しごと

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更新頻度が下がってます。
ちょっと10年前からさかのぼってみると、毎年この季節には更新頻度下がってます。うーん、何だろう。五月病?毎年「更新してなくてごめんなさい」と言う書き込みが5月にあるぞ。
 それはさておき。
 確かに、ココのところブログを更新する機会が減ってきた、とは思う。
 それはもちろん毎年のバイオリズムと言うものもあるのだろうけれど、それよりも気になることが一つ。
 「年を重ねて、俯瞰的に自分の人生観、仕事観というものを振り返ってみたときに、自分の観が現在の世の中や演じなければならない役割と少しずつギャップが生まれてきて、なかなか言葉として発し辛い」という状況?意識?が自分の中に芽生えていることだ。
 「こういうことを書いたら周りの人にどう思われるかな、と考えて書く内容を厳選したり、時には当たり障りの無い書き込みにとどめたり、まあ或いはクローズドで仲間内だけに向けたSNSの日記にて書き込んだり、と様々な形で社会と折り合いをつけながら、時にセルフブランディングツールとして、時に掃き溜めとして、ブログや日記システムを活用してきた人が多いのかもしれません。けど、僕はずっと「全関連性、全知り合い、全ステークホルダーに、本名で全部さらけ出す(或いはさらけ出してる様に演出する)」と頑なに意地をはって更新を続けてきました。でも、そのポリシーで書くこと自体、限界が近いのかもしれません。
 いやいや、別に反社会的な事を考えたり、世の中、社会に対して反抗的な気持ちを持っているわけではないのです。相変わらず、自分の今居るところは最高だと思っているし、自分の身の回りで起きていることはいつも自己変革を促してくれています。
 二十代、新卒で入った会社では、それこそ24時間働いて、「この仕事こそがオレのアイデンティティだ」と自分のやっていることに相当な誇りをもっていて、むしろ他の時間、他のスタンスを全て犠牲にしても仕事のために自分を追い込むことこそが善だと信じていたし、またそのとおりに行動してきました。
 その後、大きな会社を知り、フリーランスを経験し、会社を大きく見たり小さく見たり、する中で、仕事と自分の付き合い方、と言うものをいつも考えてきて。
 更に家族の病気や身内の死、まあ30代になるとみなが経験する人生の俯瞰図を重ねたときに、果たして自分は何にどこまで時間や能力をつぎ込んで、何に貢献して、何を大事にするのか、それを意識してモノを書くと、どうしてもある一定のスタンスの方々と相容れなくなってしまう可能性が出てくるのです。
 (むしろここまで、相容れない層を極力作らないように発言をよくしてきたな、と自分では思いますが)
 どこでも、誰でも書いていることですが、一昔前なら、ある程度仕事のロードマップも見えていたし、家族のあり方、道を外れない限りの社会からの保護、そういったものに「雛形」があり、その雛形どおりに生活すれば大過なく過ごせたのだろうと思います。むしろ人生のことに心配をせず、仕事に、趣味に没頭できた時代だったのかもしれません。
 でも、今の30代が当たり前に感じているように、どう生きるか、どう稼いで、どう家族を養って、どう社会に貢献して、どう反抗していくのか、それを自分で選んでいかないといけない。しかも正解はない。当たり前です。むしろ音楽やアートをしなくても、生きる事自体がパンクになったりクラシカルになったりする時代です。全員アーティスト。更に、自分のポリシーに合わせてそれをチョイスしていかなければならない、いやチョイスできるようになって来たのだと思います。
 仕事をどう大事にするのか。家族をどう大事にするのか。そして自分をどう大事にするのか。
 そのバランスは人それぞれ。
 全部を大事にして、自己研鑽に励むも良し。でも、体力には限りがあるからね。健康は一番だよ。
 体力には、「心の体力」も含めてね。

この2ヶ月間で。

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 震災が一番大きな影響であることはもちろんだが、それと同時に自分の部署異動、家庭環境の変化、周辺とのバランス、そういったものが大きく変化した2ヶ月間を過ごしてみて、ゆっくりと自省する時間(あるいは体力)をとることができず、ブログもなかなか筆が進まないまま時が流れてしまった。
 この間、職業人としての責任は果たしているが、自宅に帰ってからというもの、燃え尽きたような状態で深夜の時間を無為に過ごしている。
 もちろん、無為な時間を過ごせる贅沢、の味わいもそれなりに知っていて、「日々人間は努力成長していかなければならないものだ」なんて野暮な事は考えていない。
 しんしんと降り積もるように自分の中でエネルギーが蓄えられてくれば、人間は勝手に走り始める。鬱病の家族と8年近く過ごしてこれば、マインドセットされている人間理解。それにしたがって今は、ただ布団に篭って読書や映画鑑賞をあてどもなく過ごす毎日。
 何より、この僕が「けんかやま」のために富山に帰省もなく(開催日が日曜日で休日だというのに!)、都内に残ってのんびりと部屋の窓を見つめているという段階で、如何に自分のエネルギーが枯渇してるかわかる。
 自省ではなく、自分を空っぽにして会話する。うん。集中もしない。体力も使わない。
 自分と話すに限る。ネガティブにならず、阿呆な面を前に出して。
 自分の中の阿呆さほど真理を伝えてくれるものは無いと思う。見栄や、こだわりや、しがらみを無視して話してくれる。
 そんな自分にも、廻りの人たちにも、感謝して。
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