今年の伏木曳山祭「けんかやま」

IMG_5818戻ってきたんです。充電完了して、1週間の休みを終えて、仕事場に戻ってきたんです。

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今年も祭りに参加できて、本当に良かった。明日からはまた唐突にフルスロットルな毎日です。

毎年言ってることなんだけど、今年は最高に楽しかった。いやもちろん、去年も、一昨年も、いつも楽しいのだけど、今年はまた格別だった。天気も良く、日曜開催で、更には七町がそろう記念の年と、僕のみならず皆さん気合の入った年でした。

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そして、あまりにも感極まり過ぎて、僕、今年4回も泣いてしまったんですよね。曳山引いてる最中3回と、終わってから1回。どこで泣いたかは長くなるので別で書き留めます。自分のチラシの裏にでも。

こんなに泣いたのは今年のゲストが照英さんだったからに違いないと勝手に思っています。

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と、思ったけど、今も感極まり始めたのでやっぱり書く。ちょっとだけ。本当に書くと原稿用紙50枚はいく。この話だけでご飯は20杯ほど食べられる。

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IMG_5828最初に涙が出てきたのは、昼山が終わる前、中町の5連続カーブを曲がっている最中でした。そこまでもみんな気合の入ったイヤサの掛け声をかけていたのですが、この時、全員が本当に心の底から声を出して、大合唱になった瞬間があったのです。この時に僕はダーと涙が出てきまして。もう、本当に、町内一帯で全員「やまが好き」という思いが溢れたひと時でした。

わかるか。わかりますか。幼い子供からは憧れと羨望の目線を送られ、女性からはうっとりした目で見つめられ、年配の方からは慈しみ溢れる目で眺められる、曳山という存在の凄さを。素晴らしさを。偉大さを。わからなかったら何回でも説明してやる。それがイヤなら来年見に来なさい。わかったら原稿用紙3枚で感想文提出な。

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2回目は、かっちゃの真っ最中。これは別の涙でした。

IMG_5848これは説明からして長くなるのですが、とにかく「かっちゃ(ぶつけ合い)のとき、一番前で曳山を押す係は本当に怖い」ということ。これはあれだ。肝っ玉勝負なのだ。逃げないでどこまで押せるか試されてるのだ。でも、後ろから僕の肩も力いっぱい押されてるから逃げられないのだ。そして前は見えないのだ。一瞬遅れたら圧死する。死なないにしても確実に腕か肩の骨折れる。やばい。まじやばい。こんな怖い祭りだったとは今初めて知った。その役目をやってる最中に、喉はカラカラになり涙が滲みました。命がけって冗談で言ってる場合じゃない。けんかやまって名前は伊達じゃなかった。なんでこんなことやってんやろ。なんでこんなアホなことに本気で命かけてるんだろ。ほんまにダラ(馬鹿)や。よし、来年も一番前で参加してやる。という、恐怖と度胸試しの涙でした。
なんだろう、僕はこれまで、全く興味を持ってこなかった世界ですが、F1レーサーとか、騎手とか、命を張る現場に居る方々の充実感が、ほんの少しだけ、解った気がしたのです。生きるとはかくも熱いものなのか。40超えて初めて知った(遅すぎる)。

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3回目は、夜の帳が下りた後、すべてのかっちゃが終わった後です。

IMG_5847観光客も皆帰り、シンと静まり返った中でお囃子を奏で続ける曳山とともに休憩をしている最中のことでした。

本当に、本当に、知らない人には単に気持ち悪がられると思うのですが。ええ、いいです。気持ち悪い行動だとは思うのですが。それでも仕方ない。だって好きなんだもん。

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かっちゃが終わってボロボロに傷んだ付け長手と曳山を眺めて、様々な部位を触っている時に、あまりに愛おしすぎて、抱きしめたくなっちゃったですよ。ええ、抱きしめましたよ。付け長手を。気持ち悪いって言うなら言え。

そしたら、また涙が出てきまして。

曳山は船であり海であり大地でありご神体なのだ。8トンを超えるこの巨大な曳山が悠然と、そして満身創痍の姿でたたずんでいる状況に、僕は畏怖してしまいまして。本当に、本当に感謝と、嬉しさに溢れまして。部屋もワイシャツも私もないけど切なさと愛しさと心強さに溢れる一瞬。いや、おちゃらけて書いてますけど、こんな感情に溢れたこと、ないですよ。正直、どうやって文章に落とせばいいのかさえまだ解ってないのです。解ったらもう一度書く予定です。今の段階では文章も何もかもが破綻してますが、これは僕の感情の破綻なのです。皆様ついてきてください。

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そして最後は、後吹きと呼ばれる後夜祭。祭りの翌日、後片付けも終わった後に町内みんなで宴を行ったときのことです。

なんだかんだとバタバタして、この後吹きに参加できたのは今年が初めてだったのですが、こちらも本当に貴重な宴だったのですね。翌年の総代が発表になったり、鍵の授与があったりと、本当に重大な式典であることを改めて知りました。来年からはきちんと参加します。すみません。

そして、そこでは、囃子方(笛と太鼓)によるお囃子とお神楽の演奏がありまして。

なんというのでしょう、この、囃子方という存在の大きさ、いや、僕も獅子舞で囃子方やってたので重要性はよくわかってるつもりだったのですが、本当に神事として祭りが存在できているのは、囃子方があるからに他ならないのです。お囃子っていうのは、あれです。いわゆるお祭りでいうピーヒャラピーヒャラドンドンというお祭りらしいサウンドですね。僕はこういう書き方してますが他人が「お祭りってピーヒャラするやつだろ」とか言われたら本気で怒りますが。山鹿流出陣太鼓なめんじゃねぇ。

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そして、お神楽というのはいわゆる雅楽的な、神様に捧げる曲目です。

これも説明しだすと長いのですが、お神楽は宮参りや山宿、曳き始めや曳き終わりなど大事な場面で必ず演奏されるのですね。そして、その時は必ず曳き子は鉢巻を取って頭を垂れる、というしきたりがあります。

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とりあえずそこまでの事前情報として。話を進めます。

後吹きという宴の話に戻りまして、そこで囃子方による演奏が始まったわけです。その時は、皆さんお酒飲んで談笑してる真っ最中なのですよね。

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その中で、お囃子からお神楽に曲目が切り替わった瞬間。

みんなが一斉に正座して会話を謹んで、ぴたっと演奏に耳を傾けるのです。

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お神楽!この神事の重要性を、僕はまた改めて感じまして。

その瞬間にも、また涙がこぼれたのです。お酒を飲んで慰労をしている最中でも、みんな、お神楽が流れるときちんと襟を正す。老若男女、みんなが誰に言われているわけでもなく、きちんと礼節を知っているわけです。こんな素晴らしいことってあるか!こんな素敵な世界ってあるか!

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そうなんだ。そうなんだ。お金儲けのイベントや経済活動、観光コンテンツなんかじゃないんだ。これは、伏木神社例大祭なんだ。そんな素晴らしいことに僕は参加させてもらってるんだ。今年一年、しっかり生きなければバチが当たる。本当に、そう思ったら、目が赤くなってきたのです。

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そう、これを書いてて、また身体が熱くなってきました。

今年の祭りは、いつもにも増して、最高でした。

これからまた1年、来年の山車を曳くまで、僕はまた頑張ります。

ちなみにここまで書いて、まだ見出しだけしか書いてないつもりです。本当にまだまだ書き足りません。来年まで皆さんつんだってきてください。(※-富山弁における「ついてくる」の意)

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※そんなに感きわまるくらいなら地元捨てて出ていくんじゃないこのハゲ。と言われそうですが、それはそれでまた大人の事情としていろいろあるわけですよ。祭りは僕の心の拠り所だけど、僕が世の中で価値を生み出す仕事や家族はまた別のところにもあるわけですよ。そこはまた、ほら、飲んだらお話ししましょう。

手紙

IMG_2843ずっと、仲良くさせていただいている素敵な方と、公園で待ち合わせをし、食事をし、雨の中を楽しく歩き、本屋を散策してきた。

こう書くとデート以外の何物でもないが、その通りなので許してほしい。

僕らは幸せに生きることを、許されて生きているのだ。

いつも、感謝の気持ちを忘れない。

東海道、細雪、Prince、お祭り(これは僕の一方的な話題)、経理や財務話題に尽きることはない。素敵とは、教養溢れて洒脱に生きることを含有している。

その中で、ふと手紙についての話題があった。

これまでにもらった手紙、送った手紙、その機微、感情について。

もともとは、谷崎潤一郎の往復書簡の話題から広がったものだった。でも、自分自身を振り返ってみて、書簡遍歴を見直してみたくなった。帰宅してから、僕は本棚の奥から書簡箱を一つ、取り出した。

僕が二十代の頃は、まだデジタルもそんなに発達しておらず、コミュニケーションは主に電話や手紙だった。そして、僕は(今もそうだが)人の縁に恵まれていた。結果、僕は多くの方と書簡を交わしてきた。

今、改めて思う。もっともっと、向き合ってこれば良かった。こんなにも手紙を交わしてくれる方々がいたのだから、もっともっと僕も書いてくれば良かった。

何より、僕は自分の筆跡が嫌いで、手紙を書くことが憂鬱だった。自分の字が嫌い、ただその一点において。僕自身が「男が手紙を書くなんて」「他者に読まれたら恥ずかしいじゃないか」という棒にも箸にもかからない自縄自縛な古い価値観に囚われていて、目の前の大事な人たちとの言葉の交わし合いを避けてきたのだ。ああなんという大バカもの。字くらい練習したらいくらでも綺麗になるやんか。たくさん書けばいいやんか。今、若い頃の自分にあったら「ぼくのかんがえたさいきょうのひっさつわざ」を自分自身にかけまくりたい。どんなものか知らんけど。

僕が頂いた手紙を数年ぶりに箱から出してみて、改めてその価値に気がついた。僕がもらったこの手紙たちには、筆跡や便箋、封筒に至るまで、その全て、細部に至るまで、愛情や思いやりに溢れている。便箋を選ぶところから、ペンを紙に触れる瞬間、投函する瞬間、みんなは何を思ってくれていたのだろう。それを考えると熱いものがこみ上げてくる。僕はそれほどまでに素晴らしいものを頂いていたのだ、こんなにも素晴らしい往復が自然と交わせる文化の中に生きていたのだ、と。デジタル埋没の毎日を送っている自分自身、これほどまでにメールやLiNEのやり取りで心を動かすことがあっただろうか。

(いや、逆にデジタルでも感動するやり取りを追求することも、僕らの使命だと感じながらも)

いや、過去ばっかり見ていても仕方ない。これからでも書けるじゃないか。書こう。恥ずかしがらずに、きちんとコミュニケーションを取っていこう。メールやメッセージに限らず、僕らはこんなに素敵なコミュニケーションツールを100年以上前から手に入れていたのだから。そして、この手紙たち、20年以上前のものでも、しっかりと僕の手元に残っている。サーバが飛んだとか、そんなチャチなものでは消えていかない。少しづつ滲んでいくボールペンの筆跡さえも、感情を震わせるのだ。

この歳になると、僕も自分がこの世を退場する時のことを(ほんのわずかだが)考える。

その時は、この手紙たちも一緒に焼かれたい、と願っている。

ありがたくも、僕はいろんな宝物に恵まれているけど、その中でも書簡集は特別なものだ。

どこにも印刷されていない、誰も持っていない、どこにも公開、リリースされない、僕だけのコンテンツ。

まるで、幼稚園児が自分で作り上げた、自分だけの飛行船のような。