何をなし得たいのか

僕は何がやりたいのか、何ができるのか。何をなすべきなのか。この歳になってもそんなことは知らないし興味がない。その時にやりたいことやるし、なんかできちゃったりご依頼もらっちゃったりしたらやってみるし、できなかったら次に行く。

何かを探求したり追求したりトップに立ったりという欲はない。はっきりと「無い」。

面倒臭いのだ。他人との競争が。猿山が。あと、人に何か言われるのが。遊んでいるうちにたどり着くところこそが僕の立ち位置だ。

はっきりと僕は自分の仕事観を「五歳児の砂場遊び」と定義づけた。やりたいことを欲の赴くままにやる。やりたくなかったらやらない。辞める。そこに理由なぞ存在しない。誰かにコントロールされることも大嫌いだ。

それでも、社会の役に立てるんだよ。実は。

「砂場のお城作り方教室」でも「自由に生きて笑顔をふりまくこと」でも「よくわかんないけどなんか売ります」でも。この世の中のお役に立てるんならそれでいいじゃないか。

僕の作る砂場のお城にお金を払ってくれる人が居たら、最高じゃないか。

ひょっとしたら施工法クリアして快適に住めるお城かもしれないんだよ。僕が建築設計に興味持ってたらね。だから「僕はこれがやりたいんだよおおおお」なんてしがみつくものもない。一つを除いて。

明日はアプリを作るし、明後日は絵を描く。そして3日後にはVJをやり、4日後には撮影をし、5日後には執筆のご依頼を引き受ける。

で、僕の職業は何だ。簡単だ。輔であり彌榮なのだ。

どんな看板も持ちたくないし、「代わり」という意味を持つ「代表」という言葉も嫌いなので(僕は僕であり、誰かの代弁者でもないし、ましてや常識人の代表、社会の公器、等々、おぞましい存在にはなりたくない。もちろんさせてくれないだろうけど。)、組織を持つ気はさらさらないのだが、地元の祭りにおける掛け声「イヤサ!」を屋号につけていることだけは、自分の矜持に関わっています。

後世に何か残したいとも思わん。自分語りをする老人の醜悪さを自分から遠ざけたいと同時に、僕なんかが何か残したら社会から迷惑極まりないと思うからだ。掃除せなあかんやないか。

でも、意外と、子供達は僕のような大人に憧れてくれるようだし、その背中を見せることは未来のためになっているし、世の中の価値になっているようだ。だからこそ、僕はいつもニコニコしていなければならない。疲れてはならない。疲れるくらいなら軽やかに逃げる!ちんちくりんだけどスマートに生きていきます。

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