記事の順番は前後するけど、先週は友人の上京にあわせて、一晩中おお遊び。
言うまでも無く、上京したのは30年来の友人にしてサイトの最長寿常連客、中野氏である。
今回も前回の上京と同じように、まずはダーツダーツダーツ。
メンタル面が非常に似通っていることもあり、何をやっても本当に面白い勝負ができます。
今回も数勝負やりましたが、クリケットにて久々にびりびりする程の鍔迫り合いを経験。
お互いに点数を逆転し合い、一ラウンドでもはずしたらその瞬間に相手の勝ちが決定するような緊迫感の中で16ラウンド。17ラウンド目に僕が一瞬気が緩んだためにその瞬間に全面クローズ。最終的に450-435という得点差での勝負になりました。いやー、本当に接戦、面白かったです。
その後は僕の自宅まで遊びに来てくれて、映像話から起業話、安曇野話などいろいろ盛り上がりました。
中野氏はいまや安曇野で大活躍する国家資格持ちのマッサージ&カイロプラクティックの名師です。18歳で一緒に上京してきてから、お互いに転がりまわっては時々生存確認をしあう仲。サラリーマンをちょこっとだけ経験したり、独立しては苦労してみたり、いろんなところで僕と二人三脚を続けてくれているありがたい友人です。
そんな彼とのハードナイトでは
・マッサージ師の世界のビジネスモデルは面白いのだな。
・実際にマッサージ受けてみて、リンパの流れ?が良くなるのを実感。
・iOS4はあまりお勧めしない。
・東京は暑いのである。
・でも氷川台で経験したあの92年の夏。あれよりは涼しいと思うぞ。
・あの時も延々とスーファミやってたな。
・大川寺遊園って廃墟になってるんだね。
・そんなにわさびが食べたいわけじゃない。
・着るカバンはなかなかすばらしい。
なんて事で盛り上がってました。
また東京に来るときにはぜひ!
僕もダーツの腕を磨いておきます。
月: 2010年7月
神楽坂郷愁
僕の一番好きな街。新宿区神楽坂。
97~99年はここで制作の仕事を行い、24時間この街中を闊歩してました。
昔よく打ち合わせに使ってたカフェド・クリエも、赤城神社も、毎日、朝まで飲んでたバンビーノも、思い出の箪笥区民センターも日交神楽坂ビルも、10年経った今でも残っていてくれるのがとてもうれしく、また戻ってきた僕を受け止めてくれている気持ちになりました。もう、ここまでくると、富山に匹敵するぐらい故郷かもしれない。僕がそういうと、神楽坂住民はめっちゃ嫌な顔するかもしれないけど。
今日はその中、大学時代の先輩方女性三名と、久々の宴席に参加してきました。
久々、といってるけど、久々どころではなく、それこそ十数年ぶりの再会でした。
2期上のTコ先輩とTテ先輩と、3期上のSホ先輩。もう恐縮するドコロではありません。先輩には襟を正して接しないともやもやする僕、久々に気がつけば正座してしまいました。
・・・なんつーか、社会人になって長年たち、特にIT企業(と呼ばれる会社)に勤めていると、目上の方と接する時が極端に少なくなっています。まだこれでも齢三十台。先輩方から受ける薫陶が道しるべとなる世代です。自らも道しるべとならなければいけない世代でもありますけどね。僕の場合樹海への一本道ですが。
とても心地よい時間でした。
それぞれがそれぞれに時間を重ね、素敵な宴席を楽しめました。
僕にとって大学時代は、やはり二つ目の故郷であり、早大合唱団は、僕の家庭、先輩後輩同期は家族なのです。
(今居る職場も家族だと思ってるし、居る場所会う人全部家族と感じてますが、事実だから仕方ない。どれだけ大所帯をまかなえるかで男の甲斐性が決まると思ってるこの性格、何とかしないといけません)
人への接し方が全く解らず、でも寂しがり屋の僕はひたすら人のプライベートスペースに踏み込む事でだけ自分のポジションを確保していたあの時代。自分の居場所にしがみつく為に人を傷つけることも厭わないぐらい根っこが不安定だった時代。年齢関係なく、幼いとはこういう事かと思い出すあの時代。ほんとーにご迷惑ばかりお掛けしていました。特に先輩方、あんな事やあんな事やあんな事ばかり思い出して・・・あああああああ。ごめんなさい先輩。もう二度と裸になりません。もう二度とマーライオンのような真似をしません。もう二度とお子様な真似をしません。でもひょっとしたらもう一回くらいするかもしれないのでその時はお世話してください。<駄目な大人。
そう、先輩方には大学時代「君らはほんとーに手を焼いたよ!」と真顔で言われるほどに叱られ続けた我が期生。僕らが幼すぎたのかと思ってたけど、30代も半ばに差し掛かり、俯瞰してその頃をおこいだすと、先輩方は先輩方で悩んだり困ったりしていたし、いろんな青春の中で僕らと接していてくれたんだなぁ、と感じました。あの時以上に、少しは対等にお話ができるようになったのかな。
失礼を恐れず、ひとつ思ったこと。
年齢を重ねると、人によっては本当に年齢以上にうちに篭ったり、卑近的になってしまったりする事があると思うんです。まあ、人によってなのか時によってなのかはわからないけれど。一般には「所帯じみる」という言葉が当てはまるのでしょうね。
年の重ね方によっては、話題が全く重ならなかったり、昔の面影が消えてしまったり、という可能性もあります。久々に先輩方に会う前には、そういった切なさを受け止めることも、覚悟してました。
(逆にお前はどうなんだよ。といわれたら、はい、ええ、もうエラく所帯じみたオッサンになってますが。わはは。目の前の生活しかみておらんわ。わはは。)
が、昨日お会いした3人の先輩の、それはもう素敵だったこと。
過去は過去で捕われず思い出として大事にしながら、目の前の生活と現実を楽しみながら、未来もちゃんと見ているその姿、けらけら笑いながら人生のヨシナゴトを大事にするなり蹴っ飛ばすなりしながらタフに生きるその姿、やっぱり先輩方は、いくつになっても僕の尊敬する偉大な先輩でした。
なかなかお会いできないため、なかなか迷惑をかけられなくなってしまってますが(まだ掛ける気かよ)、これからもまた機会があれば、いや機会を作って、皆さんと共に楽しんでいきたいと思います。
過去を、ね、懐かしんで終わる人たちじゃないと思ったのです。
いい形で過去を大事にして、次につなげている人たちだからこそ、一緒に楽しんでいきたいのです。
根っこが同じ場所にあり、未来をそれぞれに見据えている仲間。血縁云々じゃなく、僕はこれを家族と定義・認識しているのです。
先輩方が嫌がってもついていくのです。
今聞くと、この曲も回想、回顧の曲じゃなく、未来を歌ってるんだな。
さすがに回想の曲が中学高校生に受け止められる訳が無いか。
新ドメイン「royalscam.jp」
こちらのブログ、新ドメイン「royalscam.jp」で運用はじめました。
http://www.royalscam.jp
内容は特に変わりません。覚えやすいほうでご活用くださいませ。
サーバやブログの仕組みなども変更なしですよ。
・さくらインターネット/ Heteml
・ムームードメイン
・MobavleType / WordPress
もうさすがに自分のセッティング手段がパターン化してきました(MTは3.3と5を並存)。このセットでできることなら何でも引き受けられる自信が(ちょっとだけ)あります。今後ともご愛顧のほど、よろしくお願いいたします。
更には近日中にワンコンテンツ増やす予定です。
頭の悪い僕が、ようやくPHPを(ちょっとだけ)理解することができ、念願のCMS、Open●●●をインストール&カスタマイズできました。また僕らしい仲間内の暑苦しいコンテンツで遊んでいただけるよう、鋭意努力してまいります。努力の前提が間違ってる言うな。
制作環境
以前から、僕の家の制作環境に関して「見に行きたい」「どないなってんねん」「どんな変な自宅なんですか」「はげてますね」など、いろいろご意見を頂いておりましたので、ちょっとだけ公開。えい。
前に写真アップしたときはまだ環境整ってなかったしね。
見ていただいたらわかるように、ホント3畳内にコンパクトにまとまった環境なんですよ。自分の部屋の半分をこのように使ってます。見せちゃうと、ね。秘密が無くなって詰まらないものなのですが、シンプルなことがお分かりいただけるかと思います。
PCマシンは足元にあと2台。同様に足元にベースアンプが一台。音響は2.1チャンネルです。普通に生活するとあまりに暑くなるのでクーラーつけっぱなしです。
カーテンの地はいろいろ訳ありでこの紋様です。
この環境にて、ゆっくりとファイアーエムブレムをやったり低音を効かせて祭囃子を聞いたり、肌色の画面を眺めたりしています。あれ?
おごれるものは ドツボにはまる。
Links to ファイアーエムブレム
このブログで特に取り上げてはいませんでしたが、当たり前のごとくAmazonで予約し、当たり前のごとく発売日にGet。当たり前のごとくエムブレム三昧の日々を送っています。
・死んだキャラが生き返る「カジュアルモード」搭載はFE一世一代の大決断だけど、やっぱり実際にやるのは、死んだキャラクターが2度と生き返らない「クラシックモード」です。この緊迫プレイがしっくりきます。
・そしてこの緊張感でやるゲームはどう考えてもマゾヒズム。
・更にやらなくてもいい闘技場で延々とレベルアップするのもただのマゾヒズム。
・すでにゲームやってるのか作業をやっているのかわからない。
・とりあえず2日で13章までクリア。後半分。
・キャラクター77人は多すぎ。
・というか暗黒竜シリーズ全員の大同窓会。
・もう、踊る大捜査線3か、と。
・あ、そういえば踊る大捜査線3も見にいったんだった。
・因みに「孤高のメス」も見てきました。
・まあ、それはそれとして。
・でもひときわ愛されてるのは僧侶リフ
・絶対開発者に僧侶リフのファンが居るだろう。
・登場シーンから途中の会話まで、リフの部分だけ別に練りこまれてるぞ。
・わたしは そうりょリフ。 たたかいはできませんが ちりょうのつえがつかえます よろしければ ごいっしょさせてください
いえ、間に合ってます。
ファミコン版から愛しているゲームにて、20年越しのドラマを見せられると、長生きしてよかった、と思います。長生きの良さは時間が織り成す奥深いドラマをリアルタイムに体感できること。人生これ劇場。長生きってもまだ三十数年だけどさ。中学生の頃、某RBGにおいて、バラモス討伐の直後にアレフガルドの地に降り立ち、1~3の壮大な繋がりを感じたときには鳥肌が立ちましたが、それに近いドラマを感じましたよ、この20年越しの僧侶リフ。暗黒竜のリメイクでも感動したけど、ついに紋章にも登場することができたのか僧侶リフ。すでにこのブログの読者は誰もついてこれて居ないぞ僧侶リフ。
因みに僕の僧侶リフはLv20→司祭Lv20としてパーティ全体のライフを統括する偉大なる役職にて活動しています。
リフ話はとまらないのでこのくらいにして。
とにかく僕はファミコンウォーズといいファイアーエムブレムといい、この手のシミュレーションゲームが大好きで仕方が無い。
ただ、将棋やチェスを含めて、この手のシミュレーションゲームとファイアーエムブレムは戦略的に大きく違う部分があり、その点で僕はこのゲームを頭の中の「シミュレーション箱」の中でも別枠に入れているのです。
それは、冒頭にも書いた「死んだ仲間は生き返らない」と言うことと「失いたくない、と言う愛着」この2点に尽きます。
シミュレーションゲームでは基本的に生産と消費が必ずつき物です。手を打ったらその手を捨てて、更にその上に手をかぶせる、の繰り返しで戦局を動かしていく事が基本になります。一点を突破するために(たとえば将棋なら)同金、同桂と、駒を捨てていくイメージですね。
ファイアーエムブレムでもそういう遊び方はできるはずなのですが、とにかく仲間(駒?)を一人も失いたくない、という愛着がわき、その上で戦局を進めなければならない、と言うのが、非常に自分のウェットな部分の琴線に触れるのです。
如何に捨て駒にせず、守りながらも攻め筋を作るか・・・。
ファイアーエムブレムの場合、同戦力同士の均衡からスタートするゲームではなく、ストーリーを追う中で、(基本的には)クリアできる戦力差の中でのゲームになるので、その意味ではシミュレーションと言うよりはパズルゲームと言ったほうがいいのかも知れません。ただ一手一手をじっくりと考えながら、絶対に死なないように、相手からクリティカルを受けた場合はどうするのか、どこのマスまで相手は攻めてくるのか、相手の攻撃力と自分のHPを考えながら自駒を動かす、その時間がとても楽しく、また経営に近いものを感じているのです。
と、祭りのときと同じように今日も暑苦しく語ってしまった。ただでさえ暑いのに。
とりあえずブログはこのくらいにして、今日はこれからリンダとシーダとエストとゴードンとジュリアンの闘技場訓練が待ってます。いわば経営で言えば人材育成!人材の育成って大変なんだね・・・ファイアーエムブレムをやってると、つくづく思います。それではまた明日!
佐原の大祭
はい。行ってきました。小江戸佐原のお祭りです。
京都ではもちろん「曳山総大将」でもある祇園祭が開催されているのは承知してますが、今回は千葉県佐原市の本祭を見てまいりました。そのうち日本中の曳山制覇してやるからな。
因みに佐原は川越や栃木と同様、小江戸として発達してきた側面が強いため、江戸文化を根とした祭りが主流になります。なので、「山車(やま)」ではなく「山車(だし)」なんですね。ええ。川越祭も同じく山車が出ますが、非常に似ています。上人形が大きくクローズアップされていたり、車輪は内車輪だったりと、文化圏の違いが見えますね。
夏に10台、秋に14台、更にそれぞれ3日づつと言う、山車マニアにはたまらない町ですね。年に6日と言うことは、2ヶ月に一日曳き山が出ている計算ではないですか。
て、ついてこれるひとー。おーい。
なんでみんなこの話についてきてくれないのだろう。僕一晩中でも語るのに。
お囃子の皆様
鯉。説明無用。
休憩中も粋なものです。
うちのかみさんも佐原では神様扱いされてた様です。
こんなに巨大化してるとは。
見せ場。のの字回し。交差点で大きく回します。
この力強さが祭りの真骨頂です。
応援する女性陣。僕も応援されたい。
2体乗りの名物だし。金時山姥。
彫り物も見事
夜が更け、さらに風流が増します。
タケミカヅチを背負った男の気概。
そして手踊り。
3年ごとに交代する年番(当番町)の提灯。
この重責、この提灯に祭りの伝統が込められています。
仁井宿。鷹!博多に出張しても喜ばれそうです。
でもこの3年は年番を務める区なので、出張どころではないですね。
手踊りのベストショット。仁愛。
て
神は細部に宿ります。
やっぱり曳き山は夜に限ります。提灯の明かりが映えます。
そしてこの祭り、僕が一番感動したのは、「川沿いを進む夏の曳山の風流」と言うこと。
いや、伏木のけんかやまも秩父の夜祭も、町の中に川って無かったんですよね。川面に浮かぶ曳山のシルエットの美しさは、この祭りの一番の見所だと思います。これを見れただけでも、僕はこの祭りに来た甲斐があった。本当に感動した。
ついつい川まで降りて撮影。
川の両岸を曳かれる山車。こんなシチュエーション初めてです。
川岸で夕涼みをしながら、川面に浮かぶ曳山の姿を眺める夏。
こんなプレイを楽しめるなんて僕の人生はなんて幸せなのでしょう。
これにきゅんきゅんくる僕は何かおかしいのでしょうか。
そんなこんなで曳き山三昧な金曜日でした。
日曜日まで佐原の大祭は行ってますので、これを見たみなさん、本日、佐原へGo!
因みに、いつもの佐原はこんな感じ。町中央を流れるこの川が本当に風流です。
明日は佐原に居ます。探さないでください。
明日は佐原市まで遠征します。探さないで下さい。
理由は簡単。明日は祭り、しかも曳き山です。僕が行かない理由がありません。
Links to 佐原の大祭- Wikipedia
見に行くの、初めてなんですよね。同じ県内の曳き山をまだ見たことが無いなど、曳山マニアとして恥ずかしいことこの上ありません。明日は相棒のEOS 7Dと共に佐原の街中を闊歩する予定です。
もうなんでこんなに曳き山が好きなのか自分でも説明がつきません。
ただもう、街中を曳かれるやまに連れ立って歩くだけで僕は心から幸せになるのです。もうなんだか変な病気の域に来てると思います。
明日以降のブログには写真と共に暑苦しい僕の祭り駄文が並ぶことになるでしょうが、気にしないでご熟読ください。隅から隅まで舐めまわすように。
明日はいい天気になりますように。みんなが楽しく、地元を愛する人たちが誇れる祭りを無事に開催できますように。
おとなになるということ
ここのところ、あまり外で遊んでない。誰か遊んでくれ。
とはいえ、友人のバンドがライブを行うにあたって撮影に出かけたり、一緒に面白いイベントやろうぜ、という声に引っ張られて企画を練ったり、iPad使って新商品展開しようぜ、という声をかけられて思わず僕がipad買っちゃいそうになったり、自分でもBassを久々に引っ張り出して弾いてみたりと、何かと活動すること自体は数多く行っている。
年を重ねて、落ち着いてくるかと思っていたけれど、現実には二十歳の頃から何も変わらない。
この状態は、自分の倅ができるまでは変わらないんじゃないかと思ってきた。できても変わらないかもしれないけど。
でも、それでいいんだと最近は開き直り始めた。
年をとるとそれなりに規範となって動いたり、若い人たちの礎にならなければいけなくなったりと、そういう面もあるのかもしれない。だけど、実際には心底楽しんで仕事も遊びも身奇麗に謳歌することが結局は規範だと思うし、下手に年齢を理由に自分をがんじがらめにすることが一番やさぐれていく因子だと感じている。
僕の周りで、綺麗に遊んでいる大人たちのなんと模範的なことか。
そして、自分の父親を振り返って、いかに綺麗に遊ぶことを教えてくれてきたか、この年になってちょっとだけ理解するようになってきた。
親孝行の意味も少しだけわかった。
僕が楽しく生きること、本当に、それだけで、まずはいいのだ。
楽しくないと、ゆとりがない。ゆとりが無いと、親に見せられる顔が無い。金があってもそんなもんどうしようもない。
いいかげん、でいいのだ。
いいかげんは、良い加減と書きます。
大人は、いいかげんです。責任背負ったがんじがらめのやる気満々君は、大学生くらいの青少年に任せておきましょう。
手紙
部屋を掃除していると、遠い遠い昔からの、友人たちの手紙の束が出てきた。
直筆の手紙をしたためる文化に居られたことを、今更ながら幸せに思う。
大人になりたくないと思いながらも、この頃から比べると大人になってしまっているのだな。
擦れて、疲れて、うまく世渡りできるようになって、青さをなくして素直に健全になってしまった。
まあ、よいのだ。応援してくれる方々の声が聞こえました。うむ。
パソコンスクール開始から10年
あの日から10年が経ちました。
Links to 2000.7.10の記事
10年前僕はパソコンスクールを運営していました。
7月10日はその母体となる第一校舎「武蔵が辻校」の開校日。
この日から約2年、複数にわたる拠点で延べ人数だと数百人の方々にお世話になりました。
そのころの写真。
武蔵が辻校 正面
教室
第二校舎(ご迷惑がかかることもあるので名前は出しません。モザイクもかけておきます)
第三校舎
第四校舎
開講初日、初めに来てくれたお客様のことはしっかり覚えています。はじめのころは1日1人づつ増えて、少しづつ個別学習の時間が埋まっていきました。
よりよい講座を提供すること、講師としてのスキル、広報戦略、人材の活用・・・いろんなことを学びながら、すぐに実践しながら、毎日を送っていました。
そして、第二校舎開講の日、説明会には50名近くのお客様に参加していただき、そのほとんどの皆様にお申し込みいただけた、僕にとってはじめてのビジネス成功体験も経験させてもらいました。(その夜のKawakami先生とのハイタッチ、今でもしっかりと覚えています)
授業そのものはきちんと、皆様に提供できたと思っています。
今でも、当時の生徒さんから年賀状が来ます。このことは、未だに、僕の支えです。お客様に尽くすことができた、と感じています。
でも、バックオフィスの部分では、統括兼主任講師なんてえらぶってましたが、結局それはヒトに任せることができない、マネジメントできない、経営できないということの裏返しだったのですね。
朝から授業をやって教材作って面談やってマシントラブル直して企画立ててチラシ織込やってお金の算段やって・・・それは一人の人間ができる範囲ではないのです。
制作会社に3年勤めた経験を元に、半ば勢いではじめたスクール、当時は(今もだけれど)マネジメントも経営も会計も何もわからないまま、全てを力技でこなそうとしていました。
その結果は・・・家族を破綻させて、精神を病み、後始末もできないままにさまざまな方にご迷惑をお掛けするという結末。東京に逃げるように飛び出してきました。
そのときの無礼、いつか詫びに行かねば、と今でも思っています。
(早く結果を出して詫びれる状態になりたい、今がんばる理由のひとつにはそれもあります。)
同時に、当時僕が身をもって・・・
・人間下手なことでは死なない。
・お世話になった方々への感謝が何より大事。
・入金は恐ろしいほど大事だけど、何のために稼ぐのか考える。
・自分の時間はちゃんと確保する。
・気持ちが一杯になるまで仕事することはただの不義理である。
・経営者であっても、仕事以上に家族は大事にしなければならない。でないと破綻する。
などなどを、徹底的に思い知ることができました。
当時特にお世話になったのは、近くの学習塾に勤める友人(先輩)です。息抜きをさせてもらったり、一緒にビラ配りを手伝ってもらったり、彼のおかげで何とか正気を保つことができました。彼が居なければ僕はもっと早く首をつっていたことでしょう。(kazuさん、お世話になりました)
このこと自体を振り返ることができるようになったのも、つい最近のことです。
いつかまた、僕は自分の看板で何かを始めることがあると思っていますが、以前のこの事をしっかり見つめなおすことができない限りは、同じ失敗をすると思っています。
パソコンスクールRustyRed開講から10年、もう一度、自分の成功体験と失敗体験、お世話になった皆様を総括して考えます。
それは仕事柄、今の仕事にリアルに反映されて、結果につながることでしょう。いや、そうじゃなかったら総括にならないだろう。
・・・それにしても、かみさんの病気といい起業苦労といい、自業自得とはいえ、この10年間、なんでわたしゃこんな苦労の多い人生を歩んでおるのだ。それを楽しいと思っているからか。そうか。うむ。自分で選んだ道だ。好き好んで進んでいる道だからこそ、僕は笑っていられるのだ。わはは。絶対負けないからな。
苦労と人の辛さと悲しみを知った上で、優しい人間になりたい。
強くなる、成り上がる、等には価値をあまり感じていないのです。
僕の中で一番の価値は「慈忍」です。忍んで慈しむことのできる人間でありたい。理不尽すらも一笑のうちに飲み込んで許してしまう許容量、僕はそれが欲しいのです。
そこから逆算すると、確実にこの10年間は、僕を鍛えてくれた。
苦労は多いけれど、僕が自分で責任持って選んだ道なんだな、と体感します。
本当に、ありがたく、楽しく、思います。
また酔っ払ったような結論に来たので、この辺で終わり!