映画の都、ロサンゼルス・ハリウッド。

今は映像最先端の地ではないとはいえ、そこには映像文化がしっかり根付いているわけで。

バーに入れば

「(現地の方)君はどういう仕事をやっているんだい?」

「え、え、フリーで映像を…」

「Cinematographer!(映像屋)すごいじゃないか!人を幸せにする仕事じゃないか!」

そうか。

僕は日本の中で、商流の下っ端の下っ端、おこぼれの案件を土下座して「おもらい、ありがとうございます…」と日当を乞う様に受注して月15万でも食いつないで生きていければ、くらいに考えていたけれども。

ここでは、僕の仕事は敬意あふれる素晴らしいものと認められている。

日本で言えば、医者や弁護士のように扱われている。

街を見れば、至る所に映像クリエイター、映画監督、編集技師の名前が彫られ、名前が上がり、「地元を喜ばせてくれる大事な職業」として扱われている。

そうか。そうなんだ。

僕は、とんでもない勘違いをしていたかもしれない。

僕がこれから飛び込もうとしている世界は、クライアントワークの下っ端なんていうせせこましいものではなく、「世界を喜ばせる、クライアントも僕らもお互いに敬意あふれる」とても素晴らしい職業なんじゃないか、と。

ユニバーサルスタジオハリウッドにもいきました。パラマウントスタジオツアーにもいきました。ソニーピクチャーズスタジオツアーにも行きました。

そこで展示されているもののみならず、その映像文化に対する誇らしい地元の方々の顔、見にくる観光客の嬉しそうな顔。

映像は世界を彩っている。人を幸せにしている。

この仕事が、商流の末端で細々と「食べていけるかな…」なんて不安を感じていてはならない。

この旅から、僕は何かが切り替わりました。

映像屋として、やっていこう、と。

それまで淀んでいた目が、変わったと思います。

もちろん、次の仕事の目処が立ったわけじゃありません。

でも、恩人の声の通り、行ってよかった。僕は会社を辞めて、この人生で間違ってなかったんだ。

そう信じることのできた瞬間でした。

そして、日本に戻ってきて。まずは恩人に挨拶をして。

その後、僕がハリウッドのお土産を持って向かった先は

その土地と同じ名前の会社「ハリウッドエージェント(当時)」でした。

そして、お土産を渡して挨拶し、熱く映像について語った際、社長から次に出てきた言葉は

「山本さん、一緒に学校始めませんか。BYNDを。」でした。

それが、今につながるのです。